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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 09-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第九章 パリ街道

 ピトゥに話を戻そう。

 ピトゥを突き動かしていたのは世にも力強い二つの原動力であった。恐怖と愛情。

 恐怖はピトゥに囁いた。

「捕まったら殴られるぞ。心しろよ、ピトゥ!」

 それだけ言われれば充分だった。ピトゥは鹿のように走った。

 愛情はカトリーヌの声で囁いた。

「早く逃げて、ピトゥさん!」

 だからピトゥは逃げていた。

 恐怖と愛情に背中を押されて、ピトゥは走るのではなく、飛んでいた。

 やはり神は偉大でり、無謬であった。

 瘤のようだと思っていた長いふくらはぎも、ダンスをするには不格好な盛り上がった膝も、大地を走るのにはうってつけだった。ピトゥの心臓は恐怖でふくれあがり、一秒間に三度も脈打っていた!

 シャルニー氏の小さな足、小振りな膝、見目よく収まっているふくらはぎでは、こんな風には走れまい。

 泉に映る脚を嘆いたあの鹿の寓話を思い出していた。自分には鹿とは違い細い足の代わりになるようなものが額にない。それでも、棒きれを嫌ったことを後悔していた。

 この「棒きれ」という呼称は、鏡に映った足を見ていた時、ビヨ夫人から頂戴した。

 こうしてピトゥは森を駆け巡った。ケヨル(Cayolles)を右に行き過ぎ、イヴォール(Yvors)を左に行き過ぎ、藪が途切れるたびに振り向いて、目を凝らした。いや正確には耳を澄ませたと言うべきだろう。もうしばらく、追っ手の姿を見ていない。ピトゥの速さの紛れもない証拠である。追っ手とピトゥの間に開いた距離は果てしなく、それもどんどん開く一方であった。

 アタランテーよ、その婚姻のなかりせば! ピトゥが競走していたならば、金の林檎三個を用いるような策を弄せずとも、必ずやヒッポメネスより速く走れたものを。

 実のところはパ=ドゥ=ルー氏たちは得るものを得てピトゥのことは打ち捨てていたのだが、ピトゥにはそれを知るよしもない。

 実際の人間から追われなくなってからも、ピトゥは影に追われていた。

 黒服たちはそれを確信していたから、手をわずらわせるまでもなかったのである。

「逃げろ、逃げろ!」部下たちはポケットに手を入れ、パ=ドゥ=ルー氏からもらった報酬をじゃらじゃらと鳴らしていた。「逃げるがいいさ。その気になりゃいつでも見つけられるんだ」

 虚栄心からではなく参考までに言っておくと、この言葉は真実であった。

 とにかくピトゥは走り続けていた。パ=ドゥ=ルー氏の部下の言葉が聞こえたわけではなかろうが。

 猟犬をまこうとする獣のように足取りを散らし、かのニムロドでさえ見分けられぬような網の目の中に足跡を紛らせると、ヴィレル=コトレからパリに向かう道に出るには右に曲がってゴンドルヴィル荒野の辺りに出なければならないと閃いた。

 そうと決まれば木立を抜け出して、右に舵を取ると、十五分後には黄砂と緑樹に囲まれた道が見えた。

 農家を発って一時間後には、国道にに出ていた。

 一時間で四里半ほど走ったことになる。これは馬をトロットで走らせたのにほぼ等しい。

 後ろを見遣ったが、路上には何も見えない。

 前を眺めると、二人の婦人が驢馬に乗っていた。

 ピトゥはジルベール少年の版画を見て神話に親しんでいた。当時神話は常識であった。

 オリュンポスの神話は教養の一部であった。版画を見て、ピトゥは神話を学んだ。そこではゼウスが牡牛に化けエウロペを誘惑し、白鳥に化けてテュンダレオスの娘レダと交わっていた。幾多の神々が変幻自在の姿態を見せていた。だがしかし、警官が驢馬に化けているのを見たことはない。ミダス王が変えられたのは耳だけであり、王は王のまま、意のままに金を生み出し、毛皮をそっくり買えるほどの財を得たのだった。

 目にしたもの――もとい目にしなかった警官の姿に安心すると、ピトゥは野原に取って返し、真っ赤な顔を袖で拭って三葉の真ん中に寝そべり、気持ちよく汗をかいて過ごした。

 だが苜蓿と花薄荷の甘い香りを嗅いだところで、ビヨ夫人の肉料理や黒パンを思い出さぬわけにはいかなかった。しかもカトリーヌが食事のたびに――つまり一日に三度も――取り分けてくれたのだ。

 あのパンは一重量リーヴル四スー半という高価なものだった。現代に換算すれば九スーは下るまい。フランス全土で不足していたこのパン、手に入った時には菓子パン代わりにもされていた。ポリニャック夫人がパリ民衆に向かって小麦粉がなければ代わりに食べればいいとのたまったあの菓子パンである。

 だからこそピトゥは悟った。カトリーヌ嬢こそ世界一寛容な姫君であり、ビヨ氏の農家こそ世界一豪華な宮殿である、と。

 ピトゥはヨルダン川のほとりのイスラエルの人々のように、東即ちビヨ家の方に乾いた目を向け、溜息をついた。

 もっとも、溜息も悪いことではない。がむしゃらに走って来た人間には、呼吸を整えることも必要だ。

 溜めた息を吐いて深呼吸すると、呼吸と共に困惑も甦って来た。

「あれほど短い間にどうしてあれだけのことが起こったんだろう? 後何年生きたって、この三日間ほど様々なことが起こるとは思えないのに。不機嫌な猫の夢を見たからかな。

 それですっかり説明がつく、とうなずいた。

 だがピトゥはすぐに考え直した。「全然論理的じゃないや。フォルチエ神父ならもっと論理的に考えるぞ。非道い目に遭っているのは猫の夢を見たせいじゃない。夢は虫の知らせを囁いてしかくれないんだ。

「つまり、誰だかが言っていたように、『見た夢に注意せよ』。Cave, somniasti。

「somniastiだって? また破格をやっちゃった。音を飛ばしてばっかりだ。文法的には somniavisti と言わなくちゃ。

「でも凄いや」ピトゥは鼻高々だった。「もう習ってないのにちゃんとラテン語がわかるぞ」

 こうして自画自賛してから、ピトゥは再び先を急いだ。

 危険が去ったからといって足取りをゆるめようとはしなかったので、一時間で二里は歩くことが出来た。

 つまり旅を再開して二時間後には、ナンテュイユを越えてダマルタンに向かっていた。

 と、オーセージ族にも劣らぬピトゥの耳に、舗道を蹴る馬の蹄の音が届いた。

 ピトゥはウェルギリウスの詩を一語ごと区切って口ずさんだ。

『蹄・が・大地・を・揺るが・す』

 ピトゥは目を凝らした。

 だが何も見えない。

 レヴィニャン(Levignan)でやり過ごした、あの驢馬だろうか? いいや、あれは詩にある通り、鉄の爪が舗石を叩く音だ。アラモンにもヴィレル=コトレにも蹄鉄を履いた驢馬なんてサボおばさんの驢馬しかいない。それだってサボおばさんがヴィレル=コトレとクレピー間の郵便業務を担当しているからだ。

 そこで物音についてはひとまず措いておき、改めて考えに耽った。

 あの黒服たちは何者だろう? ジルベール医師のことを聞いて回り、ピトゥの手を縛り、ピトゥを追いかけ、追いつけなかったあの男たち。

 何処から来たのだろう? この辺りじゃ見かけたことがない。

 一度も会ったことのない見ず知らずのピトゥにどうやって目をつけたのだろう?

 こっちは向こうのことを知らないのに、どうして向こうはボクのことを知っていたんだろう? どうしてカトリーヌさんはパリに行けと言ったんだろう? 旅のたしにと四十八フランのルイ金貨をくれたのはなぜだろう? パンにすれば二四〇重量リーヴル分、少し量を抑えれば三か月分近くだ。

 八十日も農家を留守にしてもかまわない、或いは留守にしなくてはならない、と考えていたのだろうか?

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『アンジュ・ピトゥ』 08

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第八章 黒服の男が軍人二人と共に農家に入っていた理由

 さてここで農家に戻り、最終的にピトゥに降りかかることになった大事件の顛末をお話ししよう。

 朝六時頃、パリの警察官が軍人二人を連れてヴィレル=コトレにやって来ると、警察署に姿を見せて農夫ビヨの住まいを聞き出した。

 農家から五百パッススほど離れたところで畑仕事をしている小作人に気づき、そばに寄って、ビヨ氏が在宅かどうかたずねた。ビヨ氏は九時まで戻らない、という回答だった。つまり朝食の時間である。ところがそこでひょいと目を上げた小作人が、馬に乗っている男を指さした。見るとここから四半里ほどのところで羊飼いと話している。

「ちょうどあっこにおるわ。あんたさんがお探しのお人だよ」

「ビヨ氏かね?」

「あい」

「馬に乗っている人だね?」

「それそれ」

「ご主人を喜ばせたいかね?」

「そりゃもう」

「ではパリから来た紳士が農家で待っていると伝えてくれ」

「あれ、ジルベール先生のことかい?」

「とにかく伝えてくれ」

 農夫は二つ返事で引き受けた。農夫が畑を横切っている間に、警官と軍人二人は農家のほぼ真正面にある壊れかけた垣根に身を潜めることにした。

 すぐに馬の駆ける足音が聞こえた。ビヨが戻って来たのだ。

 ビヨは庭に入って馬から下り、手綱を馬丁に預けると、台所に駆け込んだ。暖炉の前にジルベール医師が立っているものと確信していた。だが違った。ビヨ夫人が部屋の真ん中に腰掛け、丁寧に鴨の羽を毟っているだけだった。

 カトリーヌは部屋で帽子の飾りつけをしていた。見たところ、来週の分を今から用意しているようだ。だが服が似合うのを喜ぶのはもちろんのこと、似合うよう腐心するのも楽しむのがご婦人というものなのだ。

 ビヨは戸口で立ち止まってきょろきょろと見回した。

「誰かに呼ばれたようなんだが?」

「小官です」後ろから落ち着いた声がした。

 ビヨが振り向くと、黒服の男と二人の軍人が立っていた。

「そうかい」ビヨは二、三歩後じさった。「ご用件は?」

「何、野暮用ですよ、ビヨさん」落ち着いた声の男が言った。「この家を調べさせてもらうだけです」

「家を調べるだと?」

「家を調べます」

 ビヨは暖炉の壁に掛けられた銃に目をやった。

「国民議会が出来てからは、これまでの政府みたいな横暴はないものと思っていたんだがね。この俺に何の用ですね? 平和を愛する真っ当な市民なんだが」

 どこの警官も一緒だ。相手の質問には決して答えない。獲物を調べ、逮捕し、縛り上げ、時に憐れんだりするだけだ。優しく見えれば見えるほど危険な連中だ。

 ビヨ家で令状を書いていているのはdes Tapin et des Desgrés学校の出身だった。獲物のために涙を流す優しさを持っているが、その目を拭おうとはしない連中だ。

 黒服の男は溜息をついてから軍人二人に合図をした。二人に迫られたビヨは後じさり、銃に手を伸ばした。だがその手は武器には届かなかった。持ち主にも相手にも同時に死をもたらしかねない危険な武器は、恐怖と哀願に満ちた小さな手に握り締められていた。

 カトリーヌだった。物音を聞いて駆けつけ、父を反逆罪から救いに来たのだ。

 すぐにビヨは抵抗をやめた。黒服の命令で、ビヨは一階の部屋に閉じ込められ、カトリーヌは二階の部屋に閉じ込められた。ビヨ夫人は害なしと判断されて台所に放っておかれた。これで主導権を握ったと判断した黒服が、机や戸棚や箪笥や調べ始めた。

