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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 38-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 シャルニーが聞いていた。シャルニーが見ていた。ただし理解はしていない。

 シャルニーはアンドレの顔色の悪さとマリ=アントワネットの狼狽に気づいた。

 シャルニーには王妃に質問する権利はない。だがアンドレは妻だ。問いただす権利がある。

 シャルニーはアンドレに近づき、優しく好意的な口調でたずねた。

「どうしたんだ?」

 アンドレはどうにか気力を保った。

「何でもありません、伯爵」

 そこでシャルニー伯爵は王妃を見た。王妃は如何ともしがたい状況には相当に慣れていたにもかかわらず、何度も微笑みを作ろうとして上手く行かなかった。

「ジルベールの忠誠心を疑っているようだね」シャルニーはアンドレにたずねた。「疑るような理由があるのかい?」

 アンドレは答えなかった。

「答えてくれ」シャルニーが重ねて言った。

 それでもアンドレが無言を貫いているので、

「話してくれないか。ここでそんなふうに慎ましくするのは褒められたことではないよ。ことは両陛下の安全に関わるんだ」

「何のことを仰っているのかわかりません」アンドレが答えた。

「話しているのが聞こえたんだ……何なら公妃に思い出してもらってもいい……」そう言ってシャルニーはランバル公妃に頭を下げた。「声をあげていたはずだ、『あの人が、陛下の友人だと仰るのですか!』と……」

「仰る通りです」ランバル公妃が馬鹿正直に答えた。

 そして公妃もアンドレに近寄り、

「何かご存じなのでしたら、シャルニー殿の仰る通りですよ」と言った。

「お願いです!」アンドレの強い言葉は、公妃にしか聞こえないほど小さかった。

 公妃が引き下がった。

「まったくもう! たいしたことではないんですよ」礼儀を欠くことになろうとも、もはやぐずぐずせず口を出すべきだと王妃は悟った。「伯爵夫人が不安がっていたのは、漠然となんです。アメリカの革命家でありラ・ファイエット氏の友人である人間がわたしたちの友人になれるのだろうかと言っていたんです」

「ええ、漠然となんです……」アンドレが機械的に繰り返した。「本当に漠然と」

「同じような不安を、こちらの殿方たちも伯爵夫人より前に口にしていましたよ」

 マリ=アントワネットはそう言って廷臣たちに目を向けた。廷臣が疑問を口にしたことが、そもそものきっかけだったのだ。

 だがシャルニー伯爵を納得させるにはそれではまだ足りなかった。来た時の混乱から考えて、隠しごとのありそうな気配があった。

 シャルニーは引き下がらなかった。

「それでもやはり、漠然とした不安を口にするだけでなく、はっきりと説明するのが義務だと思わないか?」

「どういうことです?」王妃がかなり厳しい声を出した。「まだその話をするのですか?」

「陛下!」

「申し訳ないけれど、まだシャルニー伯爵夫人に質問するおつもりのようね」

「お願いです、重要なのことなのです……」

「あなたの自尊心のために、でしょう? シャルニー殿」王妃の嘲るような追い打ちが、シャルニー伯爵をずっしりと打ちのめした。「あなたは嫉妬なさってるんです」

「嫉妬?」シャルニーは真っ赤になった。「何に嫉妬すると仰るのです? お答え下さい」

「どうやら奥さまについてではありませんか」王妃が辛辣に言葉を重ねた。

「陛下!」シャルニーは口ごもり、その挑発にすっかり狼狽えてしまった。

「おかしなことではありません」王妃は素っ気なく続けた。「伯爵夫人には確かに嫉妬されるだけの価値がありますもの」

 シャルニーが王妃に視線を飛ばし、行き過ぎだと伝えようとした。

 だがそれは無駄な努力であり余計な警告であった。焼けるような痛みを刻みつけられては、この牝獅子を止めることはもはや何ものにも出来なかった。

「ええそうです、あなたは嫉妬なさってるんです、シャルニー殿。嫉妬と不安を感じてるんです。人を愛し、そのために眠れない人間にはよくあることです」

「陛下!」シャルニーが繰り返した。

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『アンジュ・ピトゥ』 38-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 シャルニーが近づくと、ラ・ファイエットが手を差し出した。その結果シャルニーと馬は群衆の手で今までいた場所から河岸まで押し流された。河岸には国民衛兵の厳格な指示の許、国王の通り道に人垣が出来ていた。

