アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「だからこそこれからもヴェルサイユを離れないでしょう」
「ではこれからはあなたをずっとそばに置いておくことにしましょうか」冷たい態度を崩さないのは、嫉妬や冷やかしを仄めかしていると感じてもらいたいからだ。
「陛下から護衛隊中尉に任命していただいたのですから、私の勤務地はヴェルサイユです。チュイルリーの護衛を任せられなければ、持ち場を離れることはありませんでした。やむを得ないと仰っていただいたからこそ、パリに発っていたのです。それに陛下もご存じの通り、シャルニー伯爵夫人には何の相談もしていないのですから賛成も反対もされてはいません」
「それは仰る通りですね」やはり王妃は冷たい態度を崩さなかった。
「現在はこうして」シャルニー伯爵は臆せずに話を続けた。「私の持ち場はチュイルリーではなくヴェルサイユになりました。王妃のご不興を買う恐れさえなければ、命令に背いて、こうして務めを選んで、ここにいたところです。シャルニー夫人が動乱(événements)を恐れようと恐れまいと、亡命を望もうと望むまいと、この私は王妃のそばに残ります……王妃にこの剣を折られない限りは。この剣を折るというのでしたら、ヴェルサイユの床の上で王妃のために戦う権利も死ぬ権利もない以上、いつでも宮殿の外の舗道の上で死なせていただきます」
シャルニー伯爵の口から飛び出した、この勇ましく誠実な、偽りない心からの言葉を聞いて、王妃の自信も崩れ、王家のものではなく人間としての感情を隠していた逃げ場から転がり落ちた。
「伯爵、そんなことを口にしてはなりません。わたしのために死ぬなどと言ってはなりません。言葉どおりに実行してしまうのがあなたという人ですから」
「口を閉じることなど出来ません。誰に対しても何処にいようとも言い続けます。実行するつもりがあるからこそ口にしているのです。時は来ました。恐れていた時が来てしまいました。この世の王たちに忠誠を誓う者たちが死ななくてはならない時が来たのです」
「伯爵! そのような悲劇的な予言を誰から聞いたのです?」
「私だって――」シャルニーは首を横に振った。「先頃のアメリカの(fatale な)戦争を受けて、社会を駆け巡っている独立熱に冒されたのです。私だって、先頃世間を賑わせていた奴隷解放に積極的に参加したかった。だからメーソンに入会しました。ラ・ファイエットやラメット(Lameth)のような人たちのいる秘密結社に入党しました。この結社の目的をご存じですか? 玉座の破壊です。標語をご存じですか? L・P・Dという三文字です」
「その三文字の意味するところは?」
「Lilia pedibus destrue。百合を踏みつぶせ」
「それであなたはどうなさったの?」
「脱退いたしました。ところが一人脱退しても、新たに二十人が入会しているのです。現在起こっていることは、二十年も前から音もなく夜陰に紛れて準備されて来た壮大なドラマの序幕に過ぎません。パリを揺り動かし、市庁舎を支配し、パレ=ロワイヤルを占拠し、バスチーユを襲った者たちの先頭に、かつての結社仲間の顔を見つけました。見誤ってはなりません。このたび起こった事件はどれも、偶発的な事件などではありません。長い時間をかけて準備されて来た蜂起なのです」