アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
王妃は眉をひそめてジルベールを睨んだ。
ジルベールはそれを予期していた。というのも予言が半ば当たっていたからだ。二万人がやって来ると断言していたところを、既に一万人が集まっていた。
国王がボーヴォー氏に向かって言った。
「その勇敢な者たちに冷たいものを差し上げるよう伝えなさい」
ボーヴォー氏は再び退出し、国王の指示を膳部官たちに伝えに行った。
やがてボーヴォー氏が戻って来た。
「どうだった?」国王がたずねた。
「はい、パリの者たちは衛兵たち(MM. gardes)と言い争っております」
「ほう、言い争いを?」
「ええ、極めて礼儀正しいものですが。陛下が二時間後には出発すると知ると、陛下の出立を待って馬車の後ろからついて行きたいと申しております」
「歩いて、ですか?」今度は王妃がたずねた。
「そうです」
「馬を繋いだ馬車ですよ。大変な速度です。ボーヴォーさん、国王は移動の際にはいつも全速力なのですから」
その言葉の響きは、まるで「陛下の馬車に翼をつけなさい」と言っているようであった。
国王が手を挙げてやめさせた。
「並足で行こう」
王妃が怒気を思わせる溜息をついた。
「よいかね」ルイ十六世は落ち着いて答えた。「余に敬意を表するためにわざわざ足を運んでくれた者たちを走らせるのはしのびない。並足で行こう。ゆっくりでもよい。追いかけて来られるようにしよう」
居合わせた者たちは同意の呟きを以て感嘆を示した。だが同時に、何人かの顔の上には、王妃の顔に表われていたあからさまな非難の気持が反映されていた。王妃が弱気と呼んでなじっていた国王の人の良すぎる心根のせいだ。
窓が開いた。
王妃がぎょっとして振り返った。ジルベールだった。医師としての権利を行使して、窓を開けて食堂の空気を入れ換えたのだ。それだけ空気は食事の匂いと百人以上の息によって汚れていた。
ジルベールが開いた窓のカーテンの裏に行くと、中庭に集まっている人々の声が聞こえて来た。
「どうかしたかね?」国王がたずねた。
「石畳の上にいるのが国民衛兵です。陽射しに照らされて暑くなっているに違いありません」
「国王とのご会食に招待なさらないのですか?」寵臣の一人が王妃に小声でたずねた。
「日陰に連れて行かねばならぬ。大理石の中庭や、玄関広間、涼めるところなら何処でもよい」国王が言った。
「一万人を玄関広間に?」王妃が声をあげた。
「宮殿中に振り分ければ入るだろう」国王が言った。
「宮殿中に? でもそれだと、陛下の寝室までの道のりを教えてしまうことになるのですよ」
三か月もしないうちに、まさにこのヴェルサイユで実現することになる、恐ろしい予言だった。
「子供たちもたくさんついて来ております」ジルベールがやんわりと言った。
「子供たち?」
「ええ、何人もの人間が、散歩にでも行くように、子供たちを連れて来ているのです。子供たちは小さな国民衛兵の制服を着ています。それだけこの新しい組織に対する熱狂は大きいのです」
王妃は口を開きかけたが、すぐに下を向いた。
親切な言葉を口にしたかったのだが、誇りと憎しみが邪魔をした。
ジルベールがそれをしっかりと見つめていた。
「子供たちが可哀相だな!」国王が声をあげた。「子供を連れて来ているということは、一家の父親を傷つける気はないということだ。日陰に連れて行くのはこの子たちのためでもある。入って貰うがいい」
ジルベールがゆっくりと首を振ったのは、沈黙を守っていた王妃に向かってこう言っているかのようであった。
――これがあなたが口にすべき言葉だったのですよ。せっかく機会を作って差し上げたのに。そうすればあなたの言葉は人の口の端に上り、向こう二年間は人気を得ることが出来たでしょうに。
王妃はジルベールの無言の言葉を理解し、顔を赤らめた。