アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「この女は何者だと思う、セバスチャン?」
「お母さんなのではないでしょうか?」
「母親だって?」ジルベールの顔から血の気が引いた。
ジルベールは止血する時のように胸に手を押し当てた。
「いいや、これは夢なんだ。私の頭もおかしくなってしまったらしい」
セバスチャンは何も言わず、物思わしげに父を見つめた。
「何だったかな?」ジルベールはたずねた。
「あれはですね、夢だとしても、実体は存在していたんです」
「どういうことだい?」
「聖霊降誕祭の後半、ヴェルサイユに近いサトリー(Satory)の森に散歩に連れて行かれた時も、僕一人だけは夢を見ていたんです……」
「同じ幻覚を見たんだね?」
「そうなんですが、今回は立派な四頭の馬に曳かれた馬車に乗っていたんです……しかも今回は現実でした。生きていたんです。気が遠くなりそうでした」
「どうしたんだ?」
「わかりません」
「今度の亡霊を見てどう思った?」
「夢で見たのはお母さんではなかったのだと思いました。今度のひとは亡霊と同じ姿をしていましたし、お母さんは死んでいるのですから」
ジルベールは飛び上がって額を叩いた。異様な眩暈に襲われていた。
セバスチャンもそれに気づき、真っ青になった顔を見てぎょっとした。
「ああ、お父さん、こんな馬鹿げた話をするんじゃありませんでした」
「そんなことはない。もっと話してくれ、会うたび話してくれ。二人して快復させようじゃないか」
「どうして快復しなくちゃならないんです? 僕はもうこの夢に馴染んでしまいました。もはや生活の一部なんです。このひとに恋してしまいました。避けられても、時には拒まれたように感じても。だから快復なんてさせないで下さい。お父さんはまた出かけるかもしれないし、またしても旅に出るかもしれないし、アメリカに戻るかもしれないじゃありませんか。この亡霊と一緒なら、独りぼっちというわけじゃありませんから」
「そうか」
医師は呟き、セバスチャンを抱き寄せた。
「今度会う時には二度と離れるもんか。旅立つ時は一緒だ、何とかするよ」
「お母さんは綺麗な人でしたか?」
「ああ、綺麗だよ!」医師は喉を詰まらせた。
「僕がお父さんを愛しているのと同じくらい、お母さんのことを愛していたんですね?」
「セバスチャン! 母親のことは二度と口にしないでくれ!」
医師は最後にもう一度額に口づけするや、庭から飛び出した。
セバスチャンは後を追いもせずに、がっくりと打ちひしがれてベンチに坐り込んだ。
ジルベールは中庭でビヨとピトゥに合流した。二人ともすっかり良くなり、バスチーユ攻略の様子をベラルディエ院長に話している最中だった。ジルベールはセバスチャンについて新たに助言してから、二人を伴って辻馬車に乗り込んだ。
第20章終わり。第21章に続く。