翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 32-10

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 王妃はしばらく無言のままだった。乱れた息遣いだけが沈黙を乱している。

「よいですか」遂に王妃が口を開いた。「そのようなことを仰ったからには、あなたは生涯の敵となるのですよ……」

「或いは頼れる友に」

「馬鹿な。友情は恐れや疑いとは共存できません」

「友情とは、臣下から王妃に向けられた場合には、臣下が信頼を抱いている時のみ存在が可能なものです。それだけでも気づくのではありませんか? その臣下が敵ではないということを。最初の一言で敵から暴力を取り上げ、さらには真っ先に自ら武器を捨てたのであれば」

「それを信じろと?」王妃は不安と緊張を見せながらも、自信に満ちた様子でジルベールを睨んだ。

「どうして信じて下さらないのです? 私が誠実である証拠はすべてお見せしたはずです」

「人は変わるものです。違いますか」

「或る者たちが危険な武器を扱うに際して遠征に向かう前におこなっているのと同じ誓いを私は立てました。特権を用いるのは人から向けられた悪意を跳ね返す時のみであり、侮辱や弁明には用いないと。これが私の信念です」

「そうですか」王妃が譲歩した。

「わかりますよ。医者の手によって自分の心を目の当たりにするのが嫌なのでしょう。身体を医者に委ねるのも拒んだことがあったくらいなのですから。勇気を持って、信じて下さい。そうすれば医者は幾らでも助言いたします。私が陛下にお見せした寛大なところを、今日明らかにしたのは医者なのですから。私は陛下のことを愛したいのです。人から愛されて欲しいのです。国王にはこうしたことを既に伝えました。今度はそれを陛下とお話ししたいのです」

「おやめなさい」王妃がぴしゃりと言った。「罠に掛けましたね。女扱いして怖がらせておけば、王妃を操ることも出来ると考えたのでしょう」

「まさか。私はペテン師ではありません。私には私の考えがあるように、陛下には陛下の考えがあることは承知しております。ご判断を曲げろと言って脅されたと絶えず非難なさるのはお門違い。今後はそのような非難は寄せつけません。さらに申せば、女性の情熱と男性の強権を兼ね備えた陛下のような女性に会ったのは初めてのことでした。女性であると同時に友人にもなり得る方です。必要とあらば人間のありとあらゆる性質をお備えになることでしょう。私は陛下をお慕いしておりますし、これからずっとお仕えするつもりです。何も受け取るつもりはありません。ただ陛下のことを研究したいのです。陛下のためにはさらにいろいろと尽くすつもりです。私のことが邪魔っけな家具にしか思えない場合や、今日の出来事の衝撃が陛下の記憶から消えない場合には、おそばを離れようと考えております」

「そばを離れるというのですね」王妃の叫びに滲んでいる喜びは、ジルベールにもはっきりと伝わった。

「そういうことです」ジルベールは恐ろしく冷静だった。「国王陛下に伝えるべきことを伝えさえせずに、ここを離れるつもりです。果てしなく遠くまで行かなくてはご安心できませんか?」

 王妃はジルベールの自己犠牲に目を見張った。

「陛下の考えていらっしゃることはわかります。先ほど脅威をお感じになった磁気の力を誰よりもご存じなのですから、私がどれだけ遠くに行こうと危険は変わらないのではないかとお考えなのでしょう?」

「遠く離れてどうやって?」

「繰り返しになりますが――師や私が用いている力を陛下は非難なさいましたが、その力を使って人を傷つけようと思えば、距離が百里であろうと千里であろうと目の前であろうと傷つけることは可能なのです。怖がる必要はありません。決してそのようなことはいたしませんから」

