アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
授業の間一言もしゃべらなかったのに告げ口屋とはどういうことなのかピトゥにはわからなかった。授業の間中、同級生やフォルチエ神父の話は聞こえていたものの、ピトゥには理解できないことばかりだったので、少年から罵られたのにも自分には難し過ぎるのだと考えていた。
ピトゥが昼に戻って来たのを見て、教育に糸目をつけずにお金をかけたと思われていたアンジェリク伯母が、何を習ったのかとたずねた。
口を閉ざすことを学んだ、というのがピトゥの答えだった。ピタゴラス派に相応しい答えといっていい。ただしピタゴラス派なら身振りで答えるところだが。
午後になるとピトゥはさして嫌がりもせず教室に戻った。朝の授業は生徒たちがピトゥの肉体を改めることに費やされたが、午後の授業は教師がピトゥの精神を改めることに費やされた。結果的にピトゥがロビンソン・クルーソー・タイプの人間だというフォルチエ神父の評価は変わらず、フォントネルやボシュエになる可能性は限りなく低いと見積もられた。【ベルナール・フォントネル、1657-1757、フランスの思想家。ジャック=ベニーニュ・ボシュエ、1627-1704、フランスの神学者。】
将来の神学生にとって、午後の授業は朝よりもっとしんどいものだった。ピトゥのせいで罰を受けた生徒たちが、何度も拳を振り上げた。文明国であれなかれ世界中のどの土地でもその行為の意味するところは脅しにほかならない。ゆえにピトゥは警戒を怠らなかった。
ピトゥは正しかった。外に出ると――より正確に述べるなら参事会教会付属の建物から出た直後、居残りをさせられた六人を見て、経費、利息、元金すべて引っくるめてれから二時間にわたって無理矢理拘束されることになるのだ、と悟った。
こうなったら殴り合いせざるを得まい。アエネーイス(Énéide)の第六巻を習ったのは昔のことだったが、若きダレスと老エンテルス(Darès et le vieil Entelle)が殴り合いをしてトロヤの亡命者から拍手喝采を受けたことは覚えていたし、そうした息抜きがこの町の農夫にとっても取り立てて特別なことではないとわかっていた。そこで、そんなに喧嘩したいのなら、六人と順番に戦う用意は出来ている、と言ってのけた。これを聞いて六人目の生徒はじっくり考え始めた。
状況はピトゥの望む通りになった。周りに輪が出来ると、二人は上着を脱ぎ捨て、或いは礼服を脱ぎ捨て、互いに歩み寄った。
お話しした通り、ピトゥの手は見目よいものではないし、触れて気持のいいものでもない。ピトゥは子供の頭大の拳を腕の先で振り回した。まだボクシングはフランスに伝わっていなかったから、ピトゥとて基礎すら身につけてはいなかったのだが、振り抜いた拳が一人目の目に何とか的中したために、相手の目の周りには優れた数学者がコンパスで計ったような黒い正円が見る見るうちに浮かび上がった。
二人目が出て来た。ピトゥに一戦目の疲れが残っていようと、今度の対戦者は一人目ほど強そうではなかった。ゆえに勝負はあっけなく終わった。見事な拳が鼻に命中し、それが証拠に鼻血が二筋吹き出していた。
三人目は歯を折られて退いた。三人のうちでもっとも軽傷だった。残った三人はもう充分だと口々に答えた。
ピトゥが人垣を分けると、畏まって道を譲られたので、つつがなく家――とはつまり伯母の家――に戻った。
翌日、三人が登校すると、一人は目を腫らし、一人は鼻を腫らし、一人は口唇を腫らしてていたので、フォルチエ神父が何事かと問いつめた。だが三人にはいいところもあった。みんな口が堅かったので、フォルチエ神父は遠回りをして――即ち喧嘩の目撃者経由で――翌日になってから、昨日気になっていた顔の傷をつけたのはピトゥである旨を知ったのである。