アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
行進が止まっている間、背伸びしても何も見えない人々が好奇心を抑え切れずに、マルゴの手綱や鞍や鞦や鐙によじ登ったため、行列が動き出す頃にはとうとうマルゴは重さに耐え切れずに文字通り潰れてしまった。
リシュリュー街の角でビヨが振り返ってみたが、マルゴの姿は見えなかった。
ビヨはマルゴの思い出に溜息を一つつくと、声を限りにピトゥの名を三度呼ばわった。親族の葬儀に臨んだ古代ローマ人のような声だった。その声に応える声が人混みの中から聞こえたような気がした。だがその声は湧き起こったどよめきに掻き消された。どよめきは半ば脅すような、半ば喝采するような響きを伴っていた。
行列は歩き続けた。
店という店が閉まっていたが、窓という窓が開き、そこから行列に向かって昂奮した励ましの声が飛んでいた。
こうしてヴァンドーム広場にたどり着いた。
だがそこで予期せぬ障害が待ち受けていた。
氾濫した川の流れに巻き込まれた木々の幹が、橋脚にぶつかって、後ろから流れて来た漂流物に乗り上げるように、人民軍(l'armée populaire)はヴァンドーム広場でドイツ人聯隊(un détachement de Royal-Allemand)とぶつかった。
騎兵隊だ。人の流れがサン=トノレ街を通ってヴァンドーム広場まで浸蝕して来たのを見て、五時間前から一休みしたがっていた馬の手綱を緩め、民衆に向かって突撃して来た。
担架を運んでいた男たちが最初に直撃を喰らってひっくり返った。ビヨの前にいたサヴォワ人が真っ先に立ち上がり、ドルレアン公の胸像を起こし、持ち手の先に結わえて高々と掲げ声をあげた。「ドルレアン公万歳!」と、会ったこともない公を讃え、「ネッケル万歳!」と、知りもしないのに叫んだ。
ビヨがそれを真似てネッケルの胸像を掲げようとしたが、そうと察した二十四、五歳の洒落た若者がそれを目で追い、ビヨよりも易々と掲げたので、地面に落ちていた胸像は見る間に頭上に突き出された。
ビヨは虚しく地面を掻いた。ネッケルの胸像はとうに持ち手の先でドルレアン公の隣に並び、人々に取り囲まれていた。
不意に広場に閃光が走った。と同時に銃声が聞こえ、弾丸が風を切る。何か重たいものが額に当たり、ビヨは倒れた。一瞬、自分は死んだのだと覚悟した。
だが五感は失われてはいなかった。頭に激しい痛みを感じたので、どうやら怪我をしたらしいことはわかった。頭のほかには異常はない。額に手をやり傷の具合を確かめると、頭には瘤が出来ているだけだが、手が血に染まっている。
ビヨの前を歩いていた身なりのいい青年が、胸に弾丸を受けていた。死んだのはその青年であり、血も青年のものだった。ビヨの頭にぶつかったのは、支えを失い倒れたネッケルの胸像だった。
ビヨは憤怒と恐怖で声をあげた。
ビヨは断末魔に喘ぐ青年のそばを離れた。周りには同じようにして離れた人々がいて、嘆き声が弔いのようにサン=トノレ街の一群に広がっていた。
この声が新たな叛乱だった。またも銃声が聞こえ、人混みにぽっかりと空いた穴が銃弾の通ったことを知らせていた。
ビヨは血塗れになった胸像を抱え上げて頭上に掲げ、足許に横たわる青年のように殺される危険も顧みずに雄々しく声をあげようとしていた。その原動力は憤怒だった。一瞬にして頭に血が上っていた。
だがすぐに大きく逞しい手が肩にのしかかり、押しつぶされそうになった。ビヨは逃れようとしたが、今度は両手が両肩にのしかかった。ビヨは振り返って邪魔者を睨んだ。
「ピトゥ!」
「ボクです。少し伏せて見ていて下さい」
ピトゥは力を込めて無理矢理ビヨを伏せさせた。
地面に顔を途端に二度目の銃声が鳴り響いた。ドルレアン公の胸像を運んでいたサヴォワ人が太腿を撃たれてよろめいた。
それから鉄が舗道を穿つ音が聞こえた。騎兵隊の第二波が送られる。黙示録の馬のように鬣を振り乱した怒れる馬に踏まれたサヴォワ人が、槍で貫かれたような痛みに打たれて、ビヨとピトゥの上に倒れかかった。
嵐は道の奥まで吹き荒れ、恐怖と死をもたらしていた! 死体だけを舗道に残し、人々は近くの路地に逃げ込んだ。窓は閉められ、熱狂と憤怒の後には痛ましい静寂が訪れつつある。
ピトゥに押さえつけられていたビヨはしばらくはおとなしくしていた。だが物音が遠ざかってゆくのを聞いて危険は去ったと判断すると、ピトゥが巣穴の兎のように頭ではなく耳を立てているのを尻目に、膝を立てた。
「ビヨさんの話は本当だったんですね。凄い時機に来ちゃいました」
「そうだな。手伝ってくれるな?」
「何をしましょう? 逃げるんですか?」
「いいや。洒落者は死んだが、サヴォワ人は気を失っただけじゃないかな。あいつを背負うのを手伝ってくれ。こんなところに放っておくわけにはいかん。ドイツ野郎にとどめを刺されちまう」
ビヨの言葉はピトゥの心に真っ直ぐ突き刺さった。従うよりほか応えはない。ピトゥは気を失った血塗れのサヴォワ人の身体を袋のように抱え上げ、ビヨの肩に預けた。ビヨはサン=トノレ街に人気がないことを確認すると、ピトゥを従えパレ=ロワイヤルに向かった。
第十一章に続く。