アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第二十一章 ド・スタール夫人
ジルベールは辻馬車の座席に腰を落ち着けた。隣にはビヨが、向かいにはピトゥがいる。顔は青ざめ、髪の先からは汗がしたたっていた。
だがジルベールは感情の揺れに屈するような人間ではなかった。馬車の隅に背を預け、考え込むようにして両手に顔をうずめてしばらくそのままでいたが、やがて手を離すと、動揺は消え去り、落ち着いた表情が現れた。
「ビヨ、国王がド・ネッケル男爵を罷免したと言ったね?」
「ええ、そうなんです」
「パリで叛乱が起こったのには少なからずそのことが関係していると」
「大いに関係ありますよ」
「それに、ネッケル氏はすぐにヴェルサイユを去ったと?」
「昼食中に書状を受け取り、一時間後にはブリュッセルに向かっていました」
「今は何処に?」
「いるはずのところに」
「途中で逮捕されたという話は聞いてないんだね?」
「そりゃそうですよ。サン=トゥアン(Saint-Ouen)まで娘さんのスタール男爵夫人にお別れを言いに行ったそうです」
「スタール夫人もご一緒したのかい?」
「ご一緒したのは奥さんだけという話でしたがね」
「馭者君、仕立屋があればそこで停めてくれ給え」
「お着替えですか?」ビヨがたずねた。
「うん、これにはバスチーユの壁でうんと擦り切れているからね。こんな恰好では罷免された大臣の娘さんに会いに行けないよ。もしかしたら君のポケットに何ルイか入ってないかな」
「おやおや、バスチーユに財布を置いて来てしまったようですね」
「規則だからね」ジルベールが微笑んだ。「価値のあるものは記録庫に提出しなくてはならなかった」
「そのままそこにあるんですね」
ビヨが大きな手を開くと、そこには二十ルイばかりがあった。
「どうぞ、先生」
ジルベールは十ルイを手に取った。数分後、辻馬車が古着屋の前で停まった。
当時はまだそれが一般的だった。
ジルベールはバスチーユの壁で擦り切れた服を、国民議会の第三身分が着ているようなこざっぱりした黒い服と替えた。
店の床屋と靴磨きに身なりを整えてもらった。
馭者はモンソー公園(parc de Monceau)の後ろを通って外側の大通り出てサン=トゥアンに向かった。
ジルベールがサン=トゥアンのネッケル邸で馬車を降りた時には、ダゴベルトの大聖堂(cathédrale de Dagobert)が午後七時の鐘を鳴らしていた。
数日前までは賑わっていたこの家の周りにも今は深い静寂が漂っており、それを破るものはジルベールの辻馬車だけであった。
だが見捨てられた城館に特有の侘びしさだとか、不興を蒙った邸宅にありがちな陰鬱な憂えだとかいったものはない。
閉じた門(grille)と人気のない花壇が主人たちの不在を告げていたものの、悲しみや慌ただしさの痕跡は認められない。