 ビヨは一人にされると逃げようとしたが、一階の部屋には鉄格子が取りつけられていた。取りつけた当人も忘れていたのに、あの黒服は一目で気づいていたらしい。

 鍵穴越しに覗くと、三人が家中をひっくり返していた。

「いったい何をしているんだ?」

「それがビヨさん、ご覧の通り、探し物が見つからないのですよ」

「さては山賊かごろつきか泥棒だったのか」

「心外ですな」扉越しに返事がした。「あなたと同じく真正直な人間ですよ。ただし陛下の許で働いている以上、ご下命には従わなくてはならんのでね」

「陛下のご下命だと! ルイ十六世が俺の机を調べろと命令したって? 箪笥と戸棚の中身をひっくり返せと?」

「ええ」

「陛下が? 去年はひどい飢饉があって馬を食うことまで考えていたし、二年前には七月十三日に雹が降って収穫物がすっかりおじゃんになったが、陛下は俺たちのことなど見向きもしてくれなかったぞ。なのに今日になって、来たこともなければ会ったこともない俺の家に何の用があるんだ?」

「勘辨してもらえるかな」黒服が扉を開けて、隙間から令状を見せた。そこには警視総監の署名があり――その上に慣例に従って「国王の名に於いて」という文字が記されていた。「陛下があなたの噂をお聞きになってね。面識がないというのなら、こんな名誉なことはあるまい。拒んだりせずに、陛下の御名で発せられたご下命をありがたく受け入れなさい」

 黒服は恭しくお辞儀をして親しげに目配せすると、扉を閉めて捜索に戻った。

 ビヨは黙って腕を組み、檻に入れられた獅子のように、部屋の中を歩き回った。どうやら自分は監禁され、あいつらの支配下にあるようだ。

 捜索は妨げなく続けられた。あいつらは天から降って湧いたように現れた。道をたずねた農夫以外には見られていないらしい。庭に入っても犬さえ吠えなかった。仲間内からも一目置かれる男のようだし、これが初めての踏み込みではないのも明らかだ。

 娘の呻き声が聞こえる。この上の部屋に閉じ込められているらしい。ビヨは娘の警告の言葉を思い出していた。どうやら今回の騒動は医師の本に原因があるようだ。

 だが九時の鐘が鳴ると、農夫たちが仕事から帰って来るのが鉄格子越しに見えた。これで取っ組み合いでも起こった場合、正義とは言わぬまでも、少なくとも戦力はこちらにある。これ以上じっとしてはいられなかった。扉をつかんでがしがしと揺すると、何度目かで錠が外れた。

 急いで扉を開けた警官たちの目に映ったのは、戸口に立つビヨの姿だった。ビヨが仁王立ちして睨み回すと、家中が引っかき回されていた。

「糞ッ! 何を探してるんだ? 言ってくれたら教えてやるぞ」

 黒服の男ほど目敏い人間が、農夫たちが戻って来るのを見逃すはずがなかった。農夫の数を数えて、取っ組み合いが起これば現場の主導権を握っておくのは不可能だと判断し、ビヨに近づいてこれまで以上に馬鹿丁寧に深々とお辞儀をした。

「ではビヨさん、特別にお答えいたしましょう。探しているのは本なのですよ。反体制的で扇情的な、検閲官に目をつけられるような本なのです」

「字の読めない農夫の家に本があるわけないだろう!」

「著者のご友人だとしたら、本が送られて来たとしても驚くには当たらないのでは?」

「俺はジルベール先生の友人なんかじゃない。しがない使用人だよ。先生の友人だなんて、俺みたいな農夫にはもったいなすぎらあ」

 思慮を欠いた発言だった。著者の使用人であるからには著者と知り合いであると打ち明けたも同然であり、本のことも知っていると自白したようなものだ。男は勝ち誇ったように胸を張り、にこやかな顔でビヨの腕を取った。顔には割れたように笑みが浮かんでいた。

「『おまえだよ、とうとうあの名前を口に出したのは』という句をご存じですかな、ビヨさん?」[*1]

「句なんか知らない」

「ラシーヌ、偉大な詩人のものです」

「それがどうした?」ビヨは苛立ちを見せた。

「あなたが口を滑らせたということですよ」

「俺が?」

「あなたご自身が」

「何の話だ?」

「初めにジルベール氏の名前を出したではありませんか。我々は名前など一言も口にしていないというのに」

「しくじった……」

「ではお認めになるのですね?」

「ああ、そのうえ――」

「それは助かります。そのうえ何を?」

「あの本を探しているのなら、本の在処を教えてやる」話している間も不安を隠せなかった。「あんたらはこの家をすべてひっくり返すつもりだろう?」

 男が手下二人に合図した。

「まあそうでしょうね。踏み込んだ目的がその本なのですから」顔には微笑をたたえたままだった。「しかしですな、一冊あるとお認めになっても、十冊お持ちかもしれないではありませんか?」

「一冊しか持ってない」

「それを確かめるために徹底的に捜査するのが我々の義務なのですよ。後五分我慢して下さい。命令を受けたしがない役人に過ぎませんのでね。まさかあなたも正直者を――正直者はどこにだっているのです――職務を遂行するだけの正直者を邪険にしたりはなさらないでしょう?」

 上手い手だった。こうしてビヨの心に訴えかけたのだ。

「やればいいさ。だがさっさとしてくれよ」

 そう言ってビヨは背を向けた。

 黒服の男がそっと扉を閉め、そっと鍵を回した。ビヨはただ肩をすくめただけだった。その気になればいつでも扉は開けられる。

 黒服に促されて部下たちも作業に戻った。三人とも先ほどまでとはやる気が違ったので、瞬く間に本という本、紙という紙、布という布がすべて開かれ、読まれ、広げられた。

 ひん剥かれた箪笥の奥から、鉄枠のついた楢の木箱が現れた。黒服が禿鷹のように獲物に飛びついた。眼力、嗅覚、手触りに囁かれて、それが目的のものだと見抜いたようだ。小箱を急いで擦り切れた外套に仕舞い込み、役目は終わったと部下に合図した。

 もういい加減焦れ出したビヨが、扉の前で声を荒げた。

「在処を聞かなきゃ見つからないぞ。苦労して服をひっくり返しても無駄だ。俺は謀反人じゃない。聞いてるのか? 答えろ、畜生! パリに行って訴えてやる。国王にも、国民議会にも、誰にも彼にもだ」

 当時はまだ国王も庶民の前に姿を見せていた。

「聞こえてますよ、ビヨさん。あなたのお考えには感服いたしております。そろそろ本の在処を伺いましょう。一部しかお持ちでないことはよくわかりました。後はそれを手に入れて戻るだけです」

「本は子供が持ってるよ。真面目な奴さ。友人に届けてもらおうと思って手渡したんだ」

「その子の名は?」相変わらずの猫撫で声だった。

「アンジュ・ピトゥ。孤児だから俺が引き取ったんだ。何が書かれているかもわかってないだろうな」

「ありがとうございました」黒服は衣服を箪笥に戻し、扉を閉めたが、小箱だけは戻さなかった。「その子はどちらに?」

「四阿の紅花隠元の方に歩いて行くのを見かけたよ。本はその子から預かってくれ。ただし子供に手出しはするんじゃないぞ」

「手出しだなんて! 誤解があるようですね、ビヨさん。蠅にだって手を出したりはしませんとも」

 三人が教わった場所に向かうと、紅花隠元のそばにピトゥがいた。背が高いせいで実力以上に強く見えた。部下二人に加勢しないとこの坊やには勝てないな、と見て取った黒服は、外套を脱いだ。小箱が音を立てる。すべてまとめて手近の暗がりに押し込んだ。

 扉に耳を押しつけていたカトリーヌにも、交わされた言葉の幾つかが聞こえて来た。本、医師、ピトゥ。危惧していた嵐の到来を目の前にして、被害を最小限に食い止めるための考えがあった。ピトゥの耳に囁いて、本は自分のものだと答えて欲しいと頼んだのだ。そこで起こったことはご存じの通りである。ピトゥは役人たちに縛り上げられ、カトリーヌに戒めを解かれた。軍人二人が一休みする場所を探し、黒服の男が外套と小箱を取りに戻った一瞬のことであった。ピトゥが垣根を飛び越えて逃げ出したことも既にお伝えしている。まだお伝えしていないのは、黒服がピトゥの逃亡を巧みに利用したということである。

 二つの指令を終えた今となっては、ピトゥが逃げ出したという事実は、自分たちもその場を立ち去るまたとない機会であった。

 追いつける見込みがないとわかっていながら、黒服は部下二人に発破を掛け、真っ先に後を追った。三葉や麦や苜蓿を駆け抜ける三人を見た人々は、あれはピトゥのことを何処までも追って行くつもりだと考えたに違いない。

 だがピトゥが森深く分け入ってしまうと、追っ手は森の外れまでたどり着いたところで足を止めた。農家の周りで待機していた部下がさらに二人加わっていた。二人は合図があるまでじっとしていたのである。

 藪の手前で黒服が呟いた。「あの小僧の持っているのが小箱じゃなくて本だったのは助かった。馬車に乗って追いかけなくてはならんところだった。ありゃあ人間の足じゃない。まるで鹿じゃないか」

「まったくです、パ=ドゥ=ルーさん。持っているのはあいつじゃなく、あなたなんですよね」

「うむ。ここにある」通り名ではあるがようやく名前で呼ばれた男が答えた。抜け目なく忍び寄ることからつけられた呼び名だった。[*2]

「それではお約束の報酬をいただけますか」

「ほら」ポケットから取り出された四ルイは、実働組も待機組もなく四等分された。

「総監殿、万歳!」

「やめろ。『総監殿、万歳!』など叫ぶな。口を開く時は慎重になれ。金を払ったのは総監殿じゃない」

「ではどなたが?」

「閣下のご友人の男か女だ。よくは知らんが、匿名をお望みだ」

「小箱の持ち主の方ですね」

「リグロ(Rigoulot)、毎度毎度の慧眼には恐れ入るが、その慧眼で獲物を手に入れたからには、とっとと逃げるべきだと思わんかね。あの農夫はやわなタマじゃない。小箱がなくなっているのに気づけば、百姓連中をそっくり差し向けて来るかもしれん。スイス人衛兵にも劣らぬ銃の名手どもだぞ」

 これは五人の総意であったらしく、人の目に触れぬように森の外れ沿いに歩いて、一キロほど先の道に戻った。

 用心も無駄ではなかった。黒服と部下二人がピトゥを追って見えなくなるや、カトリーヌは農夫たちに助けを求めた。ピトゥの足の速さなら、事故にでも遭わない限り、三人を遠くまでおびき出してくれるだろう。何かが起こったことには気づいていたが、何が起こったのかわからずにいた農夫たちは、カトリーヌの声を聞いて、扉を開けに駆けつけた。自由になったカトリーヌは父を助けに向かった。

 ビヨの姿はまるで夢遊病者だった。部屋から出ようともせずに、何かを警戒するように、戸口と部屋を行きつ戻りつしている。じっとしていられないうえに、荒らされた家具に目を向けるのを恐れているようだった。

「本は持って行かれてしまったんだろうな」

「多分ね。でも連れて行かれはしなかった」

「連れて行かれる? 誰のことだ?」

「ピトゥ。逃げたのを三人とも追っかけて行ったから、今頃はきっとケヨル(Cayolles)かヴォシエンヌ(Vauciennes)の辺りだよ」

「何てこった! 俺のせいじゃないか」

「心配しなくて大丈夫だから、わたしたちのことを考えましょう。ピトゥは捕まらないから安心して。それにしても何てひどい! 見てよ、ママ!」

「こんなに箪笥をめちゃめちゃにして。ひどい奴らだよ!」

「箪笥の奥までひっくり返して行きやがったのか!」

 ビヨは黒服が元通り閉めていた箪笥に駆け寄り、衣類の山に手を突っ込んだ。

「糞ッ! やられた!」

「何を捜してるの、パパ?」

 ビヨは狂ったように目を泳がせた。

「捜してくれ。何処かにないか。ない。この箪笥の中にはない。机にもない。第一、ここにあったはずなんだ……俺がここに置いたんだから。昨日あったのは見た。あいつらが探していたのは本じゃなくて、小箱だったのか」

「どんな小箱?」

「おまえも知ってるだろう?」

「ジルベール先生のですか?」深刻な場面ではいつも口をつぐみ、行動するのや話をするのは他人に任せていたビヨ夫人が、思わず口に出した。

「ああ、ジルベール先生の小箱さ」ビヨが髪を掻きむしった。「貴重なものなのに」

「やめてよ」カトリーヌが不安がった。

「何でこんな目に!」ビヨが絶叫した。「考えもしなかったなんて。小箱にまで気が回らなかったなんて。先生は何て言うだろう? 俺のことをどう思うだろう? 俺は裏切者の卑劣漢だ!」

