アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
王妃はしばらく無言のままだった。乱れた息遣いだけが沈黙を乱している。
「よいですか」遂に王妃が口を開いた。「そのようなことを仰ったからには、あなたは生涯の敵となるのですよ……」
「或いは頼れる友に」
「馬鹿な。友情は恐れや疑いとは共存できません」
「友情とは、臣下から王妃に向けられた場合には、臣下が信頼を抱いている時のみ存在が可能なものです。それだけでも気づくのではありませんか? その臣下が敵ではないということを。最初の一言で敵から暴力を取り上げ、さらには真っ先に自ら武器を捨てたのであれば」
「それを信じろと?」王妃は不安と緊張を見せながらも、自信に満ちた様子でジルベールを睨んだ。
「どうして信じて下さらないのです? 私が誠実である証拠はすべてお見せしたはずです」
「人は変わるものです。違いますか」
「或る者たちが危険な武器を扱うに際して遠征に向かう前におこなっているのと同じ誓いを私は立てました。特権を用いるのは人から向けられた悪意を跳ね返す時のみであり、侮辱や弁明には用いないと。これが私の信念です」
「そうですか」王妃が譲歩した。
「わかりますよ。医者の手によって自分の心を目の当たりにするのが嫌なのでしょう。身体を医者に委ねるのも拒んだことがあったくらいなのですから。勇気を持って、信じて下さい。そうすれば医者は幾らでも助言いたします。私が陛下にお見せした寛大なところを、今日明らかにしたのは医者なのですから。私は陛下のことを愛したいのです。人から愛されて欲しいのです。国王にはこうしたことを既に伝えました。今度はそれを陛下とお話ししたいのです」
「おやめなさい」王妃がぴしゃりと言った。「罠に掛けましたね。女扱いして怖がらせておけば、王妃を操ることも出来ると考えたのでしょう」
「まさか。私はペテン師ではありません。私には私の考えがあるように、陛下には陛下の考えがあることは承知しております。ご判断を曲げろと言って脅されたと絶えず非難なさるのはお門違い。今後はそのような非難は寄せつけません。さらに申せば、女性の情熱と男性の強権を兼ね備えた陛下のような女性に会ったのは初めてのことでした。女性であると同時に友人にもなり得る方です。必要とあらば人間のありとあらゆる性質をお備えになることでしょう。私は陛下をお慕いしておりますし、これからずっとお仕えするつもりです。何も受け取るつもりはありません。ただ陛下のことを研究したいのです。陛下のためにはさらにいろいろと尽くすつもりです。私のことが邪魔っけな家具にしか思えない場合や、今日の出来事の衝撃が陛下の記憶から消えない場合には、おそばを離れようと考えております」
「そばを離れるというのですね」王妃の叫びに滲んでいる喜びは、ジルベールにもはっきりと伝わった。
「そういうことです」ジルベールは恐ろしく冷静だった。「国王陛下に伝えるべきことを伝えさえせずに、ここを離れるつもりです。果てしなく遠くまで行かなくてはご安心できませんか?」
王妃はジルベールの自己犠牲に目を見張った。
「陛下の考えていらっしゃることはわかります。先ほど脅威をお感じになった磁気の力を誰よりもご存じなのですから、私がどれだけ遠くに行こうと危険は変わらないのではないかとお考えなのでしょう?」
「遠く離れてどうやって?」
「繰り返しになりますが――師や私が用いている力を陛下は非難なさいましたが、その力を使って人を傷つけようと思えば、距離が百里であろうと千里であろうと目の前であろうと傷つけることは可能なのです。怖がる必要はありません。決してそのようなことはいたしませんから」
王妃はしばし考え込んでいたが、断固としていたはずの決意を揺らがせた目の前の男に向かって、どう答えていいのかわからなかった。
突然廊下の向こうから足音が聞こえ、マリ=アントワネットは顔を上げた。
「国王です。国王がいらっしゃった」
「ではお返事を。私はここにいるべきでしょうか、いなくなるべきでしょうか?」
「でも……」
「お急ぎ下さい。お望みなら国王にはお会いしませんから、出てゆく扉をお指し下さい」
「ここにいなさい」
マリ=アントワネットは、深々とお辞儀をしたジルベールの顔色を読もうとした。怒りや不安どころか何処まで得意になっているのか確かめたかった。
ジルベールは平然としたままだった。
「せめて――」王妃は考えた。「喜びぐらいは顔に出すべきではないか」
第32章終わり。第33章に続く