アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「気が違ったと思ってらっしゃるんですね」王妃の声には苛立ちが滲んでいた。「パリにいらっしゃる。いいでしょう。でもパリが底なしの深淵ではないと誰に断言できるのですか? この目で見てはいなくてもそのくらいわかります。あなたの周りで騒動が起こるのは確実だというのに、どうして殺されないと思うのですか? 流れ弾が何処かから飛んで来るかもしれないのに? 十万もの拳が怒りに燃えて突き出されている中で、そのどれかからナイフが突き出されるかもしれないというのに?」
「その点については恐れる必要はない。あの者らは余を愛しておるのだから!」
「そんなことは仰らないで下さい、惨めではありませんか。あなたを愛しているから、あなたの代理たる者たちの命を奪い、喉を掻き切り、皆殺しにしたと言うのですか。神の似姿たる国王を! 国王の代理人たるバスチーユの司令官を! 大げさ過ぎると責められるつもりはありません。勇敢で忠実だったローネーの命を奪った以上は、あなたの命を奪ってもおかしくはありませんし、捕まったのがローネーではなくあなただったなら、ことはさらに容易です。みんなあなたのお顔はご存じなのですし、あなたが身を守ったりせずに身柄を明け渡すはずだということもわかっているのですから」
「つまりどういうことだね?」
「結論は申し上げたつもりです」
「余は殺されると?」
「はい」
「それで?」
「それから子供たちです!」
ジルベールは口を挟む頃合いだと感じ取った。
「ご安心下さい、パリの者たちは国王に敬いを示すでしょうし、熱狂に沸き返ることでしょう。一つ心配があるとすれば、それは国王のことではなく、神像を戴せた山車に轢かれようと身を投げるヒンズー僧のように馬に踏みつぶされかねない狂信者のことです」
「おやめなさい!」マリ=アントワネットが叫んだ。
「パリへの道は勝利の道です」ジルベールが答えた。
「陛下は反論なさいませんのね」
「つまり先生に同意するということだ」
「その勝利を味わいたくてじりじりしてらっしゃるのですか!」
「それももっともではありませんか。じりじりしていらっしゃるのは、人や物事に対する陛下の判断力が正しいものだということの証明になります。早ければ早いほど、勝利は大きなものになるのです」ジルベールはなおも言った。
「うむ、そう思うかね?」
「確信しております。ぐずぐずしていては、国王が自らの意思でおこなうことの利点がすべて失われてしまいます。考えてもみていただけますか、他人に指揮権を握られるかもしれないのですよ。パリ市民の目の前で陛下のお立場を変えようと要求する人間、言い換えるなら陛下を命令に従わせようとする人間に、主導権を握られるかもしれないのです」
「おわかりいただけましたか? 先生が認めました。あなたが人から命令される日が来ると。陛下、おわかりですか?」
「既に命令された、とは先生は言っていない」
「今は堪えて下さい。時間を無駄にしていては、要求だろうと命令だろうと実行される時が来るのです」
ジルベールは口唇をわずかに引き攣らせ、不満を表した。顔に浮かんだのは一瞬だったが、王妃は見逃さなかった。
「何を言っていたのかしら? ちょっとおかしくなっていたようです。思ってもいないことを話してしまいました」
「何の話だね?」国王がたずねた。
「遅れが出れば、主導権が失われるそうですが、わたしはその遅れを要求いたします」
「何でもお願いして下さって構いませんし、何でも要求して下さって構いません。けれどそれだけはおやめ下さい!」
「アントワネット」国王が首を振った。「そなたは余を破滅させると明言したのだぞ」
「陛下」王妃の言葉に宿る非難の響きから、心の苦悶が滲み出ていた。「どうしてそのようなことを仰るのですか!」
「どうしてパリ行きを遅らせようとするのだ?」
「どうかお考え下さい。こうしたことは時機がすべてなのです。こうしている間にも過ぎてゆく時間が、どれほどの重みを持つかお考え下さい。その瞬間が近づくのを、人々が怒りに燃えながら指折り数えて待っているのですよ」