翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 06-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ビヨ夫人とカトリーヌが異を唱えたが、女どもは弥撒に行きたければ行くがいいさ、宗教は女のもんだ、と答えた。だが男である俺たちは、医師せんせいのご本を読んでもらって先生の薫陶を受けるのだ。

 哲学者ビヨも家の中では専制君主であった。カトリーヌだけはおふれに声をあげても何も言われなかったが、既に心が決まっている場合には眉をひそめられるだけなので、カトリーヌとて余人同様に黙るしかなかった。

 だがカトリーヌはこの機会を逃さなかった。席を立って父親に言うことには、ピトゥの服装は明後日立派な話をするような恰好ではない、教壇に立つからには教師であり、教師であるからには、生徒の前で恥を掻くわけにはいかない、と。

 ビヨ氏もこれを認め、ヴィレル=コトレの仕立屋デュロロワ氏とピトゥの服装について話し合う許可を娘に与えた。

 カトリーヌの言うことはもっともであり、ピトゥには新しい服が必要だった。いつも履いているキュロットは五年前からの着古しで、ジルベール医師が長めに作らせていたのもとうに短くなっていた――が、公平を期してお伝えしよう。アンジェリク嬢が毎年二プスずつ裾を直して伸ばしていた。上着も外着も二年以上前になくなり、代わりに着ていたのがサージの上っ張りだった。我らが主人公はこの物語の一ページ目からその恰好で読者の前に姿を見せていたわけである。

 ピトゥは身なりに無頓着だった。アンジェリク嬢の家にいた時には鏡など無意味なものでしかなかった。さりとてナルキッソスの如く我が身に恋してうつつを抜かすわけでもなく、鳥もち竿を仕掛けた池を見つめようとしたことなどなかった。

 だがしかし、カトリーヌからダンスに誘われ、シャルニーなる貴公子の話題を聞き、カトリーヌの頭を飾る帽子の話を耳にしてからというもの、ピトゥは鏡を見つめ、みすぼらしい恰好を嘆き、どうすれば良いところを少しでも伸ばせるものかと悩みに悩んだ。

 惜しむらくはピトゥはこの悩みに対する回答を持たなかった。服はぼろぼろだ。新しい服を買うにはお金がいるが、生来の文無しである。

 笛や詩で栄冠を競う羊飼いたちが薔薇の冠を戴いて頭を飾っていたのはよく知っていた。だが当然ながら、冠を戴けば似合うのかもしれないが、それ以外の服がみすぼらしいことが際立ってしまうことにしかならない。

 だから仕立ての素晴らしさに驚くことになる。日曜日の朝八時、ピトゥが外見を如何に見よく装うべきか頭を悩ましているところに、デュロロワが登場し、椅子の上に外着と空色のキュロットを置いた。薔薇色の縞の入った白いジレもある。

 続いて入って来た肌着屋がシャツとネクタイを隣の椅子に置いた。シャツが合うようなら、半ダース作るよう指示を受けていた。

 思いも寄らぬ時間だった。肌着屋の後ろから帽子屋が現れた。手にされた上品かつ多彩な最新式の三角帽は、ヴィレル=コトレ一の帽子屋コルニュ氏が腕によりをかけたものだ。

 さらに靴屋が靴を履かせた。銀の留め金のついたその靴はピトゥのために誂えたものだ。

 ピトゥは呆然としたまま動けなかった。こんな贅沢に囲まれているとは信じられない。夢でさえこんな衣装部屋は願ったことがなかった。感謝の涙で瞼を濡らし、呟くことしか出来なかった。「カトリーヌさん! カトリーヌさん! あなたのしてくれたことは一生忘れません」

 どれも採寸したかのようにぴったりだった。靴だけが小さすぎたくらいだ。靴屋のロドロー氏(M. Laudereau)はピトゥより四歳年上の息子の足に合わせて来たのだが。

 ロドロー君に勝って喜んだのも束の間、靴なしでダンスに行かねばならないことに気づいて、すぐにいい気分もしぼんでしまった。古い靴で行こうにも、今度はほかの服と釣り合いが取れない。だがこの問題はすぐに片づいた。ビヨ氏に届けられた靴がぴったりだったのだ。幸いビヨ氏とピトゥは足が同じ大きさであることは、ビヨ氏の名誉のために本人には伝えられなかった。

