翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 05-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第五章 農場の哲学者

 ピトゥは悪魔の集団に追いかけられでもしたように全速力で走り、あれよという間に村の外れにいた。

 墓地の角を曲がると、馬の尻に顔を突っ込みそうになった。

「危ない!」聞き慣れた甘い声がした。「そんなに急いで何処に行くの、アンジュさん? カデが昂奮しちゃうじゃない。驚かさないでよ」

「カトリーヌさん!」問いかけに応えたのではなく、自分に向かって口にした一言だった。「カトリーヌさんだ、何てこった!」

「何なの?」カトリーヌは道の真ん中で馬を止めた。「どうしたの、アンジュさん?」

「実は……」ピトゥは罪でも打ち明けるように答えた。「神父にはなれなくなったんです」

 だがピトゥの予想に違い、ビヨ嬢はけたたましく笑い出した。

「神父になれないですって?」

「ええ。駄目みたいです」ピトゥは力なく答えた。

「だったら軍人になればいい」

「軍人に?」

「ええ。つまらないことにくよくよするもんじゃないわ。伯母さまが急死なさったのかと思っちゃったじゃない」

「はぁ」というその一言に胸の裡が込められていた。「死んじゃったのと一緒です。伯母のところを追い出されてしまったんですから」

「ごめんね」ビヨットはなおも笑っていた。「伯母さまを悼んであげられるほど余裕がないのね」

 カトリーヌがいっそう声をあげて笑いこけたのが、ピトゥの癇に障った。

「追い出されたって言ったじゃないですか!」

「あらよかった!」

「そんなふうに笑ってられるなんてうらやましいですよ、ビヨさん。それも長所ですよね。他人が悲しんでいるのを見ても何にも感じないなんて」

「本当に悲しいことが起こったのなら、気の毒に思うに決まってるでしょう?」

「同情してくれるって言うんですか? でもあなたは知らないんだ。ボクにはもう何にもないんです!」

「なおいいわ!」

 ピトゥはもう何が何だかわからなくなっていた。

「それにご飯も! 食べなくちゃやってけません。いつもお腹がぺこぺこなんですから」

「働くつもりはないの、ピトゥさん?」

「何をして働くっていうんですか? フォルチエ神父とアンジェリク伯母さんに嫌というほど言われましたけど、ボクには何にもいいところがないんです。神父にさせようとなんかしないで、家具屋さんや車大工さんのところで見習いさせてくれていたらよかったのに! きっと呪われているんでしょうね」ピトゥは絶望に喘いだ。

「可哀相!」カトリーヌは同情的だった。この辺りでピトゥの哀れむべき事情を知らぬ者などいなかったのだ。「アンジュさん、あなたの言い分ももっともだけど……一つ忘れてない?」

「何をですか?」溺れた人間が柳の枝にすがりつくように、ピトゥはビヨ嬢の言葉にすがりついた。「教えて下さい」

「後見人がいらっしゃるじゃない」

「ジルベール医師せんせいですか?」

「息子さんとお友達だったんでしょう。二人ともフォルチエ神父のところで教わっていたんだから」

「そうですよ。それどころか、いじめられているところを助けてあげたことも何度もありました」

「ねえ、だったらどうしてお父様に知らせないの? 絶対に何とかしてくれるはずよ」

「今どうしているのか知っていればそうしてます。でもビヨさんのお父さんなら知っているかもしれませんね。ジルベール先生は地主なんですから」

「アメリカで小作料の一部をパパに渡して、残りをパリの公証人に預けていたと聞いたっけ」

 ピトゥはため息をついた。「アメリカか……何て遠いんだろう」

「アメリカに行くつもり?」ピトゥの考えを察してはっとした声をあげた。

「ボクが? まさか! 行き場と食べる手だてさえわかれば、フランスで楽しく暮らせるのに」

「楽しく?」ビヨ嬢が繰り返した。

 ピトゥは目を伏せた。ビヨ嬢が言葉を継がなかったため、沈黙がしばらく続いた。ピトゥは考えに耽っていた。論理の人たるフォルチエ神父がそれを見たらば驚いたに違いあるまい。