 王妃はしばし考え込んでいたが、断固としていたはずの決意を揺らがせた目の前の男に向かって、どう答えていいのかわからなかった。

 突然廊下の向こうから足音が聞こえ、マリ=アントワネットは顔を上げた。

「国王です。国王がいらっしゃった」

「ではお返事を。私はここにいるべきでしょうか、いなくなるべきでしょうか?」

「でも……」

「お急ぎ下さい。お望みなら国王にはお会いしませんから、出てゆく扉をお指し下さい」

「ここにいなさい」

 マリ=アントワネットは、深々とお辞儀をしたジルベールの顔色を読もうとした。怒りや不安どころか何処まで得意になっているのか確かめたかった。

 ジルベールは平然としたままだった。

「せめて――」王妃は考えた。「喜びぐらいは顔に出すべきではないか」

 
 第32章終わり。第33章に続く

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『アンジュ・ピトゥ』 32-9

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「さあ陛下」ジルベールは王妃の心に生じていることをはっきり見抜いていた。「おわかりいただけますね、誰にも知らせず隠していることはもちろん、陛下ご自身すら気づいていないことも、容易く知ることが出来るのです。陛下の指が支えを求めて本能的に伸ばしているその椅子の上に、陛下を容易く横たえることが出来るのです」

「やめなさい!」王妃がぞっとして叫んだ。名づけようもない震えが心にまで伝わって来た。

「この私が唱えたくない言葉を心の中で唱えたとしたら、意思を曲げずに明らかにしたなら、陛下は私の力に打たれて倒れてしまうことでしょう。お疑いですか? お疑いにならないことです。私のことを試してみようと思っていらっしゃるのかもしれませんが、試したりしようものなら……いけません、よもやお疑いではありませんね?」

 王妃は倒れそうになって、息をあえがせ、胸を波打たせ、我を失って椅子の背にしがみつき、絶望に駆られながら無意味な抵抗を続けた。

「陛下」ジルベールはなおも続けた。「このことだけはわかっていただきたいのですが、この私が臣下の中でも陛下にもっとも敬服し献身し低頭している人間でなければ、恐ろしい経験をしていただいてでも説得するところです。怖がる必要はありません。王妃の御前にも増して女性の前では敬意を失したりはいたしませんから。自分の考えていることが陛下のお考えと触れ合うと思うだけで身体の震えが止まりませんし、陛下のお心を乱そうとするくらいなら死を選びます」

「おやめなさい」王妃は三歩と離れていないところに立っているジルベールを押しやろうとでもするように腕を振り回した。

「それなのにこの私をバスチーユに閉じ込めたのです。バスチーユに討ち入られたのを残念に思っていらっしゃるのも、バスチーユに討ち入って扉を開いたのが庶民だからでしかありません。個人的には何の恨みもない人間に、憎しみにたぎらせた目をお向けになったのです。おやおや、先ほどまで抑え込んでいた力を緩めてからというもの、息を吹き返した途端に疑いを新たになさらないとも限らないようですね」

 言葉に違わず、ジルベールが目と手の力を止めてからというもの、マリ=アントワネットは、真空ポンプ内で窒息しかけている鳥がそこから抜け出して歌声を取り戻しまた空を飛ぼうとするように、必死になって立ち上がっていた。[*5]

「まだお疑いですね。嘲笑い、軽蔑しておいでだ。いいでしょう! 心をよぎった恐ろしい考えを言わせていただきます。こんなことをしようとしていたところでした。陛下が心の奥深く仕舞い込んでいる苦しみや、隠し持っている秘密を、力ずくで打ち明けていただこうと思っていたのです。陛下がお触れになっているそのテーブルの上で今言ったような秘密を書いていただいた後で、陛下の意識を戻して目覚めさせてから、ご自身の筆跡であることを確認していただき、疑義を差し挟んでいらっしゃる力に何ら出任せなところなどないことを証明しようとしていたのです。それからどれだけ甚だしく我慢を重ねたかを、そうです、陛下が今さっき侮辱なさった人間がどれだけ寛大かを、侮辱する権利も理由もわずかなりとも持たないというのに陛下が一時間前から侮辱なさっている人間が、どれだけ寛大なのかを、証明しようとしていたのです」

「だったら眠らせてみればいい! 眠っている間に口を利かせてみればいい!」王妃は真っ青になって声をあげた。「やってみたら如何? それがどういうことかご存じなの? 脅した結果どうなるのかおわかり? 大逆罪ですよ。おわかりですか? わたしがひとたび目を覚まし、意識を取り戻したが最後、死罪を言い渡すような罪なのですよ」

