アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第十六章 バスチーユと司令官
バスチーユのことは語る必要もあるまい。
老若男女を問わずその胸に永遠の像が刻まれているはずだ。
大通りから見ると、バスチーユ広場に面する双子の塔が見晴らせ、塔の側面は現在の運河の両岸に沿って並んでいる、と言うだけに留めておこう。
バスチーユの入口は第一に衛兵の身体で、第二に二列に並んだ歩哨たちで、第三に二つの跳ね橋で守られていた。
それを越えれば司令官室の中庭に到達できる。
中庭から、堀まで続いている通路がある。
堀に面したこの二つ目の入口には、跳ね橋、衛兵、鉄柵が設けられている。
一つ目の入口でビヨは止められそうになったが、フレッセルの通行許可証を見せると通された。
そこでふと、ピトゥがついて来ているのに気づいた。ピトゥには自主性こそないが、ビヨの行くところなら地獄であろうと月であろうとついて来るだろう。
「外で待ってろ。戻って来られないかもしれない。俺が入ったことをみんなに思い出させてくれる奴が必要だ」
「そうですね。どのくらい経ったらみんなに呼びかければいいでしょうか?」
「一時間後」
「あの小箱は?」
「そうだな。俺が戻って来なかったら――ゴンションがバスチーユを乗っ取れなかったら――いや、乗っ取ったとして、俺を見つけられない場合、ジルベール先生を見つけて伝えて欲しいことがある。五年前に預けられた小箱をパリから来た奴らに盗まれた。それを知らせるためすぐにパリに発ち、先生がバスチーユに入れられていると知った。バスチーユを破ろうと決めた。バスチーユを破るためなら、俺の命なんかどうでもいい。先生のための命さ」
「わかりました。でもビヨさん、長すぎて忘れちゃいそうです」
「今の言葉をか?」
「ええ」
「繰り返そうか」
「いや、書いた方がいい」そばで声がした。
「俺は読み書き出来ないんだ」
「俺は出来る。裁判所の人間だからな」
「裁判所の人間だって?」
「スタニスラ・マイヤール、シャトレの執達吏だ」
そう言ってポケットから取り出したのは、角製の細長いインク壺、羽根ペン、紙、インク、要するに書くのに必要なものすべてである。
四十代半ば、背が高く、痩せぎす、厳めしく、黒ずくめ。いかにも法律関係者らしい恰好だった。
――葬儀屋みたいな人だな、とピトゥは呟いた。
「ジルベール先生から預かった小箱をパリから来た奴らに盗まれた、と言ったね?」
「ああ」
「それは犯罪だ」
「あいつらはパリ警察の奴らなんだ」
「泥棒野郎め」マイヤールが吐き捨てた。
それからピトゥに手紙を手渡した。
「君が持っていなさい。これがさっきの言伝の内容だ。この人と君の二人とも死んでしまった時でも、この俺は死なないようにと祈っていて欲しい」
「死ななかったらどうするんですか?」ピトゥがたずねた。
「君がやるべきだったことをするまでだ」
「ありがたい」
ビヨはそう言って執達吏に手を差し出した。
細長い身体からは想像もつかないほどの力強い握手が返って来た。
「あんたを信じていいんだな?」ビヨが確認した。
「マラーを信じ、ゴンションを信じるように」
「三位一体ですね。天国でもありっこないほどの」ピトゥはそう言って振り向き、
「ビヨさん、無茶はしませんよね?」
「ピトゥよ」ビヨの言葉には説得力があった。こういう人間を田舎でもひょっこり見かけるから不思議である。「一つ覚えておけ。フランスにゃあ無茶しないことより無茶じゃないものがある。勇気だ」