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翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 30-9

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「もしかすると何か理由があったのを忘れてしまったのかもしれませんが……」

「これだ。こうした非道には忘れている理由があるものなのだ。だが理由や医師のことをそなたは忘れていても、シャルニー夫人は忘れてはいなかったぞ」

「陛下!」

「二人の間に何かがあったのに違いあるまい……」

「陛下、お願いです」王妃は寝室の方に不安な目を向けた。隠れているアンドレにも、話はすべて聞こえているはずだ。

「なるほどな」国王が笑い出した。「シャルニーがやって来て、知ってしまわないかと思っておるのだな。シャルニーも可哀相に!」

「どうかお願いです。シャルニー夫人は純粋で貞淑なひとなんです。わたしとしてはむしろそのジルベールという男が……」

「ほう? この正直者のせいにするのか? 余は自分の知っていることなら知っているが、最悪なのは、幾つものことを知っているからといって、まだすべてを知っているわけではないということだ」

「怖いくらい冷静でいらっしゃるのね」王妃は寝室に目を向けたまま口にした。

「もちろん落ち着いているよ、慌てる必要もあるまい。始め良ければ……と云うではないか。結果はジルベールが直接教えてくれるだろう。今では余の侍医になっておる」

「侍医ですって? その男が陛下の侍医に? 国王の命を余所者に預けるのですか?」

「駄目かね?」国王は冷たく答えた。「自分の判断力は信じておる。その男の魂の中を読んだのだ」

 王妃は怒りと軽蔑で我知らず身体を震わせていた。

「それで気が済むのなら肩をすくめればよい。ジルベールが物知らずであるかのような言い方はよせ」

「ご熱心だこと!」

「余の立場になってみてはくれぬか。メスメル氏がそなたやランバル夫人におかしな影響を与えなかったかどうか知りたがるであろう?」

「メスメル氏ですって?」王妃は真っ赤になった。

「そうだ。四年前、そなたたちが変装して集会に行った時のことだ。警察がしっかり仕事をしてくれたからな、余はすっかり知っておるぞ」

 国王はそう言って、マリ=アントワネットににこやかに笑いかけた。

「すっかりご存じというのでしたら、随分と隠しごとがお上手ですのね、これまで一度も口になさらなかったじゃありませんか」

「必要あるかね? ゴシップ屋の声や新聞屋のペンが充分にそなたの軽挙に報いていたではないか。それはそれとしてジルベールとメスメルの話にまとめて戻ろう。メスメルはそなたを桶のそばに坐らせ、鋼の棒で触れ、非現実的な光景に囲まれて、まるでペテン師のようだった。ジルベールはあれこれしたりはしなかった。眠りに就いたばかりのご婦人に手を伸ばすと、婦人が眠ったまま話し始めたのだ」

「話をしたというのですか!」王妃はぞっとして呟いた。

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『アンジュ・ピトゥ』 30-8

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「そんなに言うのでしたら」王妃が睨みつけた。「つるはしをお持ちになって、バスチーユを壊しに行けばいいんです」

「冗談のつもりかね。国王にならペンの一筆で同じことが出来るというのに、つるはしを持つのが変ではないというのなら、壊しに行こうではないか、嘘は言わぬぞ。余がつるはしを持てば、喝采が起こるだろう。余とて、この偉業を成し遂げる力のある者たちには喝采を惜しまぬ。何せ余のために素晴らしいことをしてくれる。バスチーユを壊してくれるのだ。そなたのためにはさらに大きな贈り物となろう。取り巻きの気まぐれに踊らされて正直者を独房に放り込むことも出来なくなるのだからな」