 一つ曖昧な点があるのを明らかにしようと考えに耽った結果、霧は晴れた。と思ったそばから、雲に覆われた。如何に光が輝いていようとも、稲妻の出ずる来し方が見えず、その源流の何処いずことも知れぬが如く。

 ところがカデがゆるりと歩き始めたため、ピトゥも籠に手を置いたままカデに併行し出していた。カトリーヌ嬢もまた考えに耽り始めていたのである。カトリーヌ嬢は馬が暴れる可能性を一顧だにせず、手綱をゆるめていた。もっとも、路上に怪物などいるはずもなく、カデの血筋はヒッポリュトスの馬とは何の繋がりもない。

 馬が止まるとピトゥも止まる。気づけば農場に着いていた。

「おや、おまえさんか、ピトゥ!」雄々しい立ち姿の猪首の男が声をあげた。水たまりで馬に水を飲ませている。

「ええボクです、ビヨさん」

「ピトゥさんが困ってるの」カトリーヌが馬から飛び降りた。ペチコートがめくれ、ガーターの色が見えようともお構いなしだ。「伯母さまに追い出されちゃったんだって」

「あの業突張りに何をしたってんだ?」

「ギリシア語があまり得意じゃなかったからだと思います」とピトゥが言った。

 愚かなるかな見栄なるものは! ラテン語が、というべきであったのに。

「ギリシア語が苦手だ?」肩幅の広いビヨ氏がたずねた。「どうしてギリシア語に強くなりたいんだ?」

「テオクリトスを理解して、イリアスを読みたいからです」

「それが何の役に立つ?」

「神父になるためです」

「おいおい。俺はギリシア語が出来るか? ラテン語が出来るか? フランス語が出来るか? 読み書きが出来るか? 出来ないからと言って、種蒔きや収穫や蔵入れするのに困ることがあるか?」

「ありませんけど、ビヨさんは神父じゃなくて、農夫じゃありませんか。ウェルギリウスが言うような、agricola農夫なんです。Ô fortunatos nimium何と幸いなるかな……」

「百姓が坊主より劣っているとでも? だったらそう言っとくんな、小坊主! 外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を持っていてもか?」

「神父であるにくはなし、って散々言われましたけど」ピトゥはとっておきの笑顔を見せた。「言われたことをすっかり忘れてしまうのも得意ですから」

「おまえさんは間違ってないさ。俺だってその気になれば詩も書けるんだ。神父より向いていることがあるんじゃないのか。どのみちこの時期なら神父にならないのは好都合だ。百姓の経験から言わせてもらうと、神父でいるには風向きが良くない」

「風向きが?」

「ああ、嵐が来る。嘘は言わん。おまえさんは正直で、頭もいい……」

 ピトゥは深々とお辞儀をした。頭がいいなどと褒められたのは生まれて初めてだ。

「だから神父にならずとも暮らしていけるさ」

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『アンジュ・ピトゥ』 04-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「不純な行為は悪徳の母なんだよ」アンジェリク嬢は格言でも引用するように遮ってみせた。

「伯母さん、もっかい言いますけど、いけないことをしてたから追い出されたんじゃないんです。文法が滅茶苦茶だったうえに、言い間違いも多かったから、奨学金を手に入れる見込みを自分から手放してしまったようなものなんです」

「見込みがパーだって? じゃあ奨学金はもらえないのかい? 神父にはなれないのかい? あたしは家政婦にはなれないのかい?」

「ごめんなさい、伯母さん!」

「それじゃあ将来いったい何になるつもりだい?」

「わかりません」ピトゥは絶望的な仕種で天を仰いだ。「どうすれば神の御心に適うんでしょうか?」

「神様だって? それならわかってるよ。混乱させて、新しい考えを吹き込み、哲学の原理を教え込めばいいのさ」

「そんなの無理です。修辞学を習ってからじゃないと、哲学学級には入れないし、第三学年から上には行けたことがありませんから」

「馬鹿をお言いでないよ。あたしの言っている哲学ってのは、哲学者の哲学のことさ。ムッシュー・アルエの哲学、ムッシュー・ジャン=ジャックの哲学、『修道女』を書いたムッシュー・ディドロの哲学のことだよ」