 こうしてピトゥが立派な衣裳に身を包んでいるところに、鬘師が現れた。鬘師はピトゥの黄色い髪を三つに分けて、一番大きな塊を尻尾のように外着に垂らした。残りの二つはこめかみに垂らされた。これは犬耳(oreilles de chien)なる詩的とは言い難い名前で呼ばれていたが、名前は名前、仕方あるまい。

 ここで一つ申し上げておかねばなるまい。髪を梳き、髪を巻き、外着と青いキュロットを身につけ、薔薇色の上着と胸飾り付きのシャツを纏い、尻尾と犬耳を垂らしたピトゥが鏡を見ると、そこに映っているのが自分だとは信じられなかった。アドニスが地上に降り立ったのではないかと思って後ろを振り向いたくらいだ。

 ほかには誰もいなかった。ピトゥはにんまりと笑みを浮かべた。胸を張り、ポケットに親指をかけ、伸び上がって呟いた。

「いざ、シャルニーさんに会いに!……」

 衣装を替えたアンジュ・ピトゥが、ウェルギリウスの羊飼いではなく、ワトーの描く羊飼いに瓜二つであったのは、紛れもない事実である。

 ゆえにピトゥが台所に踏み入れた第一歩は、即ち勝利の第一歩であった。

「見てママ! ピトゥがかっこいい!」

「ほんと見違えたよ」

 あろうことかカトリーヌは一目見て感嘆すると細部に目を移した。一つ一つ見られるとぱっと見ほど見目よくないのだ。

「可笑しい! おっきな手!」カトリーヌが声をかけた。

「ええ、立派な手ですよね?」

「それにおっきな膝」

「背が高くなる証拠です」

「もう充分おっきいじゃない」

「どっちみち大きくなると思います、まだ十七歳半なんですから」

「ふくらはぎはあんまりないね」

「全然ないんです。でもこれから肉がつきますから」

「そうだといいね。でもとにかく、かっこいい」

 ピトゥは頭を下げた。

「おっと!」ビヨ氏が入って来てピトゥを見つけた。「勇者みたいじゃないか。アンジェリクさんにも見せてやりたいな」

「ボクもです」

「いったい何て言うかねえ」

「何も言わずに怒り出すんじゃないでしょうか」

「ねえパパ」カトリーヌが不安そうにたずねた。「連れて戻されたりはしないよね?」

「自分で追い出したんだからな」

「それに五年が過ぎましたから」ピトゥも答えた。

「五年って?」

「その五年にジルベール先生は千フラン預けたんです」

「じゃあジルベール先生は千フラン伯母さんに渡したの?」

「ええ、そうなんです。ボクが仕事を身につけられるようにって」

「たいしたお人だ! 毎日そんな話を聞かされるとはな。これだから死ぬまでついてこうと思うんだ」ビヨ氏は身振りも交えて話した。

「仕事を身につけて欲しがってたんです」

「間違っちゃないさ。ところがそういう立派な目的をねじ曲げたんだ。預かった千フランを職業訓練に使わずに、子供を坊さんに預けて神学生にしようとした。フォルチエ神父に幾ら払っていたかわかるか?」

「誰がでしょうか?」

「おまえさんの伯母さんさ」

「お金は払ってません」

「じゃあジルベールさんから年に二百リーヴルもらってたのか?」

「そうだと思います」

「だったら覚えておけ、ピトゥ。伯母さんが音を立てたら、戸棚や藁布団や漬物樽をようく見てみるんだ」

「どうしてです?」

「お宝さ。毛糸の靴下にでもくるんでるのが見つかるはずだ。そんだけの金額を仕舞っておけるような財布はないだろうからな」

「そう思いますか?」

「間違いない。だがその話はまた後だ。今日は出かけなくちゃならん。ジルベール先生のご本は持っているな?」

「ポケットに」

「パパ、ちゃんと考えてくれた?」カトリーヌがたずねた。

「いいことをするのに考える必要なんざないさ。本を読んでその教えを広めなさいと言われたんだ。本は読まれ、教えは広がって行く」

「ママと弥撒に行ってもいい?」

「行ってこい。おまえたちは女だ。俺たち男は別のことをする。来い、ピトゥ」

 ピトゥはビヨ夫人とカトリーヌに一礼すると、「男」と呼ばれたことに気を良くして農夫について行った。

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『アンジュ・ピトゥ』 6-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第六章 牧歌