「ねえパパ、中身は何だったの?」

「俺は知らない。だが命にかけて請け合ったんだ。死んでも守るべきだった」

 本当に死んでしまいそうなビヨの振る舞いに、カトリーヌたちはぎょっとして後じさった。

「ねえ、しっかりして、パパ」

 カトリーヌは泣き喚いた。

「お願いだから返事して」

「フランソワ、返事をしてあげて。あたしのことがわかるかい?」ビヨ夫人も訴えた。

「馬だ! 馬を用意するんだ!」

「何処に行くつもりなの、パパ?」

「先生に知らせに行く。そうしなけりゃならん」

「居場所は知ってるの?」

「パリだ。パリにいるという手紙を読まなかったのか? 今もいるはずだ。俺はパリに行く。馬の用意だ!」

「こんな時にわたしたちを置いていくの、パパ? こんな不安な気持で置いてかれなきゃならないの?」

「行かなくちゃならないんだ」ビヨは娘の頭を両手で包み込み、震える口唇を近づけた。「先生に言われたんだ。『小箱を失くしたり盗まれたりするようなことがあったら、ビヨ、僕が何処にいようとすぐに知らせてくれ。どんなことがあってもだよ。人の命がかかっていても理由にはならない』」

「いったい中には何が入っていたの?」

「知らないんだ。知っているのは、せっかく小箱を預けてもらったのに、まんまと盗まれてしまったってことだけだ。よし、馬の用意が出来たな。詳しい居場所は学校にいる息子さんから聞けるだろう」

 ビヨは妻と娘に別れの口づけをすると、鞍に跨り全速力でパリに向けて駆け出して行った。

 

[註釈]

*1. [おまえだよ、…]
 ラシーヌ『フェードル』第一幕第三場より。王妃フェードルは義理の息子イッポリトを愛してしまった。フェードルは誰を愛しているのかを、乳母エノーヌがたずねた。「アマゾネスの息子」と答えたフェードルに対し、エノーヌは「イッポリトですか!」とその名を口にして驚く。フェードルは「C'est toi qui l'as nommé.」と非難する。引用は『筑摩世界文学大系18』二宮フサ訳。[]
 

*2. [パ=ドゥ=ルー]
 「à pas de loup」には「忍び足で」という意味がある。直訳すると「狼の足」。野生動物が足音を立てずに忍び寄るさま。無理に日本語にするならば「猫足」か?[]
 

『アンジュ・ピトゥ』 07-02

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「どうしたの? 何で黙ってるの?」

「シャルニーさんみたいにしゃべれませんから。ダンスしながら素敵な言葉をかけられたのに、そのうえボクが話さなきゃいけませんか?」

「勝手なこと言わないで。じゃあアンジュさん、キミのことを話そう」

「どうしてボクのことを?」

「ジルベールさんが戻らないなら、代わりを考えなきゃ」

「農家の帳簿つけには向いてませんか?」ピトゥは溜息をついた。

「むしろ農家の帳簿つけじゃあもったいないと思わない? それだけの教育を受けていれば、もっとやりがいのある仕事が出来るはず」

「やれることなんてありませんし、シャルニー子爵を通さないと出来ないことなら何もやりたくありません」

「どうしてシャルニーさんの手を借りたくないの? お兄さんのシャルニー伯爵は宮廷で一廉の地位にあるという話だし、王妃の付き人とご結婚なさっているって聞いたけど。わたしさえよければ、ピトゥさんに塩税署の仕事をお世話してくれるんだって」

「ありがたい話ですけど、さっき言ったように、今のままでいいんです。ビヨさんに追い出されない限り、ずっと農家で働きます」

「何だって俺がおまえさんを追い出すんだ?」父の大声を聞いてカトリーヌが震え上がった。

「ピトゥ、イジドールさんの話はしないでね」カトリーヌは囁いた。

「おい、答えるんだ!」

「でも……わかりません。ビヨさんの役に立てるほど頭が良くないからじゃないんですか」ピトゥはまごついて答えた。

「頭が良くないだと! バレーム(Barrême)みたいに計算できて、自分を大学者だと自惚れている教師よりも本読みが上手いのにか? 馬鹿だな、ピトゥ、おまえさんは俺の家に人を呼んでくれる神様だよ。神様のおかげでみんな一度足を運んだらずっといてくれるんだ」

 ピトゥはそう請け合われて農家に戻ったものの、まだ気持は晴れなかった。家を出た時と戻った時とでは大きな違いが訪れていた。あるものを失くし、失くしたきり見つけられずにいたのだ。あるものとは自信である。そのせいでいつもとは違い上手く寝つけなかった。眠れずにいると、ジルベール医師の本の内容が脳内に浮かび上がって来る。あの本は、貴族、特権の濫用、泣き寝入り、そうしたものを批判していた。今朝読んだ時にはまだ内容をわかりかけただけだったから、夜が明けたら、声に出してみんなに聞かせたあの傑作を、一人きり小声で読み返してみよう。

 ところが眠れなかったせいで寝過ごしてしまった。

 それでも本を読もうという思いは変わらなかった。七時。ビヨ氏は九時まで戻って来ない。それに戻って来たとしても、自分が薦めた本を読んでいるのを見たら、大喜びで褒めてくれるだけのような気もする。

 ピトゥは梯子段を降りて、カトリーヌの部屋の窓辺にあるベンチに向かった。ピトゥがそこに向かったのは果たして偶然であったのだろうか、それとも窓やベンチの場所を初めから知っていたのだろうか?

 いずれにせよ、着替える暇がなかったのでピトゥは普段通りの服装に戻っていた。黒いキュロット、緑の外套、赤い靴。そんな恰好でポケットから本を出して読み始めた。

 読み始めた時からピトゥの目がちらほらと窓に向けられていたことは敢えて言うまい。しかしながら金蓮花と朝顔で縁取られた窓の中にカトリーヌの姿は見えなかったので、ピトゥの目も遂に紙面に戻された。

 ページをめくる手が滞っていたし、意識すればするほど手が動かなくなっていたので、傍から見れば心が余所に行き、本を読んでいるのではなく夢を見ているのではないかと思われたことだろう。

 ページに影が落ちた。朝の陽射しがここまで伸びて来たのだ。雲の影にしてははっきりし過ぎている。物体の影だ。見たくてたまらない物体があるピトゥは、急いで振り返って光を遮っているものを確かめた。

 早とちりだった。ディオゲネスがアレクサンドロス大王に頼んだように、日光と温もりを遮っていたのは、確かに物体には違いない。だがこの物体はとても見たいとは言いがたく、むしろぞっとするような見た目をしていた。

 影は四十五歳の男のものだった。ピトゥより背が高くピトゥより痩せており、ピトゥよりみすぼらしい服を着て、首を傾げて、ピトゥが上の空だった本を興味深そうに読んでいるように見えた。

 ピトゥが驚きから動けずにいると、黒服の男が笑みを見せた。そこから覗いた歯は四本しかない。上下に二本ずつ、猪の牙のように尖っている。

「アメリカで出版された本だな」鼻にかかった声だ。「八つ折り本。『人類の自由と国民の独立について』、ボストン、一七八八年」

 男が読み上げるにつれピトゥの目はだんだんと丸くなり、読み終わった頃には真ん丸くなっていた。

「ボストン、一七八八年。その通りです」

「ジルベール医師の論文だね?」

「はい、そうです」ピトゥは行儀よく答えた。

 坐ったまま目上の人と話すのは失礼だ、と何度も言われていたから、ピトゥは立ち上がった。まだうぶなピトゥにしてみれば、誰が目上であっても不思議とは思わなかった。

 だが立ち上がった時、窓の向こうに薔薇色の影が動くのが見えた。カトリーヌだ。はっとしたような顔で合図を送っている。

 男は窓に背を向けていたため、それに気づいていない。「失礼だが、その本はどなたのものかな?」

 ピトゥの手の中にある本を指さしたが、触れはしなかった。

 ビヨ氏のものだと答えようとした時、請うような声が聞こえた。

「自分のだって言って」

 目ばかりを光らせていた男には、この言葉が聞こえなかった。

「この本はボクのです」ピトゥは堂々と答えた。

 男が顔を上げた。先ほどからピトゥの目が男から離れてある点に注がれていることに気づき始めたのだ。窓を見たが、カトリーヌは動きを察して鳥のように素早く隠れていた。

「何を見ていたのかね?」

「失礼ですが、好奇心が旺盛でらっしゃいますね。好奇心、フォルチエ先生風に言えば智識欲avidus cognoscendiですが」

「先ほど――」男はピトゥの発したラテン語にひるみもしなかった。第一印象より頭が切れると思わせようとしたピトゥの作戦は空振りだった。「自分の本だと言ったね?」

 改めて窓を視野に入れると、片目をつぶって見せた。カトリーヌがわかったというようにうなずいた。

「ええ、あなたもお読みになりますか? 欲読書或読稗史乎Avidus legendi libri ou legendae histori

「身なりよりも随分と高いご身分のようですな。雖衣襤褸賢者也Non dives vestitu sed ingenio。従って逮捕させていただきます」

「えっ、逮捕?」意味がわからなかった。

「ええ、ご一緒していただけますな」

 ピトゥが我に返って見回すと、軍人が二人、男の指示を待っていた。地面から湧き出たとしか思えない。

「調書を取らせてもらいましょうか」

 軍人がピトゥの手を縛り、ジルベール医師の本を預かった。

 それから窓の下の輪っかにピトゥを結びつけた。

 ピトゥは抗おうとしたが、神にも等しい先ほどの声が囁くのが聞こえた。「そのままでいて」

 ピトゥが素直に従ったので、軍人も黒服も気をよくして、疑いもせず農家に入った。軍人二人は椅子に坐って休むため。黒服の男は……理由は後ほど明らかとなろう。

 三人の姿が消えるとすぐに声がした。

「手を挙げて」

 ピトゥが手だけでなく顔も上げると、怯えて青ざめたカトリーヌの顔が見えた。手にはナイフを握っている。「もっと……もっと上に……」

 ピトゥは足も伸ばした。

 カトリーヌが身を乗り出して縄に刃を当てたので、ピトゥの手は自由になった。

「はい、ナイフ。これで輪っかに結んである縄を切って」

 言われるまでもない。ピトゥは縄を切って自由の身となった。

「この大型デュブルルイをあげる。足の速さなら誰にも負けないよね。パリに行って医師せんせいに知らせて」

 きちんとした話は出来なかった。軍人たちが戻って来たので、大型ルイ金貨をピトゥの足許に落とすことしか出来なかった。

 ピトゥは大急ぎで金貨を拾った。軍人たちが戸口でぽかんとした顔をして、先ほど縛り上げたはずのピトゥが自由になっているのを眺めていた。軍人の姿を目にしてピトゥは髪が逆立ち、何とはなく復讐の三女神の蛇髪を連想した。

 軍人とピトゥはしばし兎と猟犬のように微動だにせず睨み合っていた。犬が少しでも動こうものなら兎は逃げ出してしまう。軍人が動いた途端にピトゥは垣根を飛び越えていた。

 軍人のあげた声を聞きつけて黒服の男が駆けつけた。腕に小さな箱を抱えている。あれこれ問いただしたりはせず、すぐにピトゥを追いかけて走り出した。軍人二人も後に続く。だがピトゥのように三ピエ半(※一メートル強)もある垣根を飛び越えることなど出来ないので、迂回せざるを得なかった。

 それでも垣根の切れ目までたどり着くと、ピトゥが五百パッスス(※約750m)ほど先にいて、真っ直ぐ森に向かっているのが見えた。よくて約一キロ、時間にして数分というところだ。

 ピトゥが振り返ってみると、軍人が追跡を始めているのが見えた。追いつけるとは思っていないが義務だから追いかけているといった様子だったので、ピトゥはさらに速度を上げ、森の外れに姿を消した。