 そう言ってアンジェリク嬢は十字を切った。

「『修道女』ですか?」

「読んだかい?」

「読んでるわけないじゃないですか!」

「だから教会が嫌なんだね」

「そうじゃなくて、教会がボクを嫌ってるんです」

「やっぱりこの子は蛇だよ。口答えしちゃって、まあ」

「口答えじゃなくて、返事をしただけです」

「終わったねえ!」アンジェリク嬢は嘆きをあげ、例の椅子にくずおれた。

 なるほど『ピトゥが』終わってしまえば、それはそのままアンジェリク嬢自身が終わったことを意味する。

 一刻一秒を争う。アンジェリク伯母は決断を下した。足にバネがついてでもいるように勢いよく立ち上がり、フォルチエ神父に会いに走り出した。説明を求めるためと、なかんずく差し向かいで説得を試みるためだ。

 伯母が玄関から出て見えなくなったため、ピトゥが玄関に出てみると、ソワッソン街に向かってがむしゃらに突進している伯母が見えた。それを見て、伯母が何をしたいのかがピトゥにもわかった。先生のところに行くのだ。

 これで十五分、静かな時間が出来た。有効利用しなくては……これぞ神が与え給うた十五分だ。蜥蜴の餌にするために伯母の昼食の残りをかき集め、蟻と蛙に食べさせるために蠅を二、三匹捕まえた。次に長持と戸棚を開けて、いそいそと自分の分の食事を取った。一人になった途端に食欲が舞い戻って来たのだ。

 それが終わるとピトゥは戸口に戻り、第二の母が戻って来て驚かされないように、見張りを再開した。

 第二の母とはアンジェリク嬢が自ら名乗った呼び名である。

 ピトゥが見張りを続けている間に、一人の少女がプリューの外れを通りかかった。そこはソワッソン街の端とロルメ街の端を結んでいる路地に通じている。少女は二つの籠を背負った馬に跨っていた。籠の一つには鶏肉が、もう一つには鳩が詰まっている。カトリーヌだった。アンジェリク嬢の家の戸口にピトゥがいるのを見つけて馬を止めた。

 ピトゥはいつものように真っ赤になって、口をぽかんと開けたまま、見つめていた――言い換えるならば、見とれていた。何となればビヨ嬢こそがピトゥにとって人類最高の美の化身だったのである。

 ビヨ嬢は通りに目をやり、頭を軽く下げてピトゥに挨拶すると、そのまま先に進んで行った。

 ピトゥは喜びに震えながら挨拶を返した。

 演じられたのはささやかな場面であったが、経過したのはそれなりの時間であった。ピトゥは我を忘れてカトリーヌ嬢のいた場所を見つめ続けていたために、アンジェリク伯母がフォルチエ神父のところから戻って来たことに気づかなかった。怒りに青ざめた伯母に手をつかまれて初めて気づいたのだった。

 アンジュは瞬く間に麗しい夢から覚めた。アンジェリク嬢に触れられるたびに、いつも決まって電気を流されたような衝撃に打たれた。振り返ったピトゥは、青筋を立てている伯母の顔から目を移して自分の手を見つめ、恐怖におののいた。手にはパンの半切れがあり、二つに重ねた新鮮なバターと白いチーズがたっぷりと塗られているではないか。

 アンジェリク嬢の罵声が飛ぶや、ピトゥは怯えた声を出した。アンジェリク嬢の歪んだ手が上がるのを見て、ピトゥは頭を低くした。アンジェリク嬢がそばにあった箒の柄をつかむと、ピトゥはパンを落として言い訳もせず一目散に逃げ出した。

