アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「名前ですか?」
「ああ。目を覚ました時に」
アンドレは助けを求めるように王妃を見つめた。だが王妃はそれを汲み取ることが出来なかったのか、はたまた汲み取ろうとはしなかった。
「ええ、ジルベールという名を口にしましたよ」
「ジルベール? わたくしがジルベールと言ったのですか!」アンドレの声があまりに恐怖にわなないていたため、伯爵も妻が気絶した先ほどよりもその声を聞いた今回の方が不安を感じたほどだった。
「ああ。確かにそう言った」
「そうですか。おかしなこと」
稲妻に裂かれた天がすぐに閉じるように、恐ろしい名前を聞いて激しく歪んだ顔が徐々に落ち着きを取り戻し、今では顔の筋肉もかろうじて震えているくらいで、雷光の名残も残らず地平線に消えてしまった。
「ジルベールですか。知りません」
「ジルベールですよ。思い出してご覧なさい、アンドレ」王妃が名前を繰り返した。
「けれど陛下」伯爵がマリ=アントワネットに言った。「先ほどのはたまたまで、思い出そうにも覚えがないのでは?」
「いえ」アンドレが答えた。「覚えはありました。アメリカ帰りの学者で名医だとか。あちらでラ・ファイエットと親しくしていたそうです」
「本当かい?」
「もちろんです」アンドレはごく自然に答えた。「個人的には存じ上げませんが、大変に立派な方だという評判です」
「だったら、どうしてそんなに動揺しているの?」王妃がたずねた。
「わたくしが動揺していると仰るのですか?」
「ええ、ジルベールという名を口にした時には、拷問でも受けているように苦しんでいたもの」
「そうかもしれません。あんなことがあったんですもの。国王陛下のお部屋で、黒い服を着て険しいお顔をした殿方から、ぞっとするような恐ろしいお話を聞きました。ローネー殿とフレッセル殿が殺された際の実際のお話を聞かされたんです。それで気分が悪くなって、ご覧になったように気絶してしまったんですわ。そんなことがあったので、ジルベールさんの名前を口にしてしまったのかもしれません」
「そうかもしれないな」シャルニー氏にはもうそれ以上は問いつめる気がないようだった。「だが今はもう落ち着いたんだな?」
「すっかり」
「だったら一つ伯爵にお願いしたいことがあるんです」王妃が言った。
「仰せのままに」