 ピトゥはなお十五分走り続けた。必要とあらば二時間でも走っていただろう。鹿のように速いだけではない。鹿のような肺を持っていた。

 だが十五分の後、本能的に危険は脱したと判断し、足を止めて深呼吸し、耳を澄ませた。大丈夫だ、誰もいない。

「信じられないや。こんなにたくさんのことがたった三日のうちに起こるなんて」

 ピトゥは大型ルイとナイフを代わる代わる見つめた。

「時間があったらなあ。この大型ルイを両替して、カトリーヌさんに二スー返すのに。このナイフに友情を切り裂かれるのは嫌だもんな。でもいいか。パリに行けと言われたんだから、行くまでだ」

 ピトゥは心を決め、ブルソンヌとイヴォール(Boursonne et Yvors)の間にいることを確認してから、砂州を進んだ。真っ直ぐ行けばゴンドルヴィル荒野に出るはずだ。そこにパリ街道が通っている。

 

第8章に続く

アルカディウス「化鳥の歴史」

 ものすごく久しぶりにフランスのSFを翻訳しました。1963年の作品です。

化鳥の歴史

「暑くて耐えられん!」

 国防長官ジーゲルは長椅子上で寝返りを打ち、欠伸をした。踊り子を呼んで舞わせてはみたが、やはりもう面白くも何ともない。昼寝を取っていたリビングをぼんやりと眺めてみる。仄明かりのなか、大広間に飾られていた巨大なタペストリーに目が留まった。

 緑、青、黒、黄色、土色、鈍色、草色、これらが描いているのは二十世紀にあった第二次世界大戦の様子だ。無粋ないくつもの図像のなかから、機体に鮫の顎が描かれた飛行機や、海中から霧のなかに姿を見せた緑灰色の潜水艦、くすんだ色合いの戦車、ガスマスクを装着した怪物じみた兵士たちや、葉陰に潜む土まみれの抵抗運動家レジスタンたちを見分けられた。こうした単調な色合いの広がりが、武器の発砲や、黒い残骸と化した町にあがる火の手などの、くすんだ赤色を引き立てている。こちらには、雪に囚われた兵士たち。あちらに織り込まれているのは、死体の山でできた「腐敗死骸像トランジ」たち。そしてヒトラー。天井が歪み煙の充満した地下壕ブンカーのなかで苦悶にのたうち、その周りには緑色の外套をまとい、冷たくぬめる魚のように無表情な顔をしたSSたち。

「陰気なタペストリーだ。俺も戦好きではあるが、こいつは……不吉なところがある。ツィグールと一緒だな。この時代と自分流をこよなく愛する男……ああいう考え方を持つ人間には確かにここは理想の地だよ……さしずめスルタン。冷酷、野心家、独裁者。おまけに二十一世紀の技術もある。まさに鉄拳の狼……ただし羊の皮はかぶらず、似たような連中にくるまれている。詐欺師の大臣、恥知らずの学者、傭兵――俺もそうだ。自分の役割をちゃんとわきまえている連中ばかりだ。それにここは割がいいし居心地も悪くない。

「タペストリーに、踊り子たち。まるで中世さながらだな。ニーチェ曰く、『未開の中世が始まり、技術は未開のしもべとなる』とはよく言ったものだ」[*1]

 視線はタペストリーからはずれ、大きな窓のところで止まった。

「中世の悩みだな」広い荒野をさまよう者たちにはこの巨大な摩天楼都市国家が堅牢な城に見えることだろう。カッパドキアの青々とした旱天下には、茶色く荒廃した断崖と峡谷ばかりが広がり、核戦争を生き延びた無法者たちが暮らしていた。滅びた街から移住してきた者や、盗賊と化した兵士たちや、被爆者たちが、まるひと月をかけて毎日毎日、骨まで毟られたこの不毛の荒野を歩き続け、摩天楼の街々に助けを求めていた。荒廃した世界のなかで摩天楼は鎖国を敷き、文明の孤島を貫いている。ほかの街と同じくツィグールの街も一貫して移住者たちを拒んでいた。独裁官ツィグールは、侵入を企てるスパイを恐れて移住を禁じていた。ジーゲルの考えるところでは、ツィグールがよそ者を恐れている何よりの理由は、異なる生き方や思想を持ち込まれて、都市で運用されている絶対的規則が弱体化するのを嫌がってのことだ。浮浪人たちは、たいていは食料や寝床を求めて、手段を選ばず侵入を試みていた。ある者たちは夜の闇に乗じてパラシュートやヘリコプターで。ある者たちは下水道を通って。都市は防衛策を強化した。終日の巡回、番犬、レーダー、地雷、監視カメラ。それも役には立たなかった。城内にまで潜り込む者も大勢いた。

 ジーゲルは踊り子たちを見つめた。軋むような電子音楽の調べに合わせて踊ってい女たちのなかには、裸の者もいれば、さまざまな色のおしろいを塗っている者も、金色の花を肌に直接飾りつけている者たちもいて、貪るようなまなざしをジーゲルに向けている。催淫剤を飲まされ肌にも擦り込まれ、つねに性的に興奮させられているのだ。市民蟻にはこうすべし、とツィグールが心理学的・生理学的に導き出した結論がこれだ。美しい少女は十歳になると家族から引き離され、都市の「幹部」に奉仕することになっていた。

「初めのうちこそ楽しかったが――」とジーゲルは考えた。「こんな騒ぎばかりだとうんざりしてくるな。そうとしか言いようがない。この香水、このおしろい、中東かぶれ、もうたくさんだ! 所詮は奴隷の街、いや『社会的条件づけ』の街か。こいつら鳥頭どもときたら一つのことしか考えられんのだから。

「一つだけ? いや、機械的に動きながら、『ダストシュート』をこっそり窺っているじゃないか」 幹部の部屋には必ず設置してある揚げ戸から、不要となった市民たちが捨てられていた。病気、表立った謀叛に水面下の謀叛、危険思想、あるいはただ単に嫌われた人間たち。ダストシュートは地下に直結しており、いくつもの槽を通して肉体は化学物質に分解される。分解された物質は調合センターに送られ、都市生活に欠かせぬ必需品の材料に使われる。食料や薬など。

「なるほどツィグール殿は有言実行をしているわけか。『生まず、無くさず』」

 いずれにしても踊り子たちは遅かれ早かれ誰もがそうなる運命だった。二十五歳以上の古株は姿を消す。「考えてみれば可哀相なやつらだが、外をさまよう浮浪人と立場を変わりたいとは思うまい。つねに命の危険にさらされて、どこからも疎まれるようなやつらだ」

 スクリーンが明るくなった。会議の報せだ。議題:国防について。

 ジーゲルは跳ね起きてチュニックを羽織った。それを見た踊り子たちがいっせいに横たわり、長椅子からドアまで届く生ける絨毯となった。

 これもまたツィグールのろくでもない思いつきだ。調教されて染みついているのだろう。ジーゲルはエレベーターに向かいながら、腹立ちまぎれに踊り子たちを足蹴にした、

「ミンスキーの家にいればこんな気分だろうな」[*2]

 

 ジーゲルは一望した。大臣、研究会の会員、警察官たちがひどい暑さにぐったりとしていた。船を漕ぎかけている者さえいる。街には物音一つない。垂直エレベーターと〈水平〉エレベーターがこの時間に動くことは滅多にない。住民たちは一人残らず、午後の猛暑にやられてまどろんでいた。

 ツィグールだけは違った。浅黒い顔を黒い髯のなかで物思いにしかめ、金羅紗のカフタン姿で部屋をどしどし歩き回っていた。

「アッシリア王だな」とジーゲルは思った。

 機関銃の連射音が遠くから静寂を穿つ。ジーゲルは椅子から伸び上がり、すぐ下を見ようとして面白がるような目つきを城壁に向けた。「また一人」――宿なしの侵入者が火炎放射器で黒こげにされていた。ほかの死体と一緒に、警告として城壁の周りに並べられることになるのだろう。

「もうたくさんだ」ツィグールが怒りを爆発させた。「街が浮浪人の糞尿溜めだというのは本当だったようだな。厳重な警戒にもかかわらず、侵入に成功した者たちもいるそうじゃないか。原子病が病院で見つかった。山賊出没の報告も受けている。防衛策はまったく機能していないようだな、ジーゲルくん」

 ジーゲルは肩をすくめた。

「見張りを十倍にすることもできますが、それでどのように対処すればいいのでしょうか。人間一人を発見するのは簡単なことではありません。そのうえ、侵入者たちには街に共犯者がいます。密輸入者に、支援者たちの結社。それに外国語をマスターしたがっている女たちも……。なかなかたいした山師たちです」

「ごろつきどもが!」ツィグールがうなった。

 学者のヨーハが険しい大地を指し示し、不満を口にした。

「こんなところを見張れと仰るのですか? 起伏が激しすぎます。これからも侵入者は街に入り込むことでしょう。レーダーも監視カメラもこんな岩山では役に立ちません」

 そう言って疲れたように座り込んだ。

「むしろ――」と別の学者が口を出した。「起伏が激しいのは我々にとって都合よいのではありませんかな。街に近づこうと思えばモノレールか飛行機を使うしかない」

「斥候が何人か岩山で殺された」と、警視総監のヴァイスハルトが言った。「どいつもこいつも浮浪人は肝が据わっている。城壁の上に死体を乗せておいてもびびりもしない。発見されても失うものなどない。死ぬのも死の危険にさらされるのも、生活の一部なんだ」

「全員岩山から侵入しています」大臣の一人が口を開いた。「飛行機だとスピードがありすぎてこの辺りの山には着陸できません。ヘリコプターだと現場まで時間がかかりすぎます。やはり空から監視するのが一番だと考えております。密航機やパラシュートを見つけるにもそれ以外に方法はないでしょう。専門家のどなたかに飛行機の原型をおまかせしなくては」

 ツィグールが疑わしげな顔を学者たちに向けたのが、ジーゲルには面白く感じられた。

「ではポケットから発明品を取り出してくれることを祈らねばならんな。軍人どもと来たら! いつもいつも何もできんくせに提案だけはいっちょまえだ」

「山で生き延びられる者などおりますまい」また別の学者が言った。「鳥の餌になるのが落ちでしょう。鳥ぐらいしか生きられない場所です」

「鳥の餌、か」ツィグールが考え込むようにして繰り返した。「犬のように鳥を訓練することができれば……」

 ヨーハが懐疑的な様子で顔をしかめた。

「訓練された鷲でも、すぐに撃ち落されてしまいます。いい考えとは思えません」

 最長老の学者ドルカンだけは、まだ口を利いていなかった。顔は干涸らび、白髪は馬の毛のようにぼさぼさだ。

「思いついたことがありましてな。ただいま猛禽類の話題が出ましたが、それこそ我々に必要なものではないでしょうか。ああいう仕組みのものなら、非常になめらかに動き回ることができます。実を申しますと、何年も前のことですが、隼にヒントを得てグライダーのようなものを造る計画に取り組んでいたことがございました」

「グライダー? 滑走しなくてはならんだろう。岩に着陸するという問題も残っている。人間であろうと飛行機であろうと、怪しい奴らを残らず攻撃してぶっつぶせるような機械はないのか?」ツィグールはドルカンの意見をばっさりと切り捨てた。「ほかにアイデアのある者は?」

 ドルカンの顔がこわばったが、それ以外に落胆を示すしるしはなかった。

「リリエンタールと一緒にしてもらっては困りますな」その声に動じた様子はない。「隼を真似て造ったのです。ガソリンエンジンで翼が動くようにできておりまして……早い話がなめらかな滑空が可能なのです。わしの飛行機なら滑走路がなくとも離陸できるのです、隼と同じように。しようと思えば垂直方向に飛び立つこともできましょう。ほぼ鳥と同じ動きができると考えていただけますか。旋回、空中での静止、地面すれすれの滑空、急降下。ある意味ではグライダーと申し上げましたが、サイバネティックス装置を採用することで、自動的に気流に反応して風に乗るようにできております。翼を羽ばたかせるのにも方向を変えるのにも、操縦士の操作は不要です。反射と呼んでも脊髄反応と呼んでもかまいませんが、行きたいと思ったところに行っているのです」