 こうして今しがた二人とも互いの気持を理解した。二人の間には何物をも存在し得ないことはよくわかっていた。

 アンジェリク嬢は家に戻って扉を閉め、しっかりと錠を掛けた。錠の軋りが嵐のような音を立てる。ピトゥはそれを聞いて恐ろしい思いをいっそう募らせた。

 こうしてこの場面から導き出されたのは、アンジェリク嬢が極めて遠くまで先を見通せるのに対して、ピトゥは先を読むことが出来ない、という結論である。


 第五章に続く。

『アンジュ・ピトゥ』 04-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「伯母さん、何だか具合が悪いんです!」嘲りや非難を見越して、或いは憐れんでもらおうとして、ピトゥは訴えた。

「そいつならよくわかってるよ。時計の針が一時間半戻れば簡単に治るんだろう」

「違うんです! お腹が空いているわけじゃありません」

 アンジェリク伯母は耳を疑い、不安にさえなった。具合が悪いと聞けば、良き母であろうと継母であろうと不安になるものだ。良き母は病気によって深刻な事態が引き起こされるのを恐れて。継母は財布の口がなくなるのを恐れて。

「何があったんだい? 話してご覧」

 だが優しさなど微塵も籠っていないその言葉を聞いて、アンジュ・ピトゥは泣きじゃくりながら打ち明けざるを得なかった。ぐずって泣くその歪んだ顔は、およそ人の見ることの出来る顔のうちでも群を抜いて醜いものだった。

「伯母さん! 最悪なことが起こったんです」

「どんなことだえ?」

「神父さんに追い出されてしまったんです!」アンジュ・ピトゥは泣きじゃくって声をあげた。

「追い出された?」いまいちよくわからないというように復唱した。

「そうなんです」

「何処から追い出されたんだい?」

「学校からです」

 ピトゥの泣き声がいよいよ大きくなった。

「学校から?」

「はい」

「完全に?」

「はい」

「だったら、定期試験も選抜試験も奨学金も神学校もパーなのかい?」

 ピトゥの嗚咽が咆吼に変わった。アンジェリク嬢は目を皿のようにして、心の奥まで見透かして退学の原因を探ろうとした。

「また森にお勉強しに行ってたんだろう。またビヨ農場の辺りをうろついてたんだろう。将来は神父になれたはずなのに!」

 アンジュは首を横に振った。

「嘘つくでないよ!」事態は深刻だと確信するにつけ、老嬢の怒りは膨れ上がった。「この嘘つきが! 日曜日にまたビヨットとスピール小径にいるのを見られてるんだからね」

 嘘をついていたのはアンジェリク嬢の方であった。だが常日頃から、信心深い人間には嘘をつく権利があると考えていたので、「嘘も方便」なる詭弁を弄した。

「スピール小径で見られてるわけありませんよ。オランジェリの辺りを歩いていたんですから」

「そらみたことか! やっぱり一緒にいたんじゃないか」

「でも伯母さん」アンジュは真っ赤になって答えた。「今はビヨさんのことはどうでもいいんです」

「ああそうだね。さん付けしておけば不純交遊もごまかせるだろうさ! あのあばずれ、懺悔僧にチクってやろうかね!」

「だけどビヨさんはあばずれじゃありませんよ」

「やましいところがあるから庇うってわけだ! そのうちいちゃつき出すんだろうさ。どうなっちゃうんだろうねえ!……十六歳の子供たちだよ!」

「カトリーヌといちゃついてなんかいませんでした。カトリーヌはいつもそっけないんですから」

「ほら口を滑らしたね! カトリーヌと呼び捨てにしたじゃないか! つれないのはうわべだけ……人に見られてるからさ」

 ピトゥが顔を輝かせた。「そう言えばそうですね。そんなこと考えもしませんでした」

「いいかい」ピトゥが素直に叫んだのを利用して、ビヨットと通じ合っているのを認めさせようとした。「任せておきな。あたしが元通りにしてやるからね。フォルチエ神父があの娘の懺悔僧だったね。神父さんに頼んであんたを閉じ込めて、二週間パンと水だけにしてもらおう。カトリーヌ嬢ちゃんも修道院に入って恋心を抑えなくちゃならないのなら、試してみるといいさ。サン=レミに行ってもらおうかねえ」

