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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 27-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「だからこそこれからもヴェルサイユを離れないでしょう」

「ではこれからはあなたをずっとそばに置いておくことにしましょうか」冷たい態度を崩さないのは、嫉妬や冷やかしを仄めかしていると感じてもらいたいからだ。

「陛下から護衛隊中尉に任命していただいたのですから、私の勤務地はヴェルサイユです。チュイルリーの護衛を任せられなければ、持ち場を離れることはありませんでした。やむを得ないと仰っていただいたからこそ、パリに発っていたのです。それに陛下もご存じの通り、シャルニー伯爵夫人には何の相談もしていないのですから賛成も反対もされてはいません」

「それは仰る通りですね」やはり王妃は冷たい態度を崩さなかった。

「現在はこうして」シャルニー伯爵は臆せずに話を続けた。「私の持ち場はチュイルリーではなくヴェルサイユになりました。王妃のご不興を買う恐れさえなければ、命令に背いて、こうして務めを選んで、ここにいたところです。シャルニー夫人が動乱(événements)を恐れようと恐れまいと、亡命を望もうと望むまいと、この私は王妃のそばに残ります……王妃にこの剣を折られない限りは。この剣を折るというのでしたら、ヴェルサイユの床の上で王妃のために戦う権利も死ぬ権利もない以上、いつでも宮殿の外の舗道の上で死なせていただきます」

 シャルニー伯爵の口から飛び出した、この勇ましく誠実な、偽りない心からの言葉を聞いて、王妃の自信も崩れ、王家のものではなく人間としての感情を隠していた逃げ場から転がり落ちた。

「伯爵、そんなことを口にしてはなりません。わたしのために死ぬなどと言ってはなりません。言葉どおりに実行してしまうのがあなたという人ですから」

「口を閉じることなど出来ません。誰に対しても何処にいようとも言い続けます。実行するつもりがあるからこそ口にしているのです。時は来ました。恐れていた時が来てしまいました。この世の王たちに忠誠を誓う者たちが死ななくてはならない時が来たのです」

「伯爵! そのような悲劇的な予言を誰から聞いたのです?」

「私だって――」シャルニーは首を横に振った。「先頃のアメリカの(fatale な)戦争を受けて、社会を駆け巡っている独立熱に冒されたのです。私だって、先頃世間を賑わせていた奴隷解放に積極的に参加したかった。だからメーソンに入会しました。ラ・ファイエットやラメット(Lameth)のような人たちのいる秘密結社に入党しました。この結社の目的をご存じですか? 玉座の破壊です。標語をご存じですか? L・P・Dという三文字です」

「その三文字の意味するところは?」

「Lilia pedibus destrue。百合を踏みつぶせ」

「それであなたはどうなさったの?」

「脱退いたしました。ところが一人脱退しても、新たに二十人が入会しているのです。現在起こっていることは、二十年も前から音もなく夜陰に紛れて準備されて来た壮大なドラマの序幕に過ぎません。パリを揺り動かし、市庁舎を支配し、パレ=ロワイヤルを占拠し、バスチーユを襲った者たちの先頭に、かつての結社仲間の顔を見つけました。見誤ってはなりません。このたび起こった事件はどれも、偶発的な事件などではありません。長い時間をかけて準備されて来た蜂起なのです」

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『アンジュ・ピトゥ』 27-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 シャルニー伯爵が王妃を見つめた。

「そうね、勇敢だと思っていたわたしからこんなことを言われて驚いているのでしょう? でもこんなことくらいでは驚かないで下さいな」

 シャルニー伯爵は思わず問いただすような仕種をしていた。

「じきにわかるわ」王妃は引き攣った笑みを浮かべた。

「苦しんでいらっしゃるのですか?」

「そうじゃない。そばに来てお坐りになって。こんな恐ろしい政治の話はもうたくさん……どうか忘れさせて」

 伯爵は寂しげに微笑んで腰を下ろした。

 マリ=アントワネットが伯爵の額に手を当てた。

「燃えるように熱いのですね」

「頭の中に火山があるのです」

「手は冷たい」

 王妃は伯爵の手を両手で包み込んだ。

「心が冷たい死に触れられてしまいましたから」

「可哀相に、オリヴィエ! 先ほど言ったように、忘れましょう。わたしはもはや王妃ではない。もはや脅かされてもいない。もはや憎まれてもいない。そう、もはや王妃ではない。ただの女。こんな世界に何の意味があるというのでしょう? 愛してくれる人がいれば、それで充分」