「正直者をバスチーユに? わたしが正直な人たちを投獄させたと仰るのですか? 正直者とはロアン枢機卿のことでも仰っているのでは?」

「こちらから持ち出さない限り、二度とその話はせんでくれ。ロアンを投獄したのは失敗であったよ、すぐに高等法院が出してしまった。もっとも、バスチーユは枢機卿という人間を入れる場所ではないがね、今のあそこは偽造犯を入れる場所だ。偽造犯や泥棒があそこで何をすればいいというのだ? 高い金をかけてパリに監獄を用意してあるのは、そんな輩を養うためではなかろう? 偽造犯や泥棒はまだよい。だが正直者をバスチーユに入れるのだけはやってはならぬ」

「正直者と仰いますか?」

「うむ。今日、一人会ったぞ。バスチーユから出て来たばかりだった」

「いつ出て来たのです?」

「今朝だ」

「今朝バスチーユを出た男に、今晩会ったというのですか?」

「さっき別れて来た」

「どんな人なのです?」

「そなたの知っている人物だ」

「わたしが?」

「うむ」

「お名前は?」

「ジルベール医師」

「ジルベール! ジルベールですって! アンドレがうわごとで呼んでいた名前では?」

「であろうな。充分にあり得る。少なくとも余は疑わぬ」

「その男がバスチーユに入っていたと仰るのですか?」

「そなたは知らぬようだな」

「まったく存じませぬ」

 国王の顔に驚きが浮かんでいることに、王妃は気づいた。

『アンジュ・ピトゥ』 30-7

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「それは解釈次第だな。ドルレアン公か! ドルレアン公を非難するというのか。叛徒と戦うために。パリを離れヴェルサイユに駆けつけたのだぞ。ドルレアン公が余の敵だと? どうやらそなたはドルレアン家を尋常でないほど憎んでいるようだな」

「駆けつけた理由をご存じですか? 忠義者たちの中にいないことに気づかれるのを恐れていたからです。駆けつけたのは卑怯者だからです」

「仕方ない、仕切り直そう。そんなことを思いついた方こそ卑怯者ではないか。ドルレアン公がウェサン(Ouessant)で恐れていた新聞に、そんなことを書かせたのはそなただ。名誉を傷つけたかったのだろう。誹謗中傷も甚だしい。フィリップは恐れてなどいなかった。フィリップは逃げてなどいない。逃げるようなことがあれば一族の顔に泥を塗っていただろう。ドルレアン家は勇敢なのだ。誰だって知っている。アンリ四世というよりはアンリ三世の血を引いているようなところのあった一族の始祖は、デフィア侯爵やロレーヌ士爵(son d'Effiat et son chevalier de Lorraine)のことはあっても、勇敢だった。カッセル(Cassel)の戦いでそれを証明して見せた。摂政公には生活態度の面で反省すべき点があったが、ステーンケルク(Steinkerque)やネールウィンデン(Nerwinde)やアルマンサ(Almanza)では、最後の一人となるまで軍人として戦ったのだ。お望みとあらば話すのは良い面の半分だけにしておくが、悪い面などはないのだから話しようがない」

「陛下は革命家たち(révolutionnaires)の無実を証明しようとなさってるんですね。ドルレアン公がどれだけ力があるかご存じだというのに。あの人のことを考えると、バスチーユがまだあればと思ってしまいます。だってそうじゃありませんか。犯罪者が収容されていたのにあの人が投獄されていないのが残念でなりません」