 ビヨ夫人は玉のように丸々とした三十五、六のおかみさんで、ぴちぴち、むちむち、にこにことしている。鳩小屋から鳩小屋へ、羊小屋から牛小屋へとせわしなく立ち働いているかと思えば、営舎を点検するベテラン将校の如くポトフに竈に焼き肉に目を光らせ、どれも問題ないことを一目で見抜いたかと思えば、鍋に入れたタイムとローリエの分量が適切かどうかを一嗅ぎで判断し、いつもぶつぶつと愚痴ってはいるものの、さりとて誰かをなじろうという気はさらさらなく、夫のことは偉大な名君の如く愛していたし、娘のことはセヴィニエ夫人が娘グリニャン夫人を愛したよりも深く愛していたし、農夫たちのことは十里四方でビヨ夫人に勝るおかみさんはないと言えるほど面倒を見ていた。それ故にビヨ氏のところで働きたい者は跡を絶たなかった。だが生憎なるかな、天国にも似て、志願者の数に比べて、招かるる者は多かれど、選ばるる者は少なかった。

 ピトゥが招かれもせぬのに選ばれたことはお読みになった通りである。自分を正当に評価してもらえたのが嬉しかった。ましてや右にはこんがりと焼けたパン、左には林檎酒の壜、目の前には塩漬豚プチ・サレがあるのだ。母を失くした五年前からこのかた、祭りの日でさえこんな食事を味わったことはなかった。

 斯くて頬張ったパンを飲み込み、林檎ソースを添えた塩漬豚を喉の奥に流し込むにつれ、感謝の念がいとど増すに留まらず、農夫への賛嘆、夫人への敬意、娘への愛情もますます深く感じるのであった。頭を悩ませているのは一つだけ、羊と牛の番をして一日を過ごすという卑しい仕事のことであった。夜中に頼まれている仕事とはえらい違いではないか。夜中の仕事は、社会性と哲学という崇高なる原理を人類に教え込むのが目的のはずだ。

 食事を済ませたピトゥが考えていたのはそのことであった。だが考えている最中も豪華な食事は効用をもたらしていた。飲まず食わずの時とはまったく違う観点から物事を考えることが出来た。極めて低く見積もっていた羊番や牛飼いの仕事も、太古より神や半神によって営まれて来たのだ。

 ピトゥに似た境遇のアポロンは、いわばアンジェリク伯母にプリューを追われたピトゥのように、ユピテルにオリュンポスを追われ、羊飼いとなってアドメトスの家畜の番をしたではないか。アドメトスが牧人の王であったのは確かだが、それを言うならアポロンも神であったのだ。

 ヘラクレスも牛飼いのようなものだ。神話によれば、ゲリュオンの牛の尾をつかんだというのだから。尾をつかむか首を曳くかの違いは習慣によるものでしかない。煎じ詰めれば牛を率いる者が牛飼いだと言って差し支えあるまい。

 さらに、アウグストゥスから賜った安息を見事な詩句で謳いあげたウェルギリウスの語るところでは、ブナの木陰に横たわるティテュルスも羊飼いであった。そしてまた、住まいを去らねばならぬことを詩的な言葉で嘆いたメリボエウスも羊飼いであった。