 伯爵が王妃の前にひざまずき、女神イシスに口づけするエジプト人のように、恭しくお御足に口づけした。

「本当の友人と呼べるのはあなただけです」王妃はシャルニー伯爵を立たせようとした。「ディアーヌ公爵夫人が何をしたかご存じ?」

「亡命なさるのですね」シャルニー伯爵は即答した。

「当たりです! どうしてわかったのですか?」

「誰だって想像できますよ」

「それなのにあなたたちは亡命しないのですね。してもおかしくはないというのに」

「まず私が絶対に亡命しないのは、陛下にこの身を捧げているからですし、迫り来る嵐のさなか片時も離れないと陛下だけではなく自分自身に対して約束したからです。友人たちが亡命しないのは、私の行動を手本として方針を固めているからです。最後に、シャルニー夫人が亡命しないのは、私の知る限りでは、陛下をただ一途に愛しているからです」

「ええ、アンドレは気高い心の持ち主ですから」王妃の態度は目に見えて冷たかった。

『アンジュ・ピトゥ』 27-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第二十七章 オリヴィエ・ド・シャルニー

 王妃が私室に戻ると、そこには小間使いから手渡されたあの手紙を書いた人物がいた。

 男は三十代半ば、長身、気力と決断力に溢れた顔をしていた。青灰色の瞳は鷲のように鋭く、筋の通った鼻、ぐっと張った顎から醸し出される軍人風の顔立ちが、洗練された護衛隊中尉の制服のおかげでいっそう際立っていた。

 ずたずたに引き裂かれしわくちゃになったバチスタの袖の下で、両の手が今もなお震えていた。

 剣はねじれて鞘に収まり切れていない。

 王妃が戻った時には、男は部屋の中を忙しく歩き回り、昂奮と混乱で千々に思い乱れているところだった。

 マリ=アントワネットは真っ直ぐに歩み寄った。

「シャルニー殿! いらしてたのですか!」

 話しかけられた人物が作法に則って恭しく頭を垂れたのを見て、王妃は小間使いに合図して扉を閉めて退出させた。

 王妃は扉が閉まるのももどかしく、シャルニー氏の手をしっかりとつかんだ。

「伯爵、どうしてこちらに?」

「ここに来るのが務めだと考えていたからです」

「違います。あなたの務めはヴェルサイユを立ち去ること。決められたことを実行すること。わたしに従うこと。つまりわたしの友人たちと同じようにすることです……みんなわたしの運命を恐れていました。あなたの務めは、わたしと運命を共にすることではありません。わたしの許から立ち去ることです」

「あなたの許から立ち去るというのですか!」

「そうです。お逃げなさい」

「逃げるですって? 誰があなたから逃げるというのです?」

「賢明な者たちは逃げ出しました」

「私は賢明だからこそ、ヴェルサイユにやって来たのです」

「何処からいらしたのです?」

「パリから」

「暴動が起こっているパリからですか?」

「煮えたぎり、我を失い、血に塗れたパリからです」

 王妃が両手で顔を覆った。

「あなたもですか! 良い報せを聞かせてくれる人は誰もいないのですか?」

「このような状況にある時は、陛下のお耳に入れなくてはならないことはただ一つ、真実のみでございます」

「では真実を伝えに来たというのですね?」

「いつものように」

「誠実で勇敢な方ですね」

「ただの忠実な家臣に過ぎません」

「今は何も言わないで。あなたがいらっしゃったのは、ちょうど心にぽっかり穴が空いていた時だった。いつも伝えてくれたその『真実』のせいで、今日は初めて友人たちから傷つけられた。もう真実を隠し通すのに倦んでいたのね。至るところで真実がはじけ飛んだ。赤く染まった空の上で。嫌な音の詰まった大気の中で。青ざめて沈み込んだ廷臣たちの顔の上で。やめて、お願い。一生に一度だけ、今は真実を言わないで」