「陛下」ジルベールは昂奮のあまり逆上している王妃を見つめながら答えた。「咎めたり脅したりするのはまだお控えになって下さい。確かに私は陛下を眠らせていたことでしょう。確かに女の秘密をすっかり聞き出していたことでしょう。ですがこうした状況の下では断じてありませんし、王妃と臣下という立場や、女と見知らぬ男という立場で二人きりおこなうものでも決してありません。王妃を眠らせていたはずなのは間違いありませんし、これほど簡単なこともありませんが、証人もなしに眠らせようとしたり口を利かせようとしたりは絶対にいたしません」

「証人?」

「ええ、陛下の言葉や身振りを残らず見聞きしてくれる証人です。それから起こるであろう場面の、疑う気持をわずかすら残さず陛下から奪い去るであろう場面の、どんな細かいところも見逃さずにいてくれる証人です」

「証人ですって?」王妃はぎょっとしたように繰り返した。「誰が証人になるというのです? いいですか、罪が二倍になるのですよ、証人を用意した場合、共犯者を持つことになるのですから」

「その証人が国王その人だったなら?」

「国王ですって!」マリ=アントワネットが声をあげた。催眠状態で告白させられると聞いた時よりもさらに激しく怯えているのを隠すことは出来なかった。「ジルベールさん!」

「国王です」ジルベールは冷静に話を続けた。「国王、あなたの夫、あなたの支援者、あなたを守って然るべき保護者です。あなたが目覚めた時に、国王がお話しして下さることでしょう。あまたの君主の中でももっとも尊敬されている方に己の科学を実践してみせることに、私が如何に敬意と誇りを感じていたかを」

 言い終えると、ジルベールは王妃にたっぷり考える時間を与えた。

『アンジュ・ピトゥ』 32-8

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「あなたが良心の中に何を見たのか、わたしにははっきりとわかっていると思いませんか?」

「陛下が何を仰ろうとしているのかは存じませんが、仰りたいことはわかります。私ほどの年齢の人間が、いったい何度、神に背かなければならなかったか?」

「選りにも選って、あなたが神の名を口にするのですか!」

「ええ」

「あなたが?」

「いけませんか?」

「哲学者が? 哲学者が神を信じているのですか?」

「神の名を口にし、神を信じております」

「出て行く気はないと?」

「飽くまで留まります」

「いい加減になさい」

 王妃の顔が恐ろしい凄みを帯びた。

「よく考えてのことです。考えた結果、自分には人に劣るところがあるわけではないと判断したのです。人は誰もが罪を抱えています。本を繙くのではなく、他人の良心を繙くことで、そうした真理を学んだのです」

「普遍にして無謬の?」王妃が嫌味を利かせてたずねた。

「普遍にして無謬ではないにしても、人間の不幸についてよく知り、つらい苦しみを身を以て知っております。陛下の目に宿る虚ろな丸い瞳や、陛下の眉に一つ一つ広がってゆく線や、陛下の口の端を歪ませる畝――散文的な言い方をすれば皺という皮膚の縮み――をただ見さえすれば、これは間違いのないこと。陛下がどれだけの厳しい試練を受けて来たか、どれだけ苦悶に打たれて来たか、陛下の心がどれだけの回数裏切りに気づくために信頼を捨てて来たか。お望みとあらばすべて申し上げて見せましょう。否定されることは絶対にありません。読み取る能力のある目を、読み取りたい相手に向ければいいのです。この目の重みを陛下が感じたなら、水深用の錘が海溝に垂れるように探求の錘が心の奥底に入り込まれていると感じたなら、陛下もおわかりになることでしょう。私には何だって出来るのです。私がその力を止めてみれば、私に戦いを挑んだりはせずに感謝するに違いありません」

 その言葉は強い挑発の意図に満ちていた。男から女に向けられた、王妃の御前にも関わらずあらゆる礼儀作法を度外視したその言葉を聞いて、マリ=アントワネットは言語に絶するような衝撃を受けた。