「では操縦士は何をするのだ?」ツィグールが不審げにたずねた。

「どこに行くかを決めるのが操縦士でございます。いわば脳の役割のみを担っているのです。ここまではよろしいでしょうか? 操縦士がこの機の――世界初の機械でできた本物の鳥の――反射に慣れるには、航空史上において例がないほどの、昼夜を問わぬ厳しい訓練をおこなわなくてはなりません。必要な感覚をつかむまでは、そのことだけを考えるようにするのです。操縦士は服に包まれているように、この機体に包まれることになりましょう。馬を知る馬乗り以上に、この機体を熟知している操縦士が必要なのです。わしといたしましては、閣下のなさることに信頼を置いておりますので……」

「問題となるのが人材と訓練だというのなら、何の不都合もあるまい」皆まで言わせずツィグールが断じた。

 ジーゲルは踊り子たちの事情を考えながら、ツィグールの言葉なら嘘はないと確信していた。

 

 ――もはや何もすることはない。国防長官としては複雑だな、とジーゲルは考えた。

 ジーゲルは城壁の上を歩き回っていた。むせるような午後の暑気が白く厚い壁を熱していた。よどんだ空気のなかを、ドルカンの試作機――人呼んで『化鳥』が二機、街の周りに円を描いて、絶えず監視を続けている。化鳥たちは昼も夜も街の上空を巡視していた。その目を逃れられる者などいない。ツィグールは被爆者や火だるまの生き残りを病院で捕らえさせ、侵入者の死体のそばに転がせておいたが、それで都市内部の問題は片づいた。浮浪人たちの方は、街やその近郊を絶えず巡回している『化鳥』の遠くまで届く『目』に見つかり、容赦なく虐殺されていた。

 不意に化鳥が筋となってくうをよぎった。ダ・ヴィンチの思い描いた異様な機影が目に入った。骨だけの黒い鳥。空中を動き回る翼の音がここまで届いて来る。どこかに向かって滑降していた。迷いがない。

 奇妙な口笛が響いた。これが操縦士たちのコミュニケーション手段だ。カナリア諸島に伝わっているものを採用した。語彙は限られ、口笛と言葉の合いの子のようなものだが――口笛は声よりも遠くまで届く。あの音を聞くと不安で暗い気分になる。いつの間にか化鳥は四機に増え、時折り翼が大きな音を立てていた。密入国機を取り囲んでいるのだ。一機の化鳥が侵入者に襲いかかった。攻撃。立て続けに二度、三度。密航機の操縦士が抵抗を試みる。だが化鳥たちが金属の爪を機体に立てた。コックピットが蹴爪の下で弾け飛んだ。化鳥には火器が備わっていない。弾薬の重さや武器の反動によって微妙なバランスが崩れてしまうからだ。装備は古代ローマ船のような船嘴のみ。『頭』の上に一つ、後ろに一つ、金属の脚に一つずつ。これに捕まった飛行機はどこかに着陸せざるを得ないし、どれだけ硬い機体でも穴を開けられてしまう。

 舵と補助翼を破壊されて、密航機は真っ直ぐに落ちるしかなかった。

「間違いない。どんどん強くなっているぞ!」ジーゲルは歓喜した。

 岩だらけの地上では、もはや残酷な饗宴が繰り広げられるのみであった。時折り化鳥が旋回しながら上昇し、ふたたび攻撃を加えるために舞い戻っていた。

「獲物を狩るハヤブサそのものじゃないか!」ジーゲルは嬉しさを爆発させた。

 繰り広げられる情け容赦のない残酷な光景にしばらく見とれていた。

 やがて向きを変え、フランス窓から部屋に戻った。格納庫に戻っている化鳥を見に行くだけの時間はある。街のてっぺんにある格納ドームに行くと、グルシウム製の『爪』に襤褸のようなものがぶら下がっていた。ずたずたに引き裂かれた死体の一部がそのまま引っかかっているのだろう。

 知らないわけではなかった。こいつら密航機の操縦士は核戦争や砂漠の死神から逃れて来た人間たちだ。金をはたいてようやくのことで扱いづらく壊れやすい旅客機を手に入れ、見よう見まねで操縦し、妻やときには子どもや両親の受け入れ先を探していたのだ。

 ――魔法でも使ったのか。まるで全能の魔神だ。あれが『化鳥』か。猛禽のように残虐で。命令に忠実。

 ジーゲルは興奮してあちこち歩き回った。これだけの力を発揮しながら、それとわかるようなところはまるで見せないとは――。

 それから化鳥の操縦士たちのことを考えた。街のぐるりを昼も夜も休みなく旋回しなくてはならない必要上、知性があって従順な人形に作りあげられている。グライダーを作ることが決まってからの一年というもの、操縦士たちは強制的に軍に入れられ、どこにも出さずに訓練され、心変わりせぬように厳しい調教を受けて精神的な改造を施された。それはもはや空中で生き、空中に生きるのみの存在。訓練に逆らった者や、役に立たなくなった者は、『ダストシュート』に送られていた。「ゴミはなくならない」というのが、ツィグールの出した答えであった。勝ち残った者たちは人間性を剥奪され、操縦士以外の人間との接触を断たれ、以前の嗜好や関心事には見向きもせぬよう変えられた。操縦士たちは魔法をかけられていた。この機体があれば、翼をひと振りし思うままに旋回して、風を捕えることができた。

『外に出ることはありません。食べるときも寝るときも機体のなかです。口笛以外の手段で会話することは不可能であるうえに、任務の話しかしません。知性の減退に冒されているようです』というのが、ジーゲルへの報告書の内容だった。日に日に狩りの技術が上達するにつれ、知能が衰えるものだろうか? ドルカンは馬と騎手を例にとって話をしていた。なるほど操縦士たちが化鳥を住処と定めていたのは確かだった。フン族が議論も食事も睡眠も馬上で済ませていたように。

「目的に特化しすぎたかな」とジーゲルは考えた。「だが信じがたいとはいえ結果は結果だ。蜜蜂や蟻の巣のように市民を条件づけしようとするツィグールの理論も、遂にお墨つきを得たわけか。まあ確かに、蜂や蟻でもなければ、共同体を守るためにここまで恭順しようとは考えまい。文字通りの兵隊蟻だな!」

 もっとも、操縦士たちに選択の余地はなかった。幹部ではない人間の生活は囚われの毎日だったのだから。街から出るのを禁じられ、都市国家の生活を司るシステムの奴隷でしかなかった。政府の関係者か食糧でもないかぎり、モノレールや飛行機で行き来することもできない。ツィグールの鉄拳に閉じ込められて生活している人間にとって、そんな牢獄都市から抜け出したり飛び回ったりするのは、得も言われぬ喜びだった。囚われの市民にとって、囚人の夢を実現できるのはこの時を措いてない。窓から飛び立つのは――。生き物のように高感度の機械をコントロールして我が身のように自在に動かし、都市や郊外を守るのは――何とも気持のいいことに違いない。ツィグールの考えを支持することで、自由になりたいという希望を実現させたのだ。飛ぶことと仕留めることは、猛禽の本能であり、日常であった。

 ジーゲルは満足して長椅子に寝そべった。ツィグールの治世はこのグライダーの化けもののおかげで安泰だ。なにしろ化鳥は独裁官ツィグールが独占していた。化鳥の開発に協力していたドルカンや技術者たちは、「突然」死に見舞われていたのだ。ジーゲルにしても、報告書のなかで書いたように、「突然死と急死を認め」ることしかできなかった。

 

 街は暑さにしおれていた。音はない。二年前から街の外に音のすることはなくなった。もう侵入者はいない。ツィグールは金のローブを身にまとい、のんびりと、力強く、歩いていた。勝ちを収めたのは独裁者だった。

 操縦士たちの仕事もしばらく前から減っていた。知らぬ者などいない。化鳥の見回りと残酷さは広く伝説となって知れ渡り、街は恐怖に覆われ、侵入者たちを遠ざけていた。情報はすでにすみずみまで口から口へと駆け巡っていた。いかなる情報であろうと迅速に伝わるのが浮浪人たちのシステムだった。化鳥によって引き起こされた感覚的な恐怖は、当初の黒こげの死体の比ではない。国中が金属製の生きた鳥を話題にしていた。ツィグールはいまや無敵となった帝国の領土を拡大していた。敵対しているどこの軍隊であれ、領土に侵入しようと考えることすらせぬだろう。

「いまや我々はこの地域の支配者だ」ツィグールが厳かに言った。「化鳥が不浪人どもを狩ってくれた。被爆者が一掃されたおかげで、街から汚染もなくなった。もはや恐れるものなどない。兵隊も戦闘機も化鳥に楯突こうとはしなくなった。我こそ支配者だ」

 ――廃墟の支配者だがな、とジーゲルは思った。

 何もない山間部を見つめた。同じく何もない広大な空と太陽の下で揺れている。モノレールの路線が等間隔に並んでいるだけで、ほかにはなにもない。線路は山間に架かる長いアーチ――華奢な高架橋――の下を走っている。

「最近はそのグライダーもとんと見なくなりましたな」大臣の一人が口を開いた。

「見ないな」我が意を得たりとツィグールが答えた。「もう必要がないのだ」

「巡回しているところを何度か見かけましたが――」ヨーハが言った。「奇天烈な代物だと言わざるを得ません」

「ドルカンに不幸があってからというもの、機械の動かし方は操縦士しか知らんのだ」ツィグールはそう答えてから、「毎日動かしている以上は、身体や筋肉が覚えているんだろうさ」と吐き捨てた。

「それでもまだ侵入者が?」

「わずかだ。被爆者が苦痛に耐えきれず勝負に出て、捕まえられに来ている」ツィグールの声には何の感情もこもってはいなかった。

 ――苦痛に耐えきれず、か。とジーゲルは考えた。どうでもいいことでも口にしているみたいな話しぶりじゃないか――。いくら逞しい人間相手でもそれが何を意味するのかは経験として知っていたし、兵士として、肉体の苦痛がどれほど精神を揺るがすのかもよくわかっていた。――ツィグールめ、人間らしさなんてこれっぽっちも残ってはいないんだな。ほしいのは権力だけか。それが何らかの利益になるとわかれば、喜んで俺たちを犠牲にするんだろうとも。俺たちみんな――ドルカンの後を追うのだろうか。これまで何人もの極悪人や人非人に会ってきたが、ここまで苦痛に無関心な人間は初めてだ。サディストですらない。とは言え、操縦士と踊り子に課せられた人生は、やはり独創的だと言わざるを得んな。

 このボタンを押すだけでいい。化鳥はそこにいるんだ――ツィグールはそんなことを考えながら口笛語を操っていた。

 ジーゲルは不意に悟った。操縦士の話をしているわけでも、飛行機の話でもグライダーの話でもない。もはや化鳥でしかないのだ。誰もがそれを当然のように考えていた。だが操縦士たちはどう考えているのだろう? いかに人間だったころのことを忘れたとはいえ、やはり巡視や狩り以外のことを考えていても当然ではないだろうか。何やらこの俺の目を免れていることがあるようだ。

 ジーゲルは心に刻んだ――立ち寄ってみよう。夜中に。格納庫を。ジーゲルはこっそりと忍び込んだ。見張りはいない。監視兵も歩哨も化鳥に任せきりだった。それだけ信頼していたのだ。化鳥たちがいた。止まり木に並んで、大きな翼をたたんでいる。薄暗がりのなか、円窓が奇怪な目玉のように輝いていた。操縦士たちは街上空の巡回をほかの二羽にまかせて、眠っているはずだった。だが化鳥たちはロボットのように謎めいた命を秘めているようだ。ドルカンがたぐいまれなしなやかさと俊敏性を植えつけたせいで、不気味なほどに生き物そのものであった。悪夢に現れるような鳥だと言われても仕方がない。隼というよりは、手際が悪いころの自然が造りあげた不格好な中生代の翼竜に似ていた。

 だからといって操縦士たちに何ができるというのだろう? 手足を伸ばしに外に出たがらないとはおかしな奴らだ。おそらく長いうちに畸形化してしまったのだろう。かつて自動機械の操縦士が肥満に苦しんでいたように。化鳥たちが機体のなかで胎児のような恰好をして丸まっているのは知っていた。膝を抱え、金属製の鳥の『頭』に囲まれた頭をうずめて。今ではもうその丸いシールド越しにしか外を見ることはできない。化鳥同士でも言葉を使った普通の会話をしなくなったのはなぜなんだ? 数か月前から、メンテナンス役の人間の誰一人として操縦士には会っていない。操縦士たちは自分たちだけでうまくやっている。「あいつらだけで充分ですよ」整備士の一人がジーゲルにそう言っていた。

 シールドのせいで、鳥たちは人知れず視線を交わしているように見えた。遠目と夜目の利くように改良されたその視覚装置を調べてみた。レンズに目をつけたまま眠るのか? はたして何を考えているのだろうか? 毎日毎日をこうして過ごしているのか? こうして眠っているのか? 便利な機械を操作しているうちに、人間の身体の普通の使い方を忘れてしまったのか? 手や腕はレバーを動かすためのものでしかなくなってしまったのか?