 あまりにも力強く確信に満ちたその言葉に、ピトゥは震え上がった。

「誤解です」ピトゥは両手を合わせた。「ボクが非道い目に遭ったのは、ビヨさんとは関係ありません」

『アンジュ・ピトゥ』 04-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第四章 一つの破格と七つの誤用が人生に及ぼす影響

 読者諸兄の察しの良さがどれほどのものにせよ、学校を追い出されたピトゥが自分の立場に気づいた時の恐怖が如何ほどのものであるのかを理解していただくためには、これまで事細かに説明して来たのもゆえあってのことだと了承されたい。

 ピトゥは片手を下げ、頭に乗せた長持を片手で支え、フォルチエ神父の怒鳴り声にいまだ耳を震わせながら、物思いに耽るというよりは極度の茫然自失に陥ったまま、プリューに向かった。

 ようやく頭に浮かんだことがあり、その思いのすべてが口唇から洩れた。

「そうだ! 伯母さんに何て言おう!」

 すべての希望が潰えたことを、これからアンジェリク嬢に伝えなくてはならないのだ。

 だがピトゥがアンジェリク嬢の思惑を知るすべと言ったら、主人の思惑を推し量る忠犬と一緒だった。言い換えるなら、表情を確かめることによって。本能こそかけがえのない案内人だ。過つことはない。翻って、理性なるものは想像によって歪められることがある。

 沈黙の末にアンジュ・ピトゥが口唇からほとばしらせた痛ましい悲鳴の意味は、つまり衝撃的な報せを聞いた伯母がどれだけの不満を募らせるのかを理解した、ということにほかならない。これまでの経験から、その結果どうなるかはわかっている。だが今回ばかりは、不満の原因となった勢いが未知数なだけに、どんな結果が待ち受けているのか想像も出来なかった。

 斯かる恐ろしい気持でプリューに足を踏み入れた。フォルチエ神父の門を出てからこの道のとば口に来るまで十五分近くもかかったが、距離にして三百歩しか離れてはいない。

 教会の時計が一時を打った。

 その時気づいた。神父と最後の会話を交わしたりたったこれだけの距離をとぼとぼと歩いていたりしたせいで、六十分も遅くなっていた。つまりアンジェリク伯母の家で昼食を摂るために着かなければならない時間を三十分も過ぎていたのだ。

 既に述べたように、これがピトゥの居残りやのぼせ上がりに対して老嬢が取った有効な対策であった。こうして老嬢は哀れなピトゥの食事を六十食ばかり浮かせていた。

 だが今回ばかりは遅れて心配しているのは昼食ではなかった。たとい朝食を抜いていたとしても、今のピトゥには気がかりなことが多すぎて、胃袋が空っぽであることにまでは気が回らなかった。

 落ちこぼれであろうと学生なら誰もが知っている。学校から除名されたら、後は何処か辺境で誰にも認められずに過ごすしかないことを。級友たちが鞄と教科書を抱え毎日授業に行っている間も、問答無用で休暇を取らざるを得ないのだ。あれほど嫌だった学校が今では恋しかった。作文にも翻訳にもこれまで真面目に取り組んだことはなかったというのに、自分がいないところで取り組まれているかと思うと、いてもたってもいられない。教師に追い出された生徒と不敬がもとで破門された生徒の間には幾つもの共通点がある。もはや教会には戻れないというのに、弥撒を聴きたくてたまらない。

