アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
ビヨ夫人とカトリーヌが異を唱えたが、女どもは弥撒に行きたければ行くがいいさ、宗教は女のもんだ、と答えた。だが男である俺たちは、
哲学者ビヨも家の中では専制君主であった。カトリーヌだけはおふれに声をあげても何も言われなかったが、既に心が決まっている場合には眉をひそめられるだけなので、カトリーヌとて余人同様に黙るしかなかった。
だがカトリーヌはこの機会を逃さなかった。席を立って父親に言うことには、ピトゥの服装は明後日立派な話をするような恰好ではない、教壇に立つからには教師であり、教師であるからには、生徒の前で恥を掻くわけにはいかない、と。
ビヨ氏もこれを認め、ヴィレル=コトレの仕立屋デュロロワ氏とピトゥの服装について話し合う許可を娘に与えた。
カトリーヌの言うことはもっともであり、ピトゥには新しい服が必要だった。いつも履いているキュロットは五年前からの着古しで、ジルベール医師が長めに作らせていたのもとうに短くなっていた――が、公平を期してお伝えしよう。アンジェリク嬢が毎年二プスずつ裾を直して伸ばしていた。上着も外着も二年以上前になくなり、代わりに着ていたのがサージの上っ張りだった。我らが主人公はこの物語の一ページ目からその恰好で読者の前に姿を見せていたわけである。
ピトゥは身なりに無頓着だった。アンジェリク嬢の家にいた時には鏡など無意味なものでしかなかった。さりとてナルキッソスの如く我が身に恋してうつつを抜かすわけでもなく、鳥もち竿を仕掛けた池を見つめようとしたことなどなかった。
だがしかし、カトリーヌからダンスに誘われ、シャルニーなる貴公子の話題を聞き、カトリーヌの頭を飾る帽子の話を耳にしてからというもの、ピトゥは鏡を見つめ、みすぼらしい恰好を嘆き、どうすれば良いところを少しでも伸ばせるものかと悩みに悩んだ。
惜しむらくはピトゥはこの悩みに対する回答を持たなかった。服はぼろぼろだ。新しい服を買うにはお金がいるが、生来の文無しである。
笛や詩で栄冠を競う羊飼いたちが薔薇の冠を戴いて頭を飾っていたのはよく知っていた。だが当然ながら、冠を戴けば似合うのかもしれないが、それ以外の服がみすぼらしいことが際立ってしまうことにしかならない。
だから仕立ての素晴らしさに驚くことになる。日曜日の朝八時、ピトゥが外見を如何に見よく装うべきか頭を悩ましているところに、デュロロワが登場し、椅子の上に外着と空色のキュロットを置いた。薔薇色の縞の入った白いジレもある。
続いて入って来た肌着屋がシャツとネクタイを隣の椅子に置いた。シャツが合うようなら、半ダース作るよう指示を受けていた。
思いも寄らぬ時間だった。肌着屋の後ろから帽子屋が現れた。手にされた上品かつ多彩な最新式の三角帽は、ヴィレル=コトレ一の帽子屋コルニュ氏が腕によりをかけたものだ。
さらに靴屋が靴を履かせた。銀の留め金のついたその靴はピトゥのために誂えたものだ。
ピトゥは呆然としたまま動けなかった。こんな贅沢に囲まれているとは信じられない。夢でさえこんな衣装部屋は願ったことがなかった。感謝の涙で瞼を濡らし、呟くことしか出来なかった。「カトリーヌさん! カトリーヌさん! あなたのしてくれたことは一生忘れません」
どれも採寸したかのようにぴったりだった。靴だけが小さすぎたくらいだ。靴屋のロドロー氏(M. Laudereau)はピトゥより四歳年上の息子の足に合わせて来たのだが。
ロドロー君に勝って喜んだのも束の間、靴なしでダンスに行かねばならないことに気づいて、すぐにいい気分もしぼんでしまった。古い靴で行こうにも、今度はほかの服と釣り合いが取れない。だがこの問題はすぐに片づいた。ビヨ氏に届けられた靴がぴったりだったのだ。幸いビヨ氏とピトゥは足が同じ大きさであることは、ビヨ氏の名誉のために本人には伝えられなかった。