 国王の命令は、来た時と同じように並足で馬車をルイ十五世広場まで進ませよ、というものだった。広場には国王のお戻りを待ちわびていた護衛隊が見えた。待ちわびていたのは誰もが同じであったので、広場を過ぎてからは馬も速度を上げ、ヴェルサイユに向かうにつれてどんどん速くなって行った。

 ジルベールは窓の手すりから将校の到着を認めていたが、それが誰であるのかはまったくわからなかった。如何ほどの苦しみを王妃が受け取ることになるのか、ジルベールはそのことを考えていた。三時間前からは疑われることもやましさを見せることもなく人込みを抜けてヴェルサイユに伝令を送ることは不可能だったのだから、王妃の苦しみはなおさらであろう。

 そうは言うものの、ジルベールが危ぶんでいたのは、ヴェルサイユで起こっていたことのうちささやかな部分(une faible partie/a faint idea)でしかなかった。

 読者諸兄にはヴェルサイユにお戻りいただくことにしよう。長々と歴史の講義なぞさせる気はない。

 王妃が国王からの伝令を最後に迎え入れたのは三時であった。

 ジルベールは伝令を送る方法を、国王が鋼のアーチの下を通って市庁舎に入った瞬間に見つけていたのだ。

 王妃のそばにはシャルニー伯爵夫人アンドレがいた。気分が優れないため昨日から潜り込んでいたベッドを、抜け出て来たばかりであった。

 顔色はまだかなり悪い。目を上げるのもやっとだった。苦しみのためか恥ずかしさのためか、瞼は重たげに伏せられたままだった。

 王妃はシャルニー伯爵夫人に気づいて微笑みかけたが、近しい者たちには、王族が口許に浮かべる形式的な微笑みにしか見えなかった。

 それでも王妃はルイ十六世が安全であると確認できたために、まだその喜びの昂奮が治まらないような態度を見せていた。

「今度もいい報せだといいわね」王妃は周りの者たちにこぼした。「今日一日がこうして過ぎてゆけばよいのだけれど」

「心配なさり過ぎです。パリの者たちも自分たちがどのような責任を負っているかは重々承知しておりますとも」

「でも陛下」と別の廷臣(courtisan)が半信半疑でたずねた。「報せが間違いなく本物だと思ってらっしゃいますか?」

「もちろんです。報せを送っている者が国王の安全を誓ったのです。そもそもその方は友人ですから」

「その方が友人だというなら、話は違いますね」その廷臣が頭を下げた。

 近くにいたランバル夫人がそばに寄った。

「新しく国王の侍医になった者のことですね?」

「ええ、ジルベールよ」王妃は何の気なしに答えた。それが周りに恐ろしい衝撃を与えるとは考えもしなかった。

「ジルベール!」アンドレが叫び声をあげ、心臓を蝮に咬まれたかのようにがくがくと震え出した。「ジルベールが、陛下の友人だと仰るのですか!」

 アンドレが王妃を見つめた。怒りと恥に瞳をたぎらせ、手を握り締め、面と向かって非難の眼差しと態度をぶつけた。

「でも……だけど……」王妃は口ごもった。

「陛下!」と呟くアンドレの声には、より強い非難の色が見えた。

 死のような沈黙が生じて、その不可解な事態を取り囲んだ。

 その沈黙のさなか、控えめな足音が隣室の床を鳴らした。

「シャルニー殿ね!」王妃が小声で呟いた。自分がもう落ち着いたことををアンドレに知らせようとでもするかのように。

『アンジュ・ピトゥ』 38-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十八章 国王が市庁の演説を聴いている間にヴェルサイユで起こっていたこと

 市庁舎の中で国王は手厚いもてなしを受け、自由の回復者(le Restaurateur de la liberté)と呼ばれた。

 国王は話を求められて――演説をおこないたいという思いは日に日に激しくなっていたし、やはり相手方が何を考えているのか知りたかったこともあり――国王は胸に手を置き一言だけ言った。

「諸君はいつでも余の愛を当てにしてくれ給え」

 国王が市庁舎で政府の――というのも、この日からフランスには玉座に加えて国民議会という紛れもない政府が誕生していた――国王が市庁舎で政府の言葉に耳を傾けている間、庁舎の外では市民たちが国王の上馬や豪華な馬車や従僕や馭者に親しんでいた。

 国王が市庁舎に消えると、ピトゥはビヨからもらった一ルイを使って、青と白と赤の紐をふんだんに用いて大きな国民の徽章を幾つも作り、馬の耳や馬具や供回り一堂を夢中になって飾っていた。

