アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「今は自分のことで精一杯ですね。他人のことまで構っていられません。僕の命と名誉が懸かっているんです。ネッケルさんの命と名誉が懸かっていたように。二十時間後ではなく今すぐお話し出来れば、きっと役立ててもらえたでしょうに」
「大事なことを忘れていました。このような問題は、誰が聞いているかわからない庭園のようなところで、大っぴらに話すべきではありません」
「ここはあたなのご自宅ですよ。失礼ながら、何処で会おうかお決めになったのはあなたです。どうしますか? お決め下さい」
「では話の続きは私の書斎でいたしましょう」
――へえ、そうですか! あんまりいじめてもまずいしな。そうでなけりゃあ、あなたの書斎はブリュッセルにあるんですか、とたずねたいところだけど。
だがジルベールは質問はせずに、邸宅の方へ足早に歩き始めた男爵夫人の後を追った。
玄関の前には先ほどのお仕着せがいた。スタール夫人はお仕着せに合図して、自分の手で扉を開け、ジルベールを書斎まで案内した。魅力的ではあるが女性的ではなく男性的な部屋で、入って来たのとは別の扉と二つの窓が庭に面している。見ず知らずの人間はこの庭に立ち入ることはおろか目にすることも叶わないようになっていた。
部屋に入るとスタール夫人は扉を閉め、ジルベールと向かい合った。
「人類の名に於いて、お話しなさい。父にとって大切なこととは何なのですか。何をしにサン=トゥアンにいらしたのですか」
「お父上がここにいらして話を聞くことが出来れば――この僕が『思想と進歩の現状』と題された覚書を国王に送った人間だと知ったら――ネッケル男爵はすぐにでも姿を見せて、『ジルベールさん、ご用件は? お聞きしましょう』と言ってくれるに違いありません」
ジルベールの話の途中で、ヴァンロー(Vanloo)の描かれた羽目板の後ろで、音もなく隠し扉が開き、笑みを浮かべたネッケル男爵が姿を見せた。螺旋階段の終わりに立ち、頭上には明かりが差していた。
スタール夫人はジルベールに軽く頭を下げてから父の額に口づけし、父の現れたその階段を上って羽目板を閉め、姿を消した。
ネッケルはジルベールに近寄り、手を差し出した。
「こうして参りました。ご用件は? お聞きしましょう」
二人は腰を下ろした。
「僕がどういう考えの持ち主なのかはお聞きになったはずです。四年前、欧州の概況に関する覚書を国王に届けたのは僕です。その後、フランスで起こった和解案や内政問題に関する幾つもの覚書を、アメリカから送ったのも僕です」
「その覚書について口にされる陛下の言葉の端々からは、決まって称讃と恐怖を感じたものですが」
「それは覚書に書かれてあることが真実だからですよ。真実を耳にするのは恐ろしいことだからであり、それが今では現実となって、目にするのがいっそう恐ろしいからではありませんか?」
「まさしくその通りなのでしょう」ネッケルは答えた。
「その覚書を国王から渡されたんですね?」
「全部ではない。二部だけです。財政に関する覚書を読みましたが、些かの相違はあれど同意見でした。もちろん相違点はあっても敬意に変わりはありません」
「それだけじゃないんです。僕は現実に起こったことはすべて国王に報告しました」
「えっ!」
「そうなんですよ」
「差し支えなければ――」
「ではそのうちの二点を。一つは国王が約束に反してあなたを解雇しなければならない日が来るということでした」
「失脚を予言していたと?」
「疑いなく」
「それが一つ目だとして、二つ目は?」
「バスチーユの襲撃です」
「バスチーユの襲撃を予言していたと仰るのか?」
「バスチーユとは監獄というよりは専制の象徴でした。象徴を破壊することで自由が始まったんです。続きは革命がもたらしてくれるでしょう」
「今の発言は重要性を理解したうえでのことでしょうな?」
「そんなところです」
「そんな主張を公にして、怖くはないと?」
「何を怖がるというんです?」
「困ったことが起こるかもしれない」