 目の前に靄がかかり、頭の中は冷えて固まり、憎しみは怯えに変わり、両手は垂れ下がって動かず、見知らぬ危険が近づくのから逃げるように、自分が後じさるのを感じた。

『アンジュ・ピトゥ』 32-7

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「カリオストロは卑劣なペテン師であり、いかさま魔術によって眠らせるのは犯罪だと言っているのです」

「犯罪ですって?」

「ええ、犯罪です。飲み物を飲ませたり、媚薬や毒薬を飲ませたりした結果に対する、人間としての正義とは、わたしなりに考えるに、犯人が傷つき罰さられることではありませんか」

「陛下」ジルベールはなおも辛抱強く答えた。「過ちを犯した者たちに、どうか寛大なお心を」

「では認めるのですね?」

 王妃は間違っていた。ジルベールの穏やかな声を聞いて、許しを請うていると勘違いしたのだ。

 王妃は間違っていた。ジルベールは有利な状況を逃すまいとしていたのだ。

「何ですって?」ジルベールが瞳に宿る炎をいっそう燃え上がらせたので、マリ=アントワネットは陽射しに当てられたように目を伏せざるを得なかった。

 王妃は狼狽から立ち直れなかったが、何とか気持を奮い立たせた。

「王妃を傷つけることが出来ないように、王妃に質問することもなりません。宮廷に入ったばかりでしょうが、そういうことも覚えてゆくことです。それはそうと、過ちを犯した者たちの話でしたか。寛大になるようにとわたしに注文していたようでしたが」

「非の打ち所のない人間とはどのような人間でしょうか、誰の目も届かない良心の殻の奥深くに閉じこもることが上手く出来た人間でしょうか? 人はそれを美徳と呼ぶようですが。どうか寛大なお心を」

「でもそうすると」と王妃は不用意に答えた。「良心の奥底にさえ真実を求める目を向ける人間たちの弟子であるあなたにとって、美徳のある人間などいないのではありませんか?」

「それはその通りです」

 王妃は蔑みを隠そうともせず笑い出した。

「お願いですから、今は広場で愚者や田舎者や愛国者たちに話をしているのではないことを思い出していただけますか」

「どなたに話をしているのかは承知しておりますから、ご心配無用です」

「でしたらもっと敬意を払いなさい。せめてもう少し上手くやることです。これまでの人生を振り返ってご覧なさい。幾ら才能や経験があろうと、あらゆるところで励んで来た人たちにも凡人たちと変わらず備わっているその良心とやらの奥深くを覗いてご覧なさい。卑しいこと、悪いこと、罪になることだと考えられることをすべて思い出してご覧なさい、これまでに犯して来た残酷な行為、暴力行為……それから忌まわしい罪も、すべて思い出してご覧なさい。お黙りなさい。今言ったことをすべて考え合わせたなら、頭を垂れて、身の程をわきまえ、礼儀を知らない尊大な態度で国王の住まいに近づいたりはしないことです。国王とは、少なくとも新しい秩序が出来るまでは、犯罪者の心に入り込み、良心の襞を探り、情け容赦なく罪人に最終的な罰を課すために、神が定めた存在なのですから。これがあなたがなさるべきことです。あなたが悔い改めればみんなが満足するのですよ。あなたのような病んだ心を治すには、孤独の中で生きるのが一番です。自分の価値を勘違いさせるような華々しさから、遠く離れて過ごしなさい。宮廷には近づかず、病身の国王を看るのは諦めるよう忠告いたします。得体の知れぬ治療を施すよりも、よほど神に感謝される治療があるではありませんか。古代ローマには、あなたにぴったりの諺がありますよ。『医者よ、汝自身を治せIpse cura medice』」

 王妃としては屈辱的な告発だと考えていたようだが、ジルベールはこれに憤りもせず、穏やかに返答した。

「陛下のご忠告はとうの昔にすべて実行しております」

「何をしたと?」

「じっくりと思い返してみました」

「自分自身のことを?」

「その通りです」

「それから……あなたの良心について?」

「特に良心の拠り所について」

『アンジュ・ピトゥ』 32-6

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 だが激しい感情がジルベールの顔に現れていたのは長い時間ではなかった。ジルベールは、勝利に喜びしれ無防備に見つめている王妃に近づいて行った。