 斯かる者たちはなるほど神父になれるほどラテン語を操ることが出来たが、弥撒をおこなったり晩課を誦したりするよりも、山羊が苦い金雀児エニシダを食むのを見ている方が好きだった。かにかくに考えるに、羊飼いなる仕事にもその仕事なりの魅力があるに相違ない。そもそも、失った尊厳と詩情をピトゥが取り戻すのに、そしてまた隣村のメナルカスとパラエモンに歌合わせを披露するのに、何の妨げがあろうか? 妨げなどない。ピトゥは幾度も譜面台の前で歌った経験があったから、たとい一度でもフォルチエ神父の食卓からワインを飲んで聖歌隊から外されるようなことがなければ、その才能を伸ばすことも出来たはずだ。笛は吹けなかったが、壜を用いて似たような音を奏でることは出来た。シュリンクスに焦がれたパンとは違い、大きなパンパイプを削り上げることは出来なかったが、菩提樹や西洋栃マロニエで笛を作ることは出来たし、いつもその出来栄えには讃嘆の目を向けられていた。となれば、羊飼いになるのも不相応とは言えまい。当今ではあまり評価されていない斯かる務めに、身を落としたのではない。務めの方を引き上げたのである。

 おまけに羊小屋を管理しているのはカトリーヌ・ビヨ嬢だった。カトリーヌの口から出たのなら、命令も命令とは感じられない。

 だがカトリーヌの方ではピトゥの自尊心に気を遣っていた。

 その夜、ピトゥはカトリーヌにたずねて、他の羊飼いと合流するには何時に出かければいいのか確認した。

「出かける必要ない」

「えっ?」

「パパに言っておいたから。ピトゥさんが受けた教育は、パパが頼んだ仕事より高尚なものなんだって。出かけなくてもいいから」

「よかった! これで一緒にいられるや」

 ピトゥは思わず口を滑らし、耳まで真っ赤になった。カトリーヌの方は顔を伏せて口元をほころばせていた。

「ごめんなさい、思わず口から出てしまったんです。怒りましたか?」

「ちっとも。わたしと一緒にいたいからって責めたりはしないけど」

 沈黙が落ちた。驚くには当たらない。二人が語るのに言葉など不要であった!

「でも、家にいて何もしないわけにはいきません」

「わたしがやってたことをやってもらおうかな。帳簿と会計をつけてくれる? 日給と収入と支出。計算は出来るでしょう?」

「足し、引き、掛け、割りが出来ます」ピトゥは胸を張った。

「わたしより一つ多いね。掛け算までしか出来ないからなあ。パパが会計係に使ってくれると思う。それで二人とも一挙両得ね」

「あなたも得するんですか?」

「時間を得するでしょう。その時間を利用して、帽子を作ろうと思うんだ。可愛くなりたいじゃない」

「帽子なんかなくても可愛いと思います」

「かもね。でもそれはキミの好みだからね」カトリーヌはふふっと笑った。「だいたい、帽子もなくちゃ日曜日にヴィレル=コトレのダンスに行けないもの。髪粉と無帽が許される貴婦人ならそれでもいいでしょうけど」

「髪粉をつけたらますます綺麗になるでしょうね」

「はいはい。お世辞なのはわかってるんだから」

「お世辞じゃありません。フォルチエ神父からそんなの習ってないですもん」

「じゃあダンスは習った?」

「ダンスですか?」ピトゥは驚きの声をあげた。

「ええ、ダンス」

「フォルチエ神父のところでダンスですって!……まさか! ダンスなんて」

「じゃあ踊れないの?」

「はい」

「じゃあ日曜日に一緒に行こうか。ド・シャルニーさんのダンスを見てるといいわ。この辺で一番上手いんだから」

「シャルニーさんって誰ですか?」

「ブルソンヌ城の城主」

「その人、日曜に踊るんですか?」

「多分ね」

「誰とですか?」

「わたしと」

 我知らずピトゥは心臓を鷲づかみにされた。

「じゃあ綺麗になりたいのはその人と踊るからなんですね?」

「シャルニーさんでも、ほかの人でも、誰とでも」

「でもボクとではない」

「どうして?」

「だって踊れませんから」

「覚えればいいじゃない」

「カトリーヌさんが教えてくれたら、シャルニーさんのダンスを見るより覚えが早そうなのに」

「じゃあそうしましょう。でももう寝る時間。お休みなさい、ピトゥ」

「お休みなさい、カトリーヌさん」

 カトリーヌの話には良いことも悪いことも含まれていた。良いこととは、羊飼いや牛飼いから簿記係に昇進したことだ。悪いこととは、ピトゥは踊れないのに、シャルニー氏が踊れることだ。カトリーヌによれば、誰よりも上手いらしい。