こうしてピトゥが立派な衣裳に身を包んでいるところに、鬘師が現れた。鬘師はピトゥの黄色い髪を三つに分けて、一番大きな塊を尻尾のように外着に垂らした。残りの二つはこめかみに垂らされた。これは犬耳(oreilles de chien)なる詩的とは言い難い名前で呼ばれていたが、名前は名前、仕方あるまい。
ここで一つ申し上げておかねばなるまい。髪を梳き、髪を巻き、外着と青いキュロットを身につけ、薔薇色の上着と胸飾り付きのシャツを纏い、尻尾と犬耳を垂らしたピトゥが鏡を見ると、そこに映っているのが自分だとは信じられなかった。アドニスが地上に降り立ったのではないかと思って後ろを振り向いたくらいだ。
ほかには誰もいなかった。ピトゥはにんまりと笑みを浮かべた。胸を張り、ポケットに親指をかけ、伸び上がって呟いた。
「いざ、シャルニーさんに会いに!……」
衣装を替えたアンジュ・ピトゥが、ウェルギリウスの羊飼いではなく、ワトーの描く羊飼いに瓜二つであったのは、紛れもない事実である。
ゆえにピトゥが台所に踏み入れた第一歩は、即ち勝利の第一歩であった。
「見てママ! ピトゥがかっこいい!」
「ほんと見違えたよ」
あろうことかカトリーヌは一目見て感嘆すると細部に目を移した。一つ一つ見られるとぱっと見ほど見目よくないのだ。
「可笑しい! おっきな手!」カトリーヌが声をかけた。
「ええ、立派な手ですよね?」
「それにおっきな膝」
「背が高くなる証拠です」
「もう充分おっきいじゃない」
「どっちみち大きくなると思います、まだ十七歳半なんですから」
「ふくらはぎはあんまりないね」
「全然ないんです。でもこれから肉がつきますから」
「そうだといいね。でもとにかく、かっこいい」
ピトゥは頭を下げた。
「おっと!」ビヨ氏が入って来てピトゥを見つけた。「勇者みたいじゃないか。アンジェリクさんにも見せてやりたいな」
「ボクもです」
「いったい何て言うかねえ」
「何も言わずに怒り出すんじゃないでしょうか」
「ねえパパ」カトリーヌが不安そうにたずねた。「連れて戻されたりはしないよね?」
「自分で追い出したんだからな」
「それに五年が過ぎましたから」ピトゥも答えた。
「五年って?」
「その五年にジルベール先生は千フラン預けたんです」
「じゃあジルベール先生は千フラン伯母さんに渡したの?」
「ええ、そうなんです。ボクが仕事を身につけられるようにって」
「たいしたお人だ! 毎日そんな話を聞かされるとはな。これだから死ぬまでついてこうと思うんだ」ビヨ氏は身振りも交えて話した。
「仕事を身につけて欲しがってたんです」
「間違っちゃないさ。ところがそういう立派な目的をねじ曲げたんだ。預かった千フランを職業訓練に使わずに、子供を坊さんに預けて神学生にしようとした。フォルチエ神父に幾ら払っていたかわかるか?」
「誰がでしょうか?」
「おまえさんの伯母さんさ」
「お金は払ってません」
「じゃあジルベールさんから年に二百リーヴルもらってたのか?」
「そうだと思います」
「だったら覚えておけ、ピトゥ。伯母さんが音を立てたら、戸棚や藁布団や漬物樽をようく見てみるんだ」
「どうしてです?」
「お宝さ。毛糸の靴下にでもくるんでるのが見つかるはずだ。そんだけの金額を仕舞っておけるような財布はないだろうからな」
「そう思いますか?」
「間違いない。だがその話はまた後だ。今日は出かけなくちゃならん。ジルベール先生のご本は持っているな?」
「ポケットに」
「パパ、ちゃんと考えてくれた?」カトリーヌがたずねた。
「いいことをするのに考える必要なんざないさ。本を読んでその教えを広めなさいと言われたんだ。本は読まれ、教えは広がって行く」
「ママと弥撒に行ってもいい?」
「行ってこい。おまえたちは女だ。俺たち男は別のことをする。来い、ピトゥ」
ピトゥはビヨ夫人とカトリーヌに一礼すると、「男」と呼ばれたことに気を良くして農夫について行った。