 ジーゲルは眩暈を覚えた。単純な問題や簡単で効果的な心理学に慣れていたせいで、不愉快なほど不安を感じ、狼狽を覚えた。激動の人生のなかでさまざまなことを経験してきたが、そのどれにも似ていなかった。

 

 ツィグールが広いテラスに出て、動かぬコンクリートの町並みを見つめた。暑さはツィグールのように力強く、揺らぎなく、容赦なかった。ツィグールは満足げに黒い髭をなでた。

 ――俺たちは化鳥に頼りきりだ、とジーゲルは考えた。もう誰も見張りなんかしちゃいない。監視兵なんていなくなってしまった。

 ツィグールが口笛で合図をした。返事はない。

 ――条件づけが切れたんだな。無反応、と……。ジーゲルはそう思った。

 自信に満ちていたツィグールの顔には余裕が浮かんでいたが、やがて時間が過ぎるとともに疑いが兆し始めた。そしてとうとういらだちを表に出した。

「おそらく眠っているのではないかと」ヨーハが口を開いた。

 ツィグールが顔を上げた。石のように張り詰めた空を見渡しても、これまでは休みも取らずに見回りをしていた二羽の化鳥がどこにもいなかった。

「こんなことは初めてだ」

 ツィグールは合図を繰り返した。

 おそらくは激しい訓練のあとでどっと虚脱感に襲われでもしたものか、この暑さのせいででもあるのか、とうとう人事不省に陥ってしまったのだろうか? 狩りに特化したがために、獲物がいなくて呆けてしまったのだろうか?

 静寂。だが緩やかな、平穏を意味する静寂ではない。内戦に憂う町を覆うような静寂――何かを覆い隠している静寂だった。燃える太陽の下、人気のない道路――静けさではなく、不穏さに満ちた、死だけがうろつき待ち伏せている道路。人気がないのは、危険を冒して足を踏み入れたとしたらすぐに弾丸が飛んで来るからだ。ジーゲルはそうした緊迫した雰囲気をしっかりと感じ取っていた。おかしな空気にツィグールは気づいていない。高揚感に目が眩んでいたのだ。それに化鳥などツィグールにとって、敵を制圧する道具に過ぎない。

 ツィグールは詰め所の一つに内線電話をつないだ。直後、もつれたような声が聞こえた。

「どいつもこいつも眠っているのか!」ツィグールが怒りを爆発させた。「ただちに化鳥を呼べ。広場に整列させろ」

「どういった理由でしょうか?」

「そんなものいらん。俺が会いたいのだ」

 遠くから口笛語の合図が聞こえ、居合わせた者たちは顔を上げた。空には相変わらず何も見えない。

「様子を見て来ます」ジーゲルが立ち上がった。

 ジーゲルは高速エレベーターに急いだ。不安に駆られて都市の頂に向かっている最中、静寂が揺らぎ、破れ、口笛の合図と警告の叫びが響き渡り、あちこちを駆け巡った。何を言っているのか聞き取ろうとしたが、それは夜に目を覚ました森のざわめきにも似た不明瞭な音でしかなかった。

 頂に着くと、真っ先に薄暗い格納庫に向かった。不快なえぐい匂いに胸が悪くなる。

 止まり木は空っぽだった。

 ジーゲルは出口に向かった。

 眼下では化鳥が街を飛び交い、窓を割り、すべてをぶちまけ、路上で人を襲い、逃げる者を追いかけて、情け容赦ない虐殺と殺戮をおこなっていた。

「叛乱だ!」

 左右に目をやる。格納庫の暗がりのなかに、ずたずたになった肉が散らばっていた――血塗れの生肉だ。いくつかは腐っている。悪臭が満ち、胸が詰まりそうだった。

 肉片を拾い上げる。汚れた布の切れ端が付着していた。

「侵入者の死体か……ここまで運んで来たのか。それにしても火炎放射器に、見張りは……?」

 機械の音がした。操縦士たちの食事の時間だ。食事用エレベーターがブリキ缶をいくつも吐き出している。それは手のつけられていないいくつものブリキ缶の上に落ち、しばらくのあいだ、がちゃがちゃと音を立てていた。ジーゲルはそばに寄って確かめてみた。文字通り山が聳えていた。素早く視線を走らせる。一年近くも前のものがあった。一瞬にしてジーゲルは悟った。

「人喰いか……人を喰らうようになっちまったんだ」

 ジーゲルはエレベーターに飛び乗り、詰め所に急いだ。空っぽだった。口笛係を捕まえて、化鳥に向けて基地に戻って来るよう命令を出させた。それを何度も繰り返した。

 窓の壊れる音、街を逃げまどう人間の叫び、それに応える化鳥の声。

「皆殺しにしろ! 空は俺たちのものだ! 化鳥万歳! 人間はごみだ! くたばれ人間ども! 飛べない奴らめ! 俺たちに空を! 俺たちに街を! この世の春を!」

「イカレやがって」ジーゲルはつぶやいた。「あんな訓練と暮らし方のせいだ」

 ほかに何かあるに違いない。それが間違っているにしても、あとで考えればいいのだ。

 騒ぎにも慣れてくると、棚に駆け寄って小型バズーカをはずし、目につくかぎりの弾丸をかき集めてから、大急ぎで会議室まで降りた。

 なかに入るまでもなかった。エレベーターからでも、ひどい状況になっているのがドア越しに見えていた。化鳥の口笛と混じり合った呻きや喘ぎが会議室に満ちている。掻き裂かれて血塗れになったツィグールが床を這っている。ここでできることは何もない。

 ボタンを押して下に降りると、街のふもとにある詰め所に駆け込んだ。

 服をぼろぼろにした男たちが、火炎放射器や重機関銃に飛びつき、あがいていた。

「馬鹿野郎!」ジーゲルが吠えた。「機械に頼るとどうなるか思い知ったか」

 女の叫喚は男の怒号よりも鋭く、激しい。それが騒ぎの本流となり、空気を切り裂いていた。

 ジーゲルは一瞬にして詰め所の武器を値踏みした。

「街なかで火炎放射器など使うな! 危険すぎる! 格納庫のガソリン・タンクを爆破しろ」

「火をつけて……焼き払うんだ」中尉の一人がつぶやいた。

「燃料補給を断つにはそれしかない」

 化鳥はいつもどおり朝満タンにしたのだろうから、ガソリンはあと二時間とはもつまい。それまで耐えきればいい。

「急げ! 周囲の建物はやむを得ん。あとで消せばいい」

 ジーゲルは六人をしたがえて対空砲に駆け寄り、焼夷弾を詰めた。

 七人は格納ドームの基部に狙いを定めた。

「撃て! ドームを爆破するまで撃ち続けろ!」

 爆煙が上がった。ドームが揺れて崩れ落ち、破片が飛び散り、周りの建物にまで降り注いだ。化鳥の群れがあわてた様子で旋回している。群れから離れて砲台めがけて急降下して来た化鳥たちもいる。

「撃て!」ジーゲルが叫んだ。

 急降下していた化鳥が撃たれ、きりきりと舞いながら、燃えた紙切れのように縮こまり、鈍い爆発音とともにかたわらの道路に墜落した。仲間の化鳥たちが詰め所の上空に急降下して来た。

 不意に巨大な影が窓に映る。窓が割れ、化鳥の重みで粉々になって飛び散った。

 蝙蝠のように部屋の天井付近を舞う化鳥に砲弾が降り注ぎ、翼が壁にぶつかり鈍い音を立てる。蹴爪で腹を裂かれた砲撃手が絶叫した。ジーゲルはぎりぎりで身を伏せて床を転がり、砲撃手をつかんでいる爪の届かないところまで逃げることができた。

 ついに化鳥たちが束になって詰め所に襲いかかった。一人がパニックに陥り、ジーゲルが止める間もなく、火炎放射器を操作した。男は燃え上がった化鳥の落下に巻き込まれて倒れ込んだ。燃料タンクが開き、炎の層が舌を広げ、詰め所じゅうを舐め尽くした。

 ジーゲルは廊下に飛び込んだ。そこなら化鳥たちも襲えない。

 叫び声、口笛、砲撃の音、火炎放射器のうなりが、切れ目なく調べを奏でている。化鳥たちの動きが速すぎて弾が当たらないので、誰もがそれを理由に、ジーゲルの忠告を無視して火炎放射器を使っていた。街じゅうで火の手が上がっている。襲撃に恐慌を来した人々には、火を消すことにまで頭を回すことができなかった。

 目を上げると、階段室の高い窓から、火の粉に包まれた鋼鉄製の梁が見えた。モノレールのレールだ。

「撃て! 撃て!」馬鹿のように叫ぶ声が聞こえる。

 ――どうやら片はついたな、とジーゲルは考えた。ツィグールは死んで、会議も鳥の餌にされちまった。俺のキャリアもこれで終わりだな。【会議は熱々のうちに食われちまった。

 どうやって逃げればいい? モノレールは燃えちまった。飛行機で飛び立つのは狂気の沙汰だ。一番の安全策は歩いて街を出ることだろうか。化鳥たちも街の外までは追って来るまい。

 ジーゲルは市門行きの水平エレベーターに乗った。

 誰一人邪魔をする者はいなかった――財産を運び出したり身を守ったりするのに必死なせいで、助けを呼びに行くのか火災や化鳥を鎮めようとしているのだくらいにしか思われていないようだ。

 出口にたどり着き、目の前に広がる景色を見ると、張り詰めていたものがゆるみ、ため息が洩れた。参ったな! こんな蟻の巣のなかで三年間も暮らしていたとは!

 ――どのみち環境を変える頃合いだったんだ。

 ジーゲルは川に急いだ。川に行けば小舟がある。焦土を離れて遠くに行ける。武器と経験があれば、どこをさまよおうと恐るるに足らぬ。

 かなりの時間を歩いたあとで振り返った。街はもはや赤く燃える松明の光に過ぎなかった。ジーゲルのいるところからは、はっきりしないかたまりが光っているのが見えるだけだった。巨大な煙の柱がゆらゆらと立ちのぼっている。

「あのなかはさぞかし暑かろうな!」冗談を言う余裕が生まれていた。

 川を目指して歩いていると、静けさのおかげで興奮も冷め、何が起こったのかをじっくりと考え始めた。

 今回の暴動が意味するところは? 支配するのは自分たちのほうだ、と考えていたのであれば、どうして操縦士たちはツィグールに最後通牒を突きつける代わりに、馬鹿げた奇襲攻撃を仕掛け、挑発するように口笛を吹き鳴らしているのだろう?

