アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
さて申し上げたように、一七八九年七月十四日から十五日にかけての夜には、ヴェルサイユ中が騒然としていた。フランス国王が如何にして王冠に為された侮辱を受け止め、如何にして権力につけられた傷に応えようとするのかに、関心が向けられていた。
ドルー=ブレゼ(Dreux-Brézé)から伝えられた国王の返答を聞いて、ミラボーは王権にびんたを喰らわしていた。
バスチーユが落ちたと知って、民衆は王権の心臓にがつんと喰らわした。
それでもなお、度量が小さく視野の狭い人間には、これはすぐに決着のつく問題だった。とりわけ物事の結果を暴力による勝ち負けで見ることにしか慣れていない軍人の目には、パリを行進するというただそれだけで済む話であった。三万の人間と二十台の大砲を見れば、パリっ子たちの憤怒も陶酔もしぼんでしまうに違いない。
王国にこれほどまでの数の助言者がいたことはかつてなく、誰もが憚ることなく大きな声をあげていた。
穏健派は言った。「簡単なことだ」。おわかりのように我が国では、得てして難しい局面である時ほどこうした表現が用いられる。
「簡単なことじゃないか。国民議会から認可をもらい、拒むことが出来ぬようにすればいい。ここ最近の国民議会の様子なら安心できる。下から突き上げる暴力だけではなく、上から投げ落とされた悪習にも抗う姿勢を見せているではないか。
「叛乱は犯罪であると、国民議会なら宣言するだろう。議員がいるのは何のためだ? 市民が国王に訴えを届けるため、国王が市民の誤解を解くためではないのか。武器に頼って血を流すのは間違っている。
「国民議会からこうした宣言が出されさえすれば、国王も父親らしい厳しい態度でパリに罰を与えずとも済む。
「やがて嵐が去れば、王権は第一の権利を取り返し、国民は服従という義務を取り戻し、すべてはいつもの道をたどることになるはずだ」
通常はこうして大通りの上で事態は収束する。