「そうかね? ドルレアン公がバスチーユに入っていれば、さぞかしありがたい状況になっていただろうな」

「どうなっていたというのですか?」

「民衆たちがネッケル氏の胸像だけでなくドルレアン公の胸像を花で飾って練り歩いていたのを、知らぬ訳ではあるまい?」

「もちろん知っています」

「つまりバスチーユから出た途端、ドルレアン公はフランス王になっていただろう」

「陛下はきっとそれを正しいとお感じになっていたことでしょうね!」マリ=アントワネットは棘のある皮肉を込めて答えた。

「そうだとも。それで気が済むというのなら肩でもすくめればよい。他人のことをしっかりと判断するためには、他者の視点が必要なのだ。玉座の上からでは庶民をしっかりと見ることは出来ぬ。同じ高さに降りてみるのだ。そうして、自分が中産市民(bourgeois)や地方民(manant)だったとして、領主から鶏や牛のような生産品扱いされることに耐えられたかどうかと考えてみる。自分が百姓だったとして、領主の飼っている一万羽の鳩に毎日小麦や烏麦や蕎麦を十グレイン、つまり約二ボワソー食べられることに耐えられたかどうか。収穫の大部分が食べられてしまうのだぞ。その間にも領地の兎や領主の飼い兎(ses lièvres et ses lapins)には馬の飼料ウマゴヤシを食べられ、猪には馬鈴薯を掘り返され、収税人には財産(bien)を掠め取られ、妻や娘に手まで出され、国王には息子を戦争に取られ、坊さんには怒りに触れるたびに魂を地獄に落とされているというのに」

『アンジュ・ピトゥ』 30-6

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「陛下は思っていることを口にして回ってるんですわ」王妃はひどく傷ついて言った。「でもわたしは誰にも迷惑はかけていません。それどころか、ためになることだってして来ました。どうして憎まれなくてはならないのでしょう? 『王妃が嫌いだ!』と一日中繰り返す人がいるだけなのに、どうして嫌われるのでしょうか? 百人が繰り返すには、一人が繰り返せば充分だからです。百人の声に温められて一万の声が孵化するでしょう。やがて一万の声に引きずられて、誰もが『王妃が嫌いだ!』と繰り返すのです。王妃を嫌っているのは、誰かが『王妃が嫌いだ』と言っているからに過ぎません」

「何てことだ!」国王が呟いた。

「何てことでしょう! わたしには人気がありません。でもことさら不人気だと煽り立てられているだけだとも思ってます。讃辞の声がないことも事実ですが、それでも崇めてくれてはいました。崇める気持が強すぎたせいで、憎む気持も強くなっているということなんだと思います」

「待て待て。そなたはすべて知っている訳ではないし、いまだに幻想を抱いているのではないか。バスチーユの話をせぬか?」

「わかりました」

「バスチーユの書庫にはそなを批判しているありとあらゆる本が何冊も収められていた。すべて焼けていればよいのだが」

「わたしの何が批判されていたというのですか?」

「察してくれ。余はそなたを裁きたくもないし、非難するつもりもない。ああした諷刺小冊子パンフレットが出るたび、余はすべての版を回収させ、バスチーユに放り込ませた。だが時にはこの手に転がり込んで来ることもある。例えば」と言って国王はポケットの辺りを叩いた。「これなどは忌まわしいものだったよ」

「お見せ下さい」

「とても見せられぬ。版画にもなっているのだ」

「そこまでなのですか。中傷の出所を探そうとなさらないほどに、お気持も乱れ、弱気になってらっしゃるのですか?」

「もちろん出所は探させた。警察が徹底的に悪評をそそいで来たのだよ」

「では作者をご存じなのね?」

「一人は知っている。フュルト氏だ。何せほら、ここに二万二五〇〇リーヴルの受領書がある。それだけの価値があると思えば、金額に糸目はつけぬよ」

「ほかには誰がいるんです?」

「大抵はそうだな、イングランドやホラントでかつかつと暮らしている飢えた連中だよ。そうした連中に咬まれたり刺されたりするのに腹を立ててサテどうにかしてやろうと思い、鰐や蛇でも見つけてこてんぱんに殺してやるつもりで出かけてゆく。ところが鰐も蛇もいない。いるのは虫けらだけだ。それもちっぽけで弱々しく薄汚れた虫けらだよ。罰するためとはいえ触れたくもないような連中だ」

「ご立派だこと! 虫けらに触れたくないというのなら、虫けらを生み出したものを告発なさって下さらないと。さもないと言われてしまいますよ、フィリップ・ドルレアンは太陽だと……」

「いよいよたどり着いたな」国王が拍手した。「ドルレアン公か! 仲違いさせたいのならさせればよかろう」

「相手は陛下の敵です。立派な言葉じゃありませんか」

 国王は肩をすくめた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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