 やがて少しずつ恐ろしい確信が頭をもたげて来た。あいつらは完全に機械のなかで生きることを余儀なくされて、もともとの身体に宿っていた感情を失ってしまったのだ。ずっと同じ状態でいたために、グライダー特有の反応や動きをしているうちに決断の仕方や考え方まで順応してしまい、ついには機械をおのれの身体――鳥の身体――としてしまったのだ。人工の鳥と共生するうちに人間本来の振る舞いをすっかり忘れ、肉食を課せられているうちに人肉の味を覚えてしまったのだ。ドルカンが望んだより遙かに完全に、文字通り機械の脳となってしまったのだ。さりとてその食嗜好が示していたとおり、脳であればどんな身体にも住まえるというわけではない。脳は独立しているわけではなく、解剖学上も肉体上もその一部でしかないのだ。脳の働きを導くのは身体の動きである。言動、務め、生き方によって精神が形作られてしまえば、肉体は外部世界を把握するための手段に過ぎなくなる。

 操縦士が化鳥のなかでひたすら操作に溺れて腕を磨いていくうちに、本来の人間の肉体が衰え、機械装置と脳が互いに影響を及ぼし合うようになっていた。最終的にはもはや一つのことしか考えられなくなった。獲物を追い、口笛で会話することだけが考えていることのすべてであった。こうして化鳥たちは本物の鳥になり、知性も衰えていった。 そこから常軌を逸した挑戦が始まった。それはまったく新しいタイプの動物であった。

 ――ツィグールにとっちゃ、予期せぬアクシデントというわけか。理論がうまくいったばっかりに、そのせいで命を落とすとはな。

 ジーゲルは川に急いだ。何だかんだあっても数時間後には片がついているはずだ。

 影がかたわらの地面をよぎった。見上げると、空高くに一羽の化鳥が旋回していた。

 ジーゲルは駆け足になり、折にふれて顔を上げ化鳥の様子を確かめた。

 ――化鳥の最後の一羽がくたばるまで、地下倉庫で待機しているべきじゃないのか。そのほうが逃げ回るより賢明なのでは。駄目だ。馬鹿げてる。火に巻かれて生き埋めになるか窒息死するのが落ちだ。化鳥はいったい何をしているんだ? 侵入者を追いかけて遊ぶのはもうやめたのか? ふん! 食べることしか考えていないんだな。あせるな、現状を維持しろ。二十分もすればガソリンが切れて、あの欠陥品も一巻の終わりだ。

 暗くなり始めるころには、岩山の見えるところに来ていた。ジーゲルは岩山に向かって走った。身を潜ませる洞窟か窪みが見つかるはずだ。

 化鳥をさっと見やった。旋回しながら降りて来ている。

 ざっと見積もったところでは、化鳥より早く岩場までは着けそうにない。夜の闇が荒れた岩場を黒く染め始めている。暗さに紛れて見えない岩の起伏につまずきかねない。全力で走っても意味がない。ジーゲルは立ち止まって地面に伏せ、ピストルを構えた。

 化鳥の描く輪が狭まっていた。

 ――これだけ地面に密着していれば、飛びながら襲うわけにもいかんだろう。速度を落として着陸するしかあるまい。行動するならその時だ。それにもうすぐガソリンも切れるはずだ。

 真上で旋回する化鳥が頭をかすめそうになる。目の前に巨大な円窓眼が見えた。薄明を反射して邪悪な光を放った。撃つならコクピットだ。弱点はそこしかない。

 蹴爪のある『頭』がかしいだ。今だ。ジーゲルは三発続けて狙い撃った。途端に大きな塊が降って来た。

 三メートル以上転がってそれを避けてから、もう一発撃った。化鳥は斜面に落ち、折れた片翼をぶら下げていた。警告の口笛が空中に響き渡る。

 ジーゲルは立ち上がって走ろうとしたが、足を取られた。気づけば、身体じゅうのいたるところから血が流れている。街を赤く染める地平線から、いくつかの点が浮かび上がり、急速に近づいて来るのが見えた。仲間の化鳥だ。腐肉におびき寄せられたコンドルの群れのように、警告を聞いていっせいに攻め込んで来たのだ。

 勇気がくじけそうになる。手から流れる血が止まらず、拳銃がべたついている。地面で動けずに震えている化鳥を撃ち続けた。コックピットはすでに割れていた。なかで何かがうごめき、外に出ると、土から顔を出したばかりの芋虫のように、光に目を眩ませた。力まかせに引きずりだされた醜い鉛色の胎児のようだ。

 もう一発。

「この出来そこないめ! 化けもの鳥め!」

 いざりのように這いずる痩せ細った化けものを、おぞましい目つきで見ると、皮膚が破れてゆっくりとリンパ液が流れ出していた。

 顔を上げると、ほかの化鳥たちが敗れた仲間を助けようと向かって来る。だが市街戦と火災で傷ついた化鳥たちは、空中でふらめき、不格好に翼をばたつかせていた。ジーゲルは這って逃げようとした。足はもう立たない。翼のふちで腿の筋肉を断たれてしまった。もう駄目だと感じながらぐちゃぐちゃの地面を這い続けた。時計に目を落とした。針が指しているのは、ガソリンが切れたころだ。

「しめた!」ジーゲルはしゃくり上げた。

 ついに化鳥たちが落ちて来た。よろめき、ぐらつき、黙示録の鳥のように炎をあげている奴らもいる。戦いで死にかけた奴らは、努力の甲斐なく地面に叩きつけられ、ぐしゃぐしゃになっていた。

 空にはもはや一羽たりともいない。生きている奴らは警告の笛を鳴らした化鳥の周りに集まっている。地に這いつくばって逃げようともがき、翼を広げようと無駄な努力を続けていた。

 ジーゲルは放心したように、その異様な光景を見つめていた。憎しみに口唇を歪め、吐き捨てた。

「死ね! くたばっちまえ! もう飛べやしまい、ハゲタカどもめ!」

 ジーゲルは四つんばいのまま、屑鉄どもから離れようと川に向かおうとした。

 そのとき、ジーゲルの言葉に反応したように、口笛が響き渡った。操縦士たちの脳が、自分が死にゆき、種が滅びゆくのを直感し、化けものじみた本能から、混乱した意識のなかでそんな声をあげることしかできなかったのだ。その口笛にはもはや意味などない。あるのは哀しい叫びであり、引き裂かれるような響きであり、喉から絞り出される慟哭であった。繰り返される嘆きの合唱は、通夜の哀哭のように空に舞い、黄昏の空気を満たしていた。

 ジーゲルは夜空の下に広がる燃え尽きた街を見つめていた。オイルと焼けた肉の匂いが喉を刺し、獣じみた化鳥の嘆きが耐え難く耳を聾する。夜に黒く染められた地面が赤く照らされ、燃えている化鳥が身体をよじるたびに光が揺れた。遠くに川が光っている。どこを見ても、すさんだ夜陰があるばかりだ。

 夜は少しずつ心のなかにも忍び込んできた。

 ――終わったんだ。助かった。助かったんだ。喘ぎながら繰り返し言い聞かせた。

 助けを求めて、わけもわからず地平線を見つめた。光もなく、暗く、冷たい地平線。血で視界が閉ざされ、引き裂かれるような化鳥の悲鳴が小さくなっていった。

[註釈]

*1. [未開の中世が……]
 ニーチェ遺稿集8、1880-1881冬より、第61断想。著者によって若干のアレンジがされています。[]
 

*2. [ミンスキー]
 マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』に出てくる殺人鬼。[]
 

『アンジュ・ピトゥ』 07-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第七章 長い足の踊るには醜かれど走るには役立てると明らかにされし次第

 納屋には何人もの聴衆が詰めかけていた。以前に申し上げた通り、ビヨ氏は雇い人たちに敬意を払っており、叱ることもしばしばなれど、滞りなく食べさせ、滞りなく給金を支払っていた。

 だからビヨ氏の誘いとあらばこうして人が集まって来る。

 もっとも、この当時は人々が奇妙な熱に浮かされていた時代であり、事を起こそうとする国民は決まってそうした熱に罹っていた。聞き慣れないどころかまるで知らぬような新しい言葉が、それまで口にしたこともない人間の口から飛び出していた。自由、独立、解放。些か不思議なことに、この言葉を耳にするようになったのは庶民の間ではなく、まずは貴族の口からであり、それに呼応した庶民の声は所詮こだまであった。

 焼けつくまでに照らすその光は西からやって来た。アメリカから昇ったその太陽は、運行を終えると、フランスを焼け野原に変え、血文字で書かれた共和国という言葉をその火で照らして怯えた国民に読ませる定めであった。

 ゆえにこうした集会では、政治問題について議論されることも、想像以上に珍しくなかった。人々が何処からともなく現れ、まだ見ぬ神の使徒となって、ほぼ人知れず、町や村を駆け巡り、自由という言葉を撒き散らした。そうなってみて初めて、盲政府も目を開け始めることになる。国家と呼ばれる斯かる巨大機関を率いる者たちは、何が故障の原因かもわからぬながらに何処かの部品が障害を起こしたのを感じていた。叛乱は既に脳を侵しており、腕や手に広がるのも時間の問題だった。目にこそ見えぬが、存在し、実感できる、脅威であった。幽霊のように捕らえがたく、目にしてもその手でつかむことは出来ぬだけに、いっそう脅威ともなるのであった。

 ビヨに雇われている二十数人の作男が納屋に集まっていた。

 ビヨがピトゥの後から入って来ると、作男たちは帽子を取って振りかざした。主人の合図で死ぬことさえも厭わぬに違いない。

 ビヨから説明があり、ピトゥが読むのがジルベール医師の著作である旨が告げられた。ジルベールの名は村中に知れ渡っていた。村に幾つも地所を持っており、ビヨの農場はその筆頭であった。

 ピトゥは用意されていた樽に上がり、その即席の演壇上で朗読を始めた。

 ご存じの通り、庶民というものは――はっきり申さばおしなべて男というものは――理解できぬものにこそ耳を傾ける。この本の言葉はどれも、田舎人の心には穿たれなかったし、ビヨにも理解できなかった。だが難解な言葉の中にも、曇天に電気を湛えてきらめく稲光のように、光を湛えた言葉があった。独立、自由、平等。ほかには何もいらなかった。拍手が巻き起こり、「ジルベール先生、万歳!」の声が響き渡った。三分の一ほどまで読まれていた。三度目の日曜日には読み終わるだろう。

 次週の集いにも誘われた聴衆は、また集まることを約束した。

 つつがなく読み終えられた。成功こそ最大の褒美である。本に向けられた喝采も一部は読み手に届けられたものであったし、その智識に圧倒されてビヨ氏にさえピトゥへの敬意が生まれていた。ピトゥは肉体的には人並み以上であったが、これで精神的にも一回り大きくなっていた。

 足りないものは一つだけ。カトリーヌ嬢がその勇姿を見届けてくれなかったことだ。

 だが医師の本がもたらした反応に酔いしれていたビヨ氏は、その成果を妻や娘とも分かち合いたがった。ビヨ夫人は無反応だった。先を見通せない女なのだ。

 だがカトリーヌは悲しげな笑みを浮かべた。

「まだ何かあるのか?」ビヨ氏がたずねた。

「パパのことが心配なの」

「凶鳥は使わないのか? 俺は梟より雲雀がいいね」

「パパが見張られてるから伝えてくれるよう頼まれたんだってば」

「誰がそんなことを?」

「友達」

「友達? 忠告痛み入るね。その友達の名前を聞かせてもらおうか。何処のどいつだ?」

「もの知りな人」

「だから誰なんだ?」

「イジドール・ド・シャルニーさん」

「あのめかし屋が何だって言うんだ? 俺の考え方にご忠告申し上げるだと? あいつの服の着方に俺がご忠告申し上げたことがあったか? 言われたらには言い返さなきゃならんようだな」

「怒らせようと思ってこんなこと言ったんじゃないの。親切から教えてくれたのに」

「ならこっちもお礼をしなくちゃな。伝えてくれ」

「何を伝えれば?」

「お仲間たちは気をつけろってことだ。国民議会じゃ貴族のお歴々はやり玉に挙げられているし、寵臣寵姫のことが議題に挙げられるのもしょっちゅうだ。お兄さんのオリヴィエ・ド・シャルニーによろしく伝えてくれ。あっちでオーストリアと仲良くしてるそうじゃないか」

「何でもご存じのようだから、勝手にするといいわ」

「それで――」朗読の成功で自信を深めていたピトゥが呟いた。「イジドールさんはどうしてそんなことを?」

 カトリーヌには聞こえなかったのか、聞こえぬふりをしたのか、話はそこでお終いになった。

 昼食はいつも通りに摂られたが、昼食をこれほど長く感じたのはピトゥには初めてだった。自信に溢れたピトゥはカトリーヌ嬢と腕を組むのを見て欲しくてじりじりしていた。ピトゥにとって今日この日曜日は記念日であった。七月十二日のことは忘れまいと心に誓った。

 三時頃になってようやく人がいなくなった。カトリーヌは可愛かった。黒い瞳に金の髪、水汲み用の泉に影を落とす柳のように細くしなやか。女らしさをひときわ輝かせるような色気を、生まれながらに纏っていた。手製の帽子が驚くほどに似合っている。