 だからこそ、伯母の家に近づくほどに、そこで過ごすことが恐ろしく思えた。だからこそ、殺戮の天使フォルチエ神父が炎の剣の代わりに鞭をふるった学校を、人生で初めて、地上の楽園だったのだと感じていた。

 だが如何にゆっくり歩いて、十歩ごとに立ち止まり、近づくにつれて立ち止まっている時間を長びかせようとも、結局は敷居を跨がないわけにはいかない。戸口にたどり着いたピトゥは足を引きずり、無意識に手でキュロットの縫い目を叩いていた。

『アンジュ・ピトゥ』 03-6 終わり

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 フォルチエ神父は生徒の父母に対して、精神面はもちろん肉体面も保証していたので、三家族から抗議の三重奏を聞かされることになった。罰を受けるのは免れ得ず、ピトゥは三日間の居残りを命じられた。一日は目の分、一日は鼻の分、一日は歯の分である。

 三日間の居残りと聞いて、アンジェリク嬢には閃いたことがあった。フォルチエ神父がピトゥに帰宅を禁じたように、昼食を禁じてはどうか。そうすればピトゥの教育にいい影響を与えるに違いない。今回は二つの罰を受けることになったが、今後は過ちを犯す前によく考えるようになるはずだ。

 ただしピトゥには、一言もしゃべっていないのに告げ口屋と言われた理由も、殴りかかって来た人間を殴ったからといってどうして罰せられなければいけないのかも、決して理解できないだろう。だがこの世の理をすべて理解することなど、謎と偶然という人生の大事な楽しみを失うことに等しい。

 居残りさせられた三日間、ピトゥは朝食と夕食だけで腹を満たした。

 腹を満たした、というのは正確ではない。ピトゥはちっとも満ち足りていなかったのだから。だが我々の言語には限界があるし、アカデミーは寛容ではないので、我々としては既にある言葉で満足せねばなるまい。

 ところが、買わざるを得なかった喧嘩だということには一言も触れずに、甘んじて罰を受けたことで、ピトゥは同級生たちの尊敬を勝ち得た。見事な拳を三発入れたのを目撃されたことがこの敬意の理由であると見て、まず間違いはない。

 この日からピトゥの日常はほかの生徒と変わらなくなった。一つだけ違う点を挙げれば、ほかの生徒の試験の結果がその時々の運次第だったのに対し、ピトゥはビリから五、六番目の順位を守り抜き、ほかの生徒の優に二倍は居残りをさせられていた。

 ただし言っておくと、ピトゥの気質、最初に受けた――というか、受けなかった教育による気質、居残りの三分の一はその気質のせいだと見積もっておかなくてはなるまい。即ち動物に寄せる偏愛である。

 アンジェリク伯母が畏れ多くも机と名づけ給うた例の長持は、広い内部にピトゥが幾つも仕切りを作ったために、さながらノアの方舟の如く、様々な虫や小動物がよじ登ったり這ったり飛んだりしていた。蜥蜴、蛇、蟻地獄、黄金虫、蛙たちが、厳しい罰の原因となればなるほど愛おしさも増すのであった。

 これは一週間にわたる散策の賜物であった。ピトゥは前々から山椒魚火蜥蜴が欲しかった。フランソワ一世の紋章であり、暖炉という暖炉に彫られていた火蜥蜴は、ヴィレル=コトレではことのほか人気があったのだ。それをようやく手に入れることが出来た。しかしながら一つだけ気になったことがあり、それも最終的には理解の範疇を越えている幾多の物事と一緒くたに放り投げてしまったのだが、それは即ち、詩人たち曰く火中に生きるというこの爬虫類がいつも決まって水中で見つかったという事実である。これによって生真面目なピトゥに詩人への軽蔑が芽生えた。

 二匹の山椒魚を手に入れたピトゥは、次に避役カメレオンを探し始めた。だが今度はいくら探しても無駄であり、如何なる努力も実らなかった。仕方なくピトゥは結論づけた。カメレオンは存在しない。存在するとしてもこの辺りの緯度には棲息していないのだ。

