アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「もしかすると何か理由があったのを忘れてしまったのかもしれませんが……」
「これだ。こうした非道には忘れている理由があるものなのだ。だが理由や医師のことをそなたは忘れていても、シャルニー夫人は忘れてはいなかったぞ」
「陛下!」
「二人の間に何かがあったのに違いあるまい……」
「陛下、お願いです」王妃は寝室の方に不安な目を向けた。隠れているアンドレにも、話はすべて聞こえているはずだ。
「なるほどな」国王が笑い出した。「シャルニーがやって来て、知ってしまわないかと思っておるのだな。シャルニーも可哀相に!」
「どうかお願いです。シャルニー夫人は純粋で貞淑なひとなんです。わたしとしてはむしろそのジルベールという男が……」
「ほう? この正直者のせいにするのか? 余は自分の知っていることなら知っているが、最悪なのは、幾つものことを知っているからといって、まだすべてを知っているわけではないということだ」
「怖いくらい冷静でいらっしゃるのね」王妃は寝室に目を向けたまま口にした。
「もちろん落ち着いているよ、慌てる必要もあるまい。始め良ければ……と云うではないか。結果はジルベールが直接教えてくれるだろう。今では余の侍医になっておる」
「侍医ですって? その男が陛下の侍医に? 国王の命を余所者に預けるのですか?」
「駄目かね?」国王は冷たく答えた。「自分の判断力は信じておる。その男の魂の中を読んだのだ」
王妃は怒りと軽蔑で我知らず身体を震わせていた。
「それで気が済むのなら肩をすくめればよい。ジルベールが物知らずであるかのような言い方はよせ」
「ご熱心だこと!」
「余の立場になってみてはくれぬか。メスメル氏がそなたやランバル夫人におかしな影響を与えなかったかどうか知りたがるであろう?」
「メスメル氏ですって?」王妃は真っ赤になった。
「そうだ。四年前、そなたたちが変装して集会に行った時のことだ。警察がしっかり仕事をしてくれたからな、余はすっかり知っておるぞ」
国王はそう言って、マリ=アントワネットににこやかに笑いかけた。
「すっかりご存じというのでしたら、随分と隠しごとがお上手ですのね、これまで一度も口になさらなかったじゃありませんか」
「必要あるかね? ゴシップ屋の声や新聞屋のペンが充分にそなたの軽挙に報いていたではないか。それはそれとしてジルベールとメスメルの話にまとめて戻ろう。メスメルはそなたを桶のそばに坐らせ、鋼の棒で触れ、非現実的な光景に囲まれて、まるでペテン師のようだった。ジルベールはあれこれしたりはしなかった。眠りに就いたばかりのご婦人に手を伸ばすと、婦人が眠ったまま話し始めたのだ」
「話をしたというのですか!」王妃はぞっとして呟いた。