 ダンスはいつも七時にならないと始まらない。四人のヴァイオリン弾きが壇上に上がり、コントルダンス一曲につき六ブランで、野外舞踏会上に案内していた。差し当たり六時までは、アンジェリク伯母の話にあったあのスピール小径をぶらついている人や、近隣の若者たちがドルレアン公閣下のポーム教師長ファロレ氏(maître Farolet, paumier en chef)の許でポームに興じているのを眺めたりしている人がいた。ファロレ氏は神託を授かりし如くに、陣取チェルス打撃権シャス、ポイントの判断を下し、年齢と功績に相応しい称讃を手にしていた。[*1][*2]

 さしたる理由があったわけではないが、ピトゥとしてはスピール小径から離れたくはなかったかもしれない。だがカトリーヌが驚くほど小粋な女に化けたのは、何もブナ小径の木陰でじっとしていたいからではなかった。

 女とは心ならずも木陰に追いやられた花のようなものだ。我先にと光を目指し、香りに満ちた花冠を必ずや太陽の下で花開かせる。太陽が花をしぼませ、枯れさせるものだとしても。

 詩人曰く、身を潜めるほど慎ましいのは菫だけ。もっとも菫とてその美しさの無為に散るのを嘆いてはいるのだ。

 カトリーヌに腕を引かれて、ピトゥたちはポーム場までたどり着いた。無論ピトゥも引っ張られるのに抵抗していたわけではない。ピトゥの方も空色の外着や洒落た三角帽を早く見せたいのは、カトリーヌがガラテイア風の帽子ボネや玉虫色の胴衣を見せたいのと同じだった。[*3]

 我らが主人公を何よりも嬉しがらせたのは、一時的にせよカトリーヌ争奪戦で優位に立てたことだ。これほど着飾ったピトゥを見た者など絶無ゆえ、会ってもピトゥだとは気づかれぬどころか、都会からやって来たビヨ家の親戚か何かか、果てはカトリーヌの婚約者に間違われたりもしたのだ。だが早く正体を明らかにしたい衝動が頭をもたげたので、勘違いも長くは続かなかった。友人に会うたびお辞儀をし、知り合いに会うたび帽子を取っていると、村人たちもようやくフォルチエ神父の生徒に気づき、どよめきが起こった。

「ピトゥだ! アンジュ・ピトゥを見たかい?」

 騒ぎはアンジェリク嬢にまで届いた。だが甥だと言って騒がれているのが颯爽とした少年だと聞き、外股で胸を張って歩いているからには、いつも内股で背を丸めているピトゥではないと確信し、あり得ないと言って首を振った。

「見間違いだよ、あの出来そこないじゃあない」

 カトリーヌとピトゥはポーム場にやって来た。その日はソワッソンとヴィレル=コトレの試合があったため、球戯場は盛り上がりを見せていた。二人は土手の一番下に張られたロープのそばに腰を落ち着けた。その場所がいいとカトリーヌが選んだのだ。

 やがてファロレ氏の声が聞こえた。

「両者コートチェンジ」

 言葉通り選手は移動していた。つまり自分の陣地シャスを守り、敵のポイントを奪いに行った。選手の一人が移動しながらカトリーヌに微笑みかけると、カトリーヌもお辞儀を返し、頬を赤らめた。その瞬間、自分の腕に添えられたカトリーヌの腕に震えが走るのをピトゥは感じた。

 感じたことのない苦悶がピトゥの心を抉った。

「シャルニーさんですか?」

「ええ。知ってたの?」

「知りませんでした。でも、そうじゃないかと」

 その若者がシャルニー氏だということは、前日カトリーヌから聞いたことを考えればわかった。

 カトリーヌに挨拶をしたのは二十三、四歳の顔立ちと身体つきのよい貴公子であった。身なりといい身ごなしといい洗練されていて、揺籃より授けられた貴族教育が板についている。幼年期より貴族教育を施されていればかくあるべしといった立ち居振る舞いを、完璧に体現していた。そしてまたその時々に応じた服装を見事に着こなしていた。狩猟服はその趣味の良さが引き合いに出され、剣道着は聖ゲオルギウスさえ手本にしそうなほどで、乗馬服は特別仕立てというわけではないのだが着こなしのおかげでそう見えていた。

 この日、我らがシャルニー伯爵の次弟シャルニー氏は、朝に整えたままの髪に、明るい色の細身のズボン姿、これが細く逞しい太腿やふくらはぎを引き立てている。赤い踵の靴か折り返しブーツの代わりに、お洒落なポーム・サンダルが革紐で結ばれ、白いピケ織りの上着がコルセットで締めたように胴にぴっちり馴染んでいる。土手の上では召使いが金筋つきの緑の外着を携えていた。[*4]

 動き回っているシャルニーは若く爽やかな魅力に溢れていた。二十三歳にして夜更かし、夜遊び、日の出まで賭け事に興じていたがため、普段はそんなものはとっくに失われていたのだが。

 カトリーヌも気づいたはずのこうした長所を、ピトゥが見逃すはずもない。シャルニー氏の手足を見て、靴屋の息子に勝った時に感じた自信も萎え、神様も身体を構成する部品をもっと上手く組み立ててくれたら良かったものを、と感じずにはいられなかった。

 ピトゥの足、手、膝の余りで綺麗なふくらはぎを作ることだって出来たはずだ。ところが肉はあるべきところにはなく、細くあるべきところに密集し、丸くあるべきところはすかすかだった。

 自分の脚を見る寓話の鹿のように、ピトゥは自分の足を見つめた。[*5]

「どうしたの?」

 カトリーヌにたずねられたが、ピトゥは答えず首を振って溜息をついた。

 一セットが終わった。シャルニー子爵がセット間の空いた時間を使ってカトリーヌに会いに来た。子爵が近づくにつれ、カトリーヌの頬が染まり、腕の震えるのがピトゥにもわかった。

 子爵はピトゥにお辞儀をし、当時の貴族にとっては中流娘やお針子もお手のもの、たるくだけた調子でカトリーヌの機嫌を伺い、ダンスに誘った。カトリーヌが受諾すると、子爵の顔が感謝でほころんだ。次のセットが始まり、呼ばれた子爵はカトリーヌに挨拶して、受諾してもらえたことに安心した様子で遠ざかった。

 子爵がピトゥに優越感を抱いているのが、ピトゥには痛いほどわかった。その口振り、笑い方、歩き方、立ち去り方。

 シャルニー氏の何気ない所作をひと月真似てみたところで、戯画にしかなり得ないことはピトゥ自身にもよくわかった。

 ピトゥの心は憎しみを知り、これ以来シャルニー子爵が大嫌いになった。

 選手たちが召使いを呼んで上着を受け取るまで、カトリーヌはポームを観戦し続けていた。試合が終わるとカトリーヌはダンスに向かった。残念なことに、その日はすべてがピトゥの思惑とは裏腹に進んでゆくらしい。

 カトリーヌの腕がピトゥの腕から離れ、真っ赤になってパートナーと輪の中に進んでゆくのを見て、ピトゥはこれまでになく気分が悪かった。冷や汗が額に浮かび、目に霞がかかった。手を伸ばして手すりをつかんだ。膝が強張り、今にも崩れ落ちそうだった。

 ピトゥの胸に飛来した気持のことなど、カトリーヌは考えもしなかったはずだ。カトリーヌが感じていたのは嬉しさと誇らしさだ。近隣一のパートナーと踊るのは、嬉しかろうし、誇らしかろう。

 ピトゥとしても、ポーム選手としてのシャルニー氏は渋々認めていたのに引き替え、ダンサーとしては正当に評価せざるを得なかった。当時はまだダンスをせずに散歩するという流行は訪れていなかった。ダンスは教養の一環であった。国王のカドリールにて初めに披露したダンスで成功したド・ローザン氏を引き合いに出すまでもなく、貴族たちは足を伸ばし爪先を前に出すそのステップを真似て、首尾良く宮廷に出入りしていた。この点において子爵は優雅で完璧なお手本であり、国王でも俳優でもない身でも、ルイ十四世のように舞台で喝采を浴びることさえ出来ただろう。

 ピトゥは改めて自分の足を見つめてみた。大きな変化でも起こらない限り、シャルニー氏が勝ち得ているような栄誉を望むことは断念しなくてはなるまい。

 ダンスが終わった。カトリーヌには一瞬の出来事であったが、ピトゥには一世紀にも思える時間だった。パートナーの腕を取って戻って来たカトリーヌにも、顔つきが変わっていることを気づかれた。顔からは血の気が引き、額には汗が流れ、嫉妬に苛まれた目には涙が浮かんでいる。

「どうしたの、ピトゥ?」

「あなたとダンスなんて出来ませんよ、シャルニーさんのダンスを見せられてしまったら」

「そんなことで落ち込まないで。踊りたいように踊ればいいでしょう。キミとダンスするのも楽しみにしてたんだから」

「慰めてくれるのはありがたいけれど、自分のことはよくわかってます。こちらの方と踊る方が楽しいに決まってますから」

 カトリーヌは何も言えなかった。嘘をつきたくなかったのだ。それでも、よく出来た人間だったので、ピトゥの心にこれまでとは違った感情が生まれていることに気づいて、出来るだけ優しく接した。だがいくら優しくされても、消え去った喜びも明るさもピトゥには戻らなかった。ビヨ氏は正しかったのだ。ピトゥは男になりつつあった――そのために苦しんでいた。

 カトリーヌはまた五、六回ダンスをし、シャルニー氏と二度目を踊った。ピトゥも今度は前ほど苦しまずに表面上は落ち着いて見ていられた。カトリーヌたちが動くのを目で追い、口唇の動きから何を話しているのか読み取ろうとし、動きの中で手が触れ合えば、手が触れているだけなのか握り合っているのかを見極めようとした。

 カトリーヌはシャルニー氏ともう一度だけ踊りたかったのだろう。ダンスが済むとピトゥに向かい、そろそろ家に帰ろうと声をかけた。ピトゥの返事はつれないものだった。おまけに、歩いている間も時々カトリーヌが呼び止めねばならないほど大股でずんずん進み、一切口を利こうとはしなかった。

 

[註釈]

*1. [六ブラン]
 1ブラン=10ドゥニエ。1スー=12ドゥニエ、1リーヴル=20スー=240ドゥニエ。なので、1ブラン≒0.83スー≒0.042リーヴル。[]
 

*2. [陣取、打撃権、ポイント]
 それぞれ tierce, chasse, quinze。有利なポジションを得ること、スマッシュ権のようなものを得ること、15点得ること。
 ※【ポームのルール】ボールが二バウンドする前にレシーブできないと相手に「chasse」権。バウンド地に目印をつけ、コートチェンジ(passer)する。権利を手にした者は目印の向こうで二バウンド目するようにボールを打つ。二バウンド目が手前の場合、相手に15ポイント。それを防ぐには二バウンド目する前にボールを打ち直さなくてはならない。それが出来なければ相手は労せずポイントを獲得できる。「chasse」を打てるのは、中央のロープ(ネットの前身)と自陣のあいだ、もしくはサーヴ地点から敵陣の端までであり、前者の場合はロープの上を越えなくてはならず、後者の場合はロープの下でよいうえに地面を転がしてもよい。[]
 

*3. [ガラテイア風の帽子《ボネ》]
 bonnet à la Galatée。ガラテイアとはギリシア神話に登場する、1.アーキスとポリュペーモスに愛される女、2.ピグマリオンの妻(彫像)。ガラテイア風のボンネットとはどういうものなのかは特定できませんでした。さまざまな芸術家が絵や彫刻を造っているので、いずれかに影響を受けたものか。時代的には Charles de la Fosse「Le Triomphe de Galatée」や Jean-Baptiste Deshays「Pygmalion et Galatée」などに描かれたガラテイアが、花でできた冠のようなものを頭に巻いているので、これを模してボンネットの縁取りなどに花飾りをつけたものか?。ガラテイア風というシニヨン風の髪型もあったが、これは時代も下るので違う。[]
 

*4. [赤い踵の靴]
 宮廷人の印。[]
 

*5. [寓話の鹿]
 『ラ・フォンテーヌ寓話集』より、6-9「水に映った自分の姿を見るシカ」。水に映った姿を見た鹿は、立派な角に比べて細い脚を厭った。だが猟犬に追われて逃げるとき、角が邪魔になって必死に走る脚の歩みを妨げた。[]
 

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
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