「陛下はきっとお間違えです。陛下がお話しになった科学者たちについて、その学術的成果である催眠の力をお疑いになるのは間違っていらっしゃいます。あれは催眠磁気による犠牲者ではなく被験者なのですから。分けても、探求する権利にお疑いを挟むのは間違っていらっしゃいます。ひとたび原理が世に知られ法則化されるや世界を変えるような発見を、ありとあらゆる手を用いて追い求めるのは、当然の権利なのですから」

 王妃に近づきながら、ジルベールは見つめ返した。アンドレに発作を起こさせ屈服させたあの意思の力をみなぎらせて。

 ジルベールに近づかれて、王妃は全身の血管が怖気づくのを感じた。

「おぞましい! いかがわしく邪悪な経験を濫用して魂や肉体を貶める者たちなど恥辱にまみれてしまえばいい!……カリオストロなど一敗地にまみれてしまえばいい!……」

「陛下」ジルベールの言葉には揺らぎがなかった。「人間の犯す過ちをそんなに厳しく裁くものではありません」

「何ですって!」

「人間は間違いを犯してしまうものです。人間は人間を傷つけるものなのですから、一人一人が我が身を守り治安を形作っていなければ、世界が大きな戦場になるだけです。最良の人間とは善良な人間です。悪いところのないのが最良の人間だと言う人もいるでしょう。判事の心が気高いほど、寛容の心は大きいものです。玉座という高みに坐します陛下には、他人の過ちを他人ひとより厳しく裁くご権限がございません。地上の玉座の上では、至高の寛容をお与え下さい。天上の玉座に坐します神が至高の慈悲を賜りますように」

「わたしはあなたとは違う見方で、自分の権利や義務を見ています。わたしは人を罰し人に報いるために玉座の上にいるのです」

「そうは思いません。それどころか、女であり王妃である陛下が玉座の上にいらっしゃるのは、人の間を取り持つためであり、許しを与えるためです」

「まさか説教をなさっているわけではありませんよね」

「もちろんです。ただ陛下のご質問に答えただけのこと。例えば先ほど陛下が口になさってその科学にお疑いを挟みましたカリオストロのことで覚えていることがあるのですが――トリアノンの話よりもさらに以前の話です――タヴェルネ邸の庭で、フランス王太子妃にその科学の証拠を披露したことがございました。妃殿下がその記憶を深く仕舞い込まねばならなかったことはお察しいたします。と申しますのも、証拠を目にされた妃殿下はひどい衝撃を受けていらっしゃいましたから。気を失うほどの強い衝撃を」

 攻撃するのはジルベールの番だった。出任せの攻撃ではあったものの、その出任せが見事に当たって、王妃の顔は死人のように青ざめた。

「そうです」王妃の声はしわがれていた。「あの男は恐ろしい機械仕掛けが出てくる夢を見せたのです。けれど今日の今日まで、あの機械が実在するのを見たことはありません」

「陛下が夢で何をご覧になったのかは存じません」ジルベールは王妃にもたらした結果に満足して言った。「ただ存じ上げているのは、同胞であるほかの人間に対してそうした力を行使する人間には、科学者という肩書きに疑いを差し挟む余地などないということです」

「同胞ですか……」王妃は馬鹿にしたように呟いた。

「間違っていても構いません。その力は、恐怖という軛によって、この世の王族や貴族たちの頭を同じ高さに下げることが出来れば、さらに大きくなるのです」

「おぞましい! もう一度言います。人の弱さや騙されやすさにつけ込むような者たちは、恥辱にまみれてしまえばいい」

「おぞましい? 科学を用いる者たちのことを、そう仰いますか?」

「絵空事や欺瞞ばかりの卑劣漢です!」

「何と仰いました?」ジルベールは表情を変えなかった。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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