 ピトゥは一晩中うなされていた。夢の中ではシャルニー氏がダンスをし、ピトゥが下手くそなダンスを踊っていた。

 翌日、ピトゥはカトリーヌの指示の許で仕事を始めた。驚いたことがある。先生が違えば勉強も楽しいのだ。二時間後には完璧に仕事を覚えていた。

「ラテン語の先生もフォルチエ神父じゃなくてあなただったら、文法間違いなんてしないのに」

「そのうえ神父になれたかも……?」

「なれましたとも」

「そうして女人禁制の神学校に閉じ籠もって……」

「そんなこと考えもしませんでした……神父にならない方がいいや!……」

 九時にビヨ氏が戻って来た。ピトゥが起きるよりも早く、毎朝三時には馬と馬車を出すのを監督し、九時まで畑を回って、全員が持ち場に就いているか、仕事をこなしているかを確認しているのだ。九時になると朝食に戻り、十時にはまた仕事に戻った。一時には昼食を摂り、食事を済ますと朝同様に見回りをおこなった。こうしてビヨ氏の農場はみるみる栄えて行った。こうして本人の言葉通り、外に出れば六十アルパンの土地、家に入れば千ルイの金を手に入れた。或いはきちんと勘定がされていれば、或いはピトゥが勘定をつけていれば、或いはピトゥがカトリーヌ嬢の存在や思い出に心掻き乱されていなければ、金も土地もビヨ氏の辯より多く存在した可能性もある。

 朝食の席でビヨからお達しがあった。ジルベール医師の著作の読み聞かせは、翌々日の朝十時から納屋で始めることになった。

 ピトゥは恐る恐る朝十時は弥撒の時間である旨を伝えたが、人夫たちに実際に味わってもらうためにわざわざその時間を選んだのだと言われてしまった。

 思い出していただきたい。ビヨ氏は哲学者であった。

 聖職者は専制の使徒だと言って毛嫌いしており、仲間割れさせる機会があれば、ここぞとばかりにその機会をものにしていた。

『アンジュ・ピトゥ』 05-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「おまえさんは財産だよ」農夫ビヨがからからと笑い出した。

