アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第五章 農場の哲学者
ピトゥは悪魔の集団に追いかけられでもしたように全速力で走り、あれよという間に村の外れにいた。
墓地の角を曲がると、馬の尻に顔を突っ込みそうになった。
「危ない!」聞き慣れた甘い声がした。「そんなに急いで何処に行くの、アンジュさん? カデが昂奮しちゃうじゃない。驚かさないでよ」
「カトリーヌさん!」問いかけに応えたのではなく、自分に向かって口にした一言だった。「カトリーヌさんだ、何てこった!」
「何なの?」カトリーヌは道の真ん中で馬を止めた。「どうしたの、アンジュさん?」
「実は……」ピトゥは罪でも打ち明けるように答えた。「神父にはなれなくなったんです」
だがピトゥの予想に違い、ビヨ嬢はけたたましく笑い出した。
「神父になれないですって?」
「ええ。駄目みたいです」ピトゥは力なく答えた。
「だったら軍人になればいい」
「軍人に?」
「ええ。つまらないことにくよくよするもんじゃないわ。伯母さまが急死なさったのかと思っちゃったじゃない」
「はぁ」というその一言に胸の裡が込められていた。「死んじゃったのと一緒です。伯母のところを追い出されてしまったんですから」
「ごめんね」ビヨットはなおも笑っていた。「伯母さまを悼んであげられるほど余裕がないのね」
カトリーヌがいっそう声をあげて笑いこけたのが、ピトゥの癇に障った。
「追い出されたって言ったじゃないですか!」
「あらよかった!」
「そんなふうに笑ってられるなんてうらやましいですよ、ビヨさん。それも長所ですよね。他人が悲しんでいるのを見ても何にも感じないなんて」
「本当に悲しいことが起こったのなら、気の毒に思うに決まってるでしょう?」
「同情してくれるって言うんですか? でもあなたは知らないんだ。ボクにはもう何にもないんです!」
「なおいいわ!」
ピトゥはもう何が何だかわからなくなっていた。
「それにご飯も! 食べなくちゃやってけません。いつもお腹がぺこぺこなんですから」
「働くつもりはないの、ピトゥさん?」
「何をして働くっていうんですか? フォルチエ神父とアンジェリク伯母さんに嫌というほど言われましたけど、ボクには何にもいいところがないんです。神父にさせようとなんかしないで、家具屋さんや車大工さんのところで見習いさせてくれていたらよかったのに! きっと呪われているんでしょうね」ピトゥは絶望に喘いだ。
「可哀相!」カトリーヌは同情的だった。この辺りでピトゥの哀れむべき事情を知らぬ者などいなかったのだ。「アンジュさん、あなたの言い分ももっともだけど……一つ忘れてない?」
「何をですか?」溺れた人間が柳の枝にすがりつくように、ピトゥはビヨ嬢の言葉にすがりついた。「教えて下さい」
「後見人がいらっしゃるじゃない」
「ジルベール
「息子さんとお友達だったんでしょう。二人ともフォルチエ神父のところで教わっていたんだから」
「そうですよ。それどころか、いじめられているところを助けてあげたことも何度もありました」
「ねえ、だったらどうしてお父様に知らせないの? 絶対に何とかしてくれるはずよ」
「今どうしているのか知っていればそうしてます。でもビヨさんのお父さんなら知っているかもしれませんね。ジルベール先生は地主なんですから」
「アメリカで小作料の一部をパパに渡して、残りをパリの公証人に預けていたと聞いたっけ」
ピトゥはため息をついた。「アメリカか……何て遠いんだろう」
「アメリカに行くつもり?」ピトゥの考えを察してはっとした声をあげた。
「ボクが? まさか! 行き場と食べる手だてさえわかれば、フランスで楽しく暮らせるのに」
「楽しく?」ビヨ嬢が繰り返した。
ピトゥは目を伏せた。ビヨ嬢が言葉を継がなかったため、沈黙がしばらく続いた。ピトゥは考えに耽っていた。論理の人たるフォルチエ神父がそれを見たらば驚いたに違いあるまい。
一つ曖昧な点があるのを明らかにしようと考えに耽った結果、霧は晴れた。と思ったそばから、雲に覆われた。如何に光が輝いていようとも、稲妻の出ずる来し方が見えず、その源流の
ところがカデがゆるりと歩き始めたため、ピトゥも籠に手を置いたままカデに併行し出していた。カトリーヌ嬢もまた考えに耽り始めていたのである。カトリーヌ嬢は馬が暴れる可能性を一顧だにせず、手綱をゆるめていた。もっとも、路上に怪物などいるはずもなく、カデの血筋はヒッポリュトスの馬とは何の繋がりもない。
馬が止まるとピトゥも止まる。気づけば農場に着いていた。
「おや、おまえさんか、ピトゥ!」雄々しい立ち姿の猪首の男が声をあげた。水たまりで馬に水を飲ませている。
「ええボクです、ビヨさん」
「ピトゥさんが困ってるの」カトリーヌが馬から飛び降りた。ペチコートがめくれ、ガーターの色が見えようともお構いなしだ。「伯母さまに追い出されちゃったんだって」
「あの業突張りに何をしたってんだ?」
「ギリシア語があまり得意じゃなかったからだと思います」とピトゥが言った。
愚かなるかな見栄なるものは! ラテン語が、というべきであったのに。
「ギリシア語が苦手だ?」肩幅の広いビヨ氏がたずねた。「どうしてギリシア語に強くなりたいんだ?」
「テオクリトスを理解して、イリアスを読みたいからです」
「それが何の役に立つ?」
「神父になるためです」
「おいおい。俺はギリシア語が出来るか? ラテン語が出来るか? フランス語が出来るか? 読み書きが出来るか? 出来ないからと言って、種蒔きや収穫や蔵入れするのに困ることがあるか?」
「ありませんけど、ビヨさんは神父じゃなくて、農夫じゃありませんか。ウェルギリウスが言うような、
「百姓が坊主より劣っているとでも? だったらそう言っとくんな、小坊主! 外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を持っていてもか?」
「神父であるに
「おまえさんは間違ってないさ。俺だってその気になれば詩も書けるんだ。神父より向いていることがあるんじゃないのか。どのみちこの時期なら神父にならないのは好都合だ。百姓の経験から言わせてもらうと、神父でいるには風向きが良くない」
「風向きが?」
「ああ、嵐が来る。嘘は言わん。おまえさんは正直で、頭もいい……」
ピトゥは深々とお辞儀をした。頭がいいなどと褒められたのは生まれて初めてだ。
「だから神父にならずとも暮らしていけるさ」