アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「ええ、そうね。何て正しいのかしら。陛下は慎重な方ですもの、犬が飼い主を怖がるように、国民を怖がってらっしゃるんです」
「逆だよ、飼い主が犬を怖がるようにだ。犬に咬まれないようにするのは一仕事だよ。イスパニアの国王から贈られたピレネー犬のメドールと散歩するたび、友だちでよかったとつくづく鼻が高い。笑いたければ笑うがいい。メドールが友人でなければ、あの大きな白い牙で食い殺されていても不思議はない。『ようしメドール。いい子だ、メドール』と言ってやれば、舐めてくれるよ。牙なんかより舌の方がいい」
「だったら叛徒たちを甘やかして、撫でて、お菓子を放ってやったら如何です」
「ではそうしよう。ほかに案もない、本当だ。うん、決めたぞ。金を集めて、ケルベロスのような殿方を相手にしよう。さて、ミラボー氏だが……」
「ええ、あの猛獣の話を聞かせて下さい」
「月に五万リーヴル使えばメドールにもなろうが、手をこまねいていては月に五十万かかってしまう」
王妃は情けなさの余り笑い出した。
「あんな人たちにごまをすらなきゃならないなんて!」
「バイイ氏(M. Bailly)も、美術大臣という地位でもこね上げて就任させてやれば、あれもまたメドールになるだろう。そなたの考えとは違うて悪いがね、余は父祖であるアンリ四世の考えに従っておるのだ。そのたぐいまれなる政治家の言ったことを思い出しておった」
「何と仰いましたの?」
「酢を用いても蠅は捕れぬ」
「サンチョ・パンサも似たようなことを言ってます」
「だがもしバラタリアが実在していれば、サンチョ・パンサならその島民を幸せにしていたに違いない」
「陛下の仰ったアンリ四世なら、蠅だけでなく狼だって捕まえてらっしゃいました。その証拠に、ビロン元帥の首を斬らせたではありませんか。アンリ四世なら好きなことを口にすることが出来ました。アンリ四世のように考えながら陛下のように動いてしまっては、玉座の生命線である威光は剥がれ落ちてしまいます。陛下はすべての根幹を傷つけていらっしゃるのです。
「では威厳の話をしようか」国王は笑顔で応えた。「例えばそなたにも、誰にも負けぬほどの威厳がある。欧州には勝てる者はなかろう。そなたと同じく威厳という学問を極めた母御のマリア=テレジアさえそなたには届かぬ」
「仰りたいことはわかっています。わたしがフランス国民から忌み嫌われているのは威厳のせいではないと仰りたいのでしょう」
「忌み嫌われているとは言わぬよ、アントワネット」国王が優しい言葉をかけた。「だがやはり、そなたに相応しいほど愛されているとは思えぬ」