 これほど高い評価を受けたのは初めてだったので、ピトゥはいよいよ驚きに打たれてしまった。

「さて、働くのは嫌いか?」

「どんな仕事でしょうか?」

「仕事全般だ」

「働いたことがないので、よくわかりません」

 ビヨ嬢が笑い出したが、ビヨ氏の方は真剣だった。

「坊主どもと来たら!」町に向かって拳を突き出し、「怠け者と役立たずばかり育て上げているじゃないか。なあ、そんな小僧が兄弟たちに善を施すことが出来ると思うか?」

「たいしたことは出来ないでしょうね。ボクには兄弟がいなくてよかったですけど」

「人類という意味で兄弟という言葉を使ったんだ。まさか人類みなが兄弟ではないと言うつもりか?」

「まさか。聖書に書いてありますし」

「では平等だと思うか?」

「それは別です。だってフォルチエ神父と平等だったら、鞭やヘラでぶたれたりはしなかったでしょうし、伯母さんと平等だったら、追い出されたりもしなかったでしょうから」

「人間はみな平等なのさ。いずれ王様たちにそいつをわからせてやるんだ」

「君主たちに!」

「その証拠に、俺の家に来るといい」

「あなたの家にですか! からかっているんじゃありませんよね?」

「もちろんだ。必要なものは?」

「パンを一日三リーヴル」

「パンには何もつけないのか?」

「バターとチーズを少し」

「そりゃあいい。銭のかからない坊主だ」

「ピトゥさん、パパにほかのお願い事はないの?」

「ボクが? ありませんよ!」

「だったらどうしってここに来たの?」

「あなたが連れて来たんじゃないですか」

「親切でしょう? でもお礼は受け取らないことにしているの。保護者の方がどうしているかパパにたずねに来たんじゃなかったの?」

「あっ、そうだ。馬鹿だな、すっかり忘れてました」

「あのジルベールさんのことを聞きたいって?」ビヨ氏の声からは、地主に対する深い敬意が窺えた。

「ええ。でも今はいいです。ビヨさんが家に置いて下さるなら、アメリカから戻るまでじっと待っていればいいですから」

「そういうことなら長く待つ必要はないな。帰っていらしてるぞ」

「えっ! いつですか?」

「詳しくはわからんが、一週間前ならル・アーヴルにいた。俺の革袋の中にある小包はジルベールさんからもらったんだ。帰国した時に送ってくれたのが、ちょうど今朝ヴィレル=コトレに届いたんだ。嘘だと思ったら見てみるといい」

「これがジルベールさんからだって誰から聞いたの、パパ?」

「何言ってやがる! 手紙が入ってたんだよ」

「ごめんなさい」カトリーヌは笑顔で謝った。「でもパパは字が読めないでしょう。そう言って自慢してたじゃない」

「ああそうさ! 『ビヨの親父は人に頼るような男じゃない。教師にだって頼らない。自分の運命は自分で切り開いたんだ、ビヨって奴は』と言われたいからな!手紙を読んだのは俺じゃない。騎兵隊の伍長さんに会ったんでな」

「それで、手紙には何て書いてあったの? 悪い内容じゃなかったんでしょう?」

「自分で確かめな」

 ビヨ氏は革の鞄から手紙を取り出して娘に手渡した。

 カトリーヌが読んだのは以下の内容であった。

 

『親愛なるビヨ様

 僕はアメリカに来ました。ここには僕らよりも豊かな人たち、立派な人たち、幸せな人たちがいます。この国の人々は自由なんです。僕らとは違う。それでも僕らも歩き続けます。新時代に向かって。一人一人が努力して、一日でも早く光の輝く日を招かなくてはなりません。僕はビヨさんの主義思想を知っていますし、ビヨさんが同業の農場主の方々に影響力を持っているのも、あなたの下で働く素晴らしい人夫や作男の方々に影響力を持っているのも存じ上げています。それも国王のものとは違い、父親のような影響力です。あなたがご存じの献身と友愛の思想を是非とも皆さんにご教授なさって下さい。哲学は誰のものでもありません。人間であれば誰であろうと、哲学の光に照らされて、自分たちの権利や義務を読まなくてはなりません。その義務と権利のすべてが書かれた本をお送りいたします。表紙に名前こそありませんが、この本は僕が書いたものです。どうかこの思想を広めて下さい。全世界が平等であるという思想です。冬の夜長に声に出して読んでもらって下さい。本を読むことは精神の糧になります。パンが肉体の糧となるように。

 近いうちにお伺いして、アメリカで用いられている新しい形の小作法をお伝えいたします。農夫と地主の間で収穫を分け合うというものです。これは僕には社会本来の原理に則っているように思えます。さらに言えば、神の御心に則っているのではないでしょうか。

 愛と親しみを込めて。

 オノレ・ジルベール、フィラデルフィア市民』

 