『アンジュ・ピトゥ』 26-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 マリ=アントワネットはジュール・ド・ポリニャック伯爵夫人の方を見た。

「伯爵夫人、おまえの言い分は?」

 伯爵夫人は自責に駆られたように熱い涙を流して答えたが、それで力を使い果たしてしまったようだった。

「ありがとう」王妃が言った。「どれだけ愛されているかわかって安心しました。そうね、ここにいては危険が及びます。もはや国民の怒りを止めるすべはないでしょう。正しいのはおまえたちで、わたし一人が愚かでした。離れたくないというのは献身的でありがたいけれど、応ずるわけにはいきません」

 ポリニャック伯爵夫人は美しい目を王妃に向けた。だが王妃はそこに友人としての献身ではなく、女の弱さを見て取った。

「では公爵夫人、おまえは逃げ出すことに決めたのですね?」

 王妃は「おまえ」という単語を強調した。

「その通りです、陛下」

「地所の誰かを頼って……遠く……とても遠くに……」

「ここを去って陛下とお別れするのは、五十里といえども百五十里に感じるほど辛うございます」

「まさか外国に?」

「仰る通りなのです」

 溜息が王妃の胸を引き裂いたが、口唇から外に洩れることはなかった。

「では何処に?」

「ラインのほとりです」

「ああ、ドイツ語を話せますものね」王妃は如何とも言い難い悲しげな笑みを見せた。「わたしが教えたんですもの。あなたの王妃の友情の証を、せめて役立ててもらえるなら、それで幸せです」

 それから王妃は伯爵夫人に向かい、

「おまえとお別れしたくはありません。離れたくないと言うのなら、その希望に応じましょう。でもおまえのことが心配です。どうか逃げて欲しい。いや、命令です、逃げなさい!」

 王妃は昂奮のあまりその場で固まってしまった。これまで会話に参加していなかった国王の声が耳に飛び込んで来なければ、気丈な王妃と雖もとても自制することは出来なかっただろう。

 国王陛下はデザートの最中だった。

「そなたのところに誰かいるようだぞ。報せが来た」

「そんなことより陛下」王妃の声からは、王家の威厳以外のものは捨て去られていた。「まずはご命令を。ここには三人しかおりませんが、三人とも陛下と関わりのある方ばかりです。ランベスクさん、ブザンヴァルさん、ブログリーさん(M. de Broglie)。ご命令を、陛下、ご命令を!」

 国王はとろんとした目を上げたが、躊躇っていた。

「そなたはどう思う、ブログリー殿?」

「さようですな」老元帥は答えた。「もし陛下が軍隊をパリから退かせるようなことがあれば、パリっ子どもが勝ちを収めたと言われるでしょう。このまま動かさなければ、軍隊が勝利を収めるに違いありません」

「お見事!」王妃が元帥の手を握り締めた。

「お見事!」ブザンヴァル氏も言った。

 ランベスク公だけは変わらずに首を横に振っていた。

「それでどうする?」国王がたずねた。

「進め!とお命じになるだけです」元帥が答えた。

「ええ……進め!と」王妃も和した。

「そうか、そなたたちが言うのであればそうしよう。進め!」国王も倣った。

 この時、王妃に手紙が手渡された。

『何卒結論をお急ぎなさいませんよう。陛下より謁見のお許しをお待ち申し上げます』

 王妃は手紙を裏返した。

「部屋にいるのはシャルニー殿なのですか?」

「埃まみれになっていらっしゃいました。血まみれだったとしても驚きません」お付きの侍女はそう答えた。

「ちょっと待っていていただけますか。すぐに戻って来ます」王妃はブザンヴァル氏とブログリー氏に声をかけた。

 王妃は大急ぎで部屋に向かった。

 国王は頭を動かしもしなかった。

 
 第26章終わり。第27章に続く

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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