 この点がはっきりするや、ピトゥは敢えてカメレオンを探そうとはしなくなった。

 居残りの残り三分の二の理由は、文法の破格と誤りである。これがピトゥの作文の中に、麦畑の毒麦の如く芽を出していた。

 木曜と日曜は休みだったので、これまで通り水たまりに通って密猟を続けていた。ただしピトゥも大きくなり、身長五ピエ四プス【約170cm】、十六歳になっていたために、習慣を変えるある事態が起こった。

 ブリュイエール=オー=ルーの途上に、恐らくはフランソワ一世の愛妾アンヌ・デイリーの名にあやかったであろうピスルーという村があった。

 この村にビヨという農家があり、この農家の戸口に、たまたまピトゥが行き来する際に、決まって十七、八の美しい娘が立っていた。瑞々しく、色っぽく、朗らかで、カトリーヌという洗礼名で呼ばれていたが、父親の名からビヨットと呼ばれることの方が多かった。

 ピトゥは初めこのビヨットに会釈していたが、やがて大胆にも会釈に加えて笑いかけるようにもなった。そしてついにある日、会釈と笑顔を送ってから立ち止まり、顔を赤らめながら大胆にも次のような言葉をかけた。

「こんにちは、カトリーヌさん」

 カトリーヌは良い子だった。ピトゥを旧知のように受け入れた。事実、二、三年前から週に一度は家の前を通り過ぎるのを見ていたという限りに於いて旧知であったのだ。ただしカトリーヌはピトゥを見ていたが、ピトゥはカトリーヌを見ていなかった。何となればピトゥが通り始めた頃、カトリーヌは十六歳だったが、ピトゥはまだ十四歳でしかなかったからだ。だが今回の出来事が起こった時には、ピトゥの方が十六歳になっていた。

 カトリーヌは少しずつピトゥの才能を理解し始めた。ピトゥが肥えた鳥や兎をお土産にして才能の一端を明らかにしていたこともあって、カトリーヌはピトゥにお礼を言うようになった。ピトゥの方は言われ慣れていないお礼を言われれば言われるだけどぎまぎし、経験したことのない気持ちよさにとろけ、いつものようにブリュイエール=オー=ルーの道を進むこともやめて途中で立ち止まり、ブナの実を集めたり罠を仕掛けたりすることもやめてビヨ家の周りをうろついて時間を潰し、ほんの一瞬でもカトリーヌを見たいと願っていた。

 結果、作る兎革の量が目に見えて減り、駒鳥と鶫に至ってはほぼ無くなってしまった。

 これにはアンジェリク伯母が黙っていなかった。ピトゥが答えて言うには、兎も用心深くなったし、鳥も罠に気づいて葉の窪みや木のうろで水を飲むようになったのだそうだ。

 だがアンジェリク伯母には一つの慰めがあった。兎に智恵がついたのも鳥の気が回るようになったのも哲学が進歩したせいだが、甥がいずれは奨学金を手に入れ、神学校に入り、そこで三年間を過ごし、神学校を出て神父になる。神父の家政婦となることは、アンジェリク嬢の長年の夢であった。

 この夢が叶えられるのは間違いない。アンジュ・ピトゥが神父になれば、伯母を家政婦にせざるを得まい。何しろそれまで散々ピトゥのために尽くして来たとなれば。

 一つだけ、きらめく夢を揺るがす気がかりがあった。フォルチエ神父にその話をした時に、神父から首を振ってこう言われたのだ。

「ピトゥさん。神父になろうと思ったら、甥御さんは博物学への興味を抑えて、『偉人伝(De viris illustribus)』や『Selectae e profanis scriptoribus(historia)Jean Heuzet、1660-1728』にもっと関心を持たなくてはなりません」

「どういうことでしょうかね?」

「文法の誤りと破格が多過ぎるんですよ」

 その答えを聞いて、アンジェリク嬢は悲しみの波間に漂うに任せていた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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