「凄い! 何て感動的な手紙なんだろう」ピトゥが洩らした。

「だろう?」

「そうね。でもパパ、騎兵隊長も同意見かしら?」

「何だと?」

「この手紙のせいでジルベール医師せんせいだけじゃなく、パパも危険に巻き込まれかねないと思わない?」

「馬鹿だな、怖がりめ。ここに本があることに変わりはあるまい。そしてこれがおまえさんの仕事だ、ピトゥ。夜にはこれを読んでくれ」

「日中は?」

「日中は羊と牝牛の番をしてくれ。ほら、本だ」

 ビヨ氏は革袋から赤い表紙の本を取り出した。当局の許可があるかないかは別にして、当時はこのように幾多の本が出版されていた。

 ただし許可がない場合には、その本の著者はガレー船行きの危険にさらされていた。

「題名を読んでくれ、ピトゥ。中身を読む前に題名を知りたい。残りは後で読んでくれるか」

 ピトゥは扉に書かれた文字を読んだ。将来に於いては取るに足らない使われ方に過ぎぬが、当時に於いてはありとあらゆる人の心に訴えかける言葉であった。

「人間の独立と国民の自由」

「どう思う、ピトゥ?」

「独立と自由とは同じ意味だと思います。こんな同義反復をしていたら、フォルチエ神父に教室から追い出されてしまいます」

「同義反復かどうかはさておき、この本は人間の本だということだな」

「そんなことはいいから、パパ、その本を隠して」素晴らしきは女の勘というべきであろう。「悪いことが起きそうな気がするの。その本を見ているだけで怖くなる」

「著者に悪いことが起きていないのに、どうして俺に起こるんだ?」

「わからないの、パパ? この手紙が書かれたのは一週間前。ル・アーヴルからここに届くのに一週間もかからないでしょう。あたしも今朝手紙を受け取ったの」

「誰から?」

「セバスチャン・ジルベールもあたしたちに手紙を書いていたの。乳母子のピトゥ宛てに言伝を頼まれていたっけ。すっかり忘れてた」

「内容は?」

「三日前からお父様を待っていて、もう着いているはずなのに、いまだに来てないって」

「お嬢さんの言うことはもっともです」ピトゥも続けた。「遅れているのには嫌な予感がします」

「怖がってぐだぐだ言わずに、先生の本を読みな。そうすれば学者はもちろん人間にもなれる」

 当時の人間が斯かる言い方をしたのにはわけがある。当時のフランス国民はまだギリシアとローマが築いた歴史の幕開けに居合わせたに過ぎず、これから十年をかけてその大いなる歴史を模倣してゆくことになる。忠誠、追放、勝利、隷属という言葉で表されるその歴史を。

 本を抱えたピトゥの態度が厳かだったのが、ビヨ氏の心を打った。

「飯は食ったか?」

「いいえ、ビヨさん」ピトゥは本を受け取ってからの英雄然とした厳粛な態度を崩さずに答えた。

「ちょうどご飯の時間に追い出されちゃったんだよね」カトリーヌも言葉を添えた。

「よし、だったらかみさんに用意してもらえ。明日から仕事に入れよ」

 ピトゥはビヨ氏に感謝の眼差しを向け、カトリーヌに連れられて、ビヨ夫人の絶対的な権力下にある台所という名の領地に入った。


 第六章につづく。

『アンジュ・ピトゥ』 05-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ビヨ嬢は鶏と鳩を降ろしながら、ピトゥと父の間で交わされる会話に耳を傾けていた。

「暮らしを立てるなんて出来そうにありません」

「何か出来ることは?」

「鳥もちや罠を仕掛けることなら出来ます。それに、鳥の鳴き声も上手に真似られますよね、カトリーヌさん?」

「うん、花鶏アトリそっくり」

「だがそりゃあ仕事じゃないな」ビヨ氏が評した。

「そう言っているじゃないですか、糞ッ!」

「そんな口が利けるだけでもたいしたもんだ」

「あっ、汚い口を利いてしまいました。ごめんなさい」

「気にするな。俺にもよくある。こいつめ!」と、馬に向かって、「ちっとはおとなしくしていろ! こいつらと来たら、絶えずいなないてそわそわしっぱなしだ。ところで」と、ピトゥに向き直った。「やる気がなかったのか?」

「わかりません。ラテン語とギリシア語しかしませんでしたし……」

「それに?」

「正直に言うとあんまり理解できなかったんです」

「上出来だ。おまえさんは俺が思っていたほど馬鹿じゃないってことだな」

 ピトゥは目を剥いた。こんなことを言われたのは初めてであり、これまで聞かされて来た意見を覆すような見解だった。

「では尋こう。疲れるのが嫌で手を抜いたりは?」

「それなら断言できます。手を抜いたりなんか絶対にしません。十里走ったってへっちゃらですから!」

「充分じゃないか。あとちょっと痩せたら、伝令になれるぞ」

「痩せるですって?」ピトゥは細い胴や骨の浮いた腕やひょろりとした足を見つめた。「今でも充分に痩せてませんか」

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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