アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第十四章 フランスの三つの権力
ビヨは歩き続けていたが、叫ぶのはやめていた。叫んでいたのは群衆であった。軍人然とした佇まいに惹かれ、ビヨの内に自分を感じ、一挙手一投足に目を凝らしてビヨに付き従っていた群衆は、進むにつれて上げ潮のように膨れ上がっていた。
サン=ミシェル河岸にたどり着いた時、ビヨの後ろには庖丁や斧や槍や小銃で武装した三千人以上の男たちがいた。
誰もが口々に「バスチーユへ! バスチーユへ!」と叫んでいた。
ビヨは物思いに耽っていた。前章に記した考察をビヨ自身が考え始め、それにつれて昂奮も治まって来た。
頭の中をくっきりと見通せた。
計画は崇高だが正気ではない。「バスチーユへ!」という叫びに感化されて怯えと皮肉の浮かんだ顔を見れば、それは歴然としている。
だがそれも決意をいっそう強くするだけだった。
とは言え母や妻や子供に対し、ついて来る男たちの命を預かっているのは理解したし、用心するのにしすぎることはないと心に決めた。
そこで音頭を取って群衆を市庁舎広場に導くことにした。
そこでビヨは聯隊長と将校を決めた。いわば羊の群れを率いる犬の役目を託したのだ。
――さて、フランスには権力が一つ、いや二つ、いや三つもある。話し合ってみるとしよう。
ビヨは市庁舎に乗り込み、代表者が誰かをたずねた。
パリ市長ド・フレッセル氏だという答えが返って来た。
「そうか」ビヨは不満げだった。「ド・フレッセル氏、貴族、いわば庶民の敵だな」
「まさか。有能な人ですよ」
ビヨは市庁舎の階段を上った。
控えの間に守衛(huissier)がいた。
「ド・フレッセル氏にお会いしたい」近づいて来た守衛に用件をたずねられたビヨは答えた。
「無理だ。市長は今、街を練り歩いているブルジョワ兵の概要をつかむので忙しい」
「そいつはよかった。兵隊を率いているのがこの俺なんだ。もう三千人も集まった。フレッセルさんに会いたい。周りを兵隊で固められる前にな。フレッセルさんと話をさせてくれ、今すぐだ。ほら、窓の外を見たらどうだ?」
守衛が慌てて河岸に目を遣ると、ビヨが率いて来た群衆が見えた。大急ぎで市長に知らせに行き、欄外に註をつけるかのように問題の群衆を指さした。
それを見た市長は、面会希望者に敬意のようなものを感じた。会議を抜け、控えの間で面会者を探した。
ビヨを見てこの人だと当たりをつけ、笑顔で話しかけた。
「あなたですね?」
「パリ市長のフレッセルさんですね?」
「いかにも。ご用件を承りましょう。ただし手短に。忙しいのでね」
「市長さん、フランスには権力が幾つありますか?」
「仰る意味にもよります」
「市長さんなりの受け取り方で結構です」
「バイイ氏(M. Bailly。国民議会議長)なら、国民議会ただ一つだけだと答えるでしょうし、ド・ドルー=ブレゼ氏(M. de Dreux-Brézé。儀典長)なら、国王ただ一人だけだと答えるでしょう」
「市長ご自身はどうお考えですか?」
「今は一つだけ、という意見には賛成ですな」
「国民議会ですか? 国王ですか?」
「どちらでもない。国民ですよ」フレッセルは胸飾りをくしゃくしゃに丸めた。
「なるほど、国民か!」
「いかにも。言い換えるなら、庖丁と焼き串を手に下の広場に集まっている皆さんです。言い換えるなら、国民とはフランス人すべてだ」
「きっとその通りですよ、フレッセルさん。有能な人だという話は本当らしい」
フレッセルは頭を下げた。
「三つのうちどちらに訴えるおつもりですか?」
「考えるまでもない。大事なことをたずねたいなら、聖人ではなく神にたずねるもんです」
「つまり国王にお話しに行くつもりだと?」
「そう願いたいね」
「差し支えなければ内容を聞かせていただいても?」
「ジルベール医師をバスチーユから自由にすること」
「ジルベール医師? パンフレットの作者のことか?」
「哲学者の、と言ってもらおう」
「お好きなように。国王からお許しをいただく可能性は低いでしょうね」
「それはまたどうして?」
「ジルベール医師をバスチーユに入れたのが国王だとしたら、そうなるのが当然ではありませんか」
「構うもんか! 向こうが理屈を押し通すならなら、こっちの理屈を押し通すまでです」
「ビヨさん、国王はお忙しい方ですから、恐らく会ってはいただけますまい」
「会わせてくれないというのなら、許可なく入り込む手だてを見つけますとも」
「入り込めたとしてもドルー=ブレゼ氏に見つかって門から放り出されるのが落ちです」
「門から放り出されるって?」
「いかにも。国民議会のこともまとめて放り出したかったことでしょう。もちろん上手く行きませんでしたから、なおさら腹を立ててあなたに八つ当たりしないとも限りません」
「わかった。だったら国民議会に話を聞いてもらうことにする」
「すんなりヴェルサイユには行けませんよ」
「こっちには三千人いるんだ」
「途中にはスイス人衛兵が四、五千人、オーストリア兵が二、三千人はいるんです。あなたがたなどあっと言う間に片づけられてしまいますよ」