 それを見た者たちが真似をして、ものの見事に国王の馬車を徽章の山に変えてしまった。

 馭者と従僕はすっかり飾り立てられた。

 市民たちはさらに馬車の中にまで幾つもの徽章を滑り込ませた。

 広場で騎乗したままだったラ・ファイエット氏が、国民の色を広めようとする者たちを押し返そうとしたが、上手くは行かなかった。

 だから外に出て来た国王は、色鮮やかな光景を見て声をあげた。

 それからラ・ファイエット氏に手を向け、近くに寄るよう合図した。

 ラ・ファイエット氏は剣を降ろしておそばに寄った。

「ラ・ファイエット殿、そなたを捜していたのだ。国民衛兵の指揮権はそなたにあることを断言しよう」

 そう言うと、割れんばかりの歓声の中、国王は馬車に戻った。

 これで国王の身は安心だと確信したジルベールは、選挙人とバイイと共に会議室に残っていた。

 話はまだ終わっていなかったからだ。

 だが国王の出発を敬する歓声を聞いて、窓に近づき広場を一瞥し、ビヨとピトゥの様子を確かめた。

 二人は先ほどと同じく国王と良い関係を築いていた。少なくともそのように見えた。

 そこに突然、ペルティエ河岸(le quai Pelletier)を通って、馬に乗った軍人が埃まみれで慌ただしく到着した。群衆はそれでも恭しく素直に道を開いた。

 この日の人々は機嫌が良かったため、笑顔で繰り返した。

「国王のご家来だ!」

 そして「国王万歳!」の声がその将校に浴びせられ、女たちが汗で白くなった馬を撫でた。

 将校は馬車まで馬を進め、馬係が閉めたばかりの扉までたどり着いた。

「シャルニー、そなたであったか」

 ルイ十六世は声をひそめた。

「そちらの様子はどうだ?」

 そしてさらに声をひそめる。

「王妃は?」

「心配なさっています」将校は馬車に首をほとんど突っ込んで答えた。

「ヴェルサイユに戻るのか?」

「はい」

「では友人たちを安心させてくれ。すべて順調に行っておる」

 シャルニーはお辞儀をしてから顔を上げ、親しげな素振りのラ・ファイエット氏に気づいた。

『アンジュ・ピトゥ』 37-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 その後で国王は出発を命じた。

 だが動き出す前に国王は護衛隊を退らせ、選挙人とバイイ氏の演説によってパリ市が表明したささやかな礼儀に対し、底意のない信頼があることを示して応えた。

 すぐに国民衛兵と野次馬でごった返す中、馬車だけが先ほどよりも速い速度で前に進んだ。

 ジルベールとビヨは馬車の右側から離れずについて行った。

 馬車がルイ十五世広場を通り過ぎていた瞬間、セーヌの対岸から銃声が轟き、白い煙が香烟のように青い空に立ち上り、すぐに見えなくなった。

 あたかも銃声に揺さぶられたように、ジルベールは激しい衝撃に打たれるのを感じていた。一瞬だけ息が止まり、鋭い痛みを感じて胸に手を当てた。

 同時に苦しげな悲鳴が馬車のそばであがった。女性が一人、右肩の下を撃たれて倒れている。

 ジルベールの服のボタンは、当時の流行に従い、黒く大きな鉄にカットが施されていたが、そのボタンにぶつかった弾丸が斜めにはじかれたのだ。

 ボタンが鎧の役目を果たし、弾丸を逸らした。それがジルベールの感じた痛みと衝撃の原因だった。

 黒いジレと胸飾りの一部がなくなっていた。

 ジルベールのボタンにぶつかって逸れた弾丸が、不幸な女性を殺したのだ。瀕死の女性は血塗れになって運ばれて行った。

 国王にも銃声は聞こえたが、何一つ目にはしなかった。

 国王はジルベールに顔を寄せて微笑んだ。

「余のために向こうで火薬を鳴らしてくれているようだね」

「そのようです」

 ジルベールはそう答えたものの、先ほどの歓迎の意味に対する自分の考えを国王には伝えぬよう気をつけた。

 だが心の中では、王妃の恐れが少なからず正しかったのだと呟いていた。馬車の扉をぴったりと塞いでいるジルベールがいなければ、弾丸は鉄のボタンにはじかれることなく、真っ直ぐ国王のところに届いていただろう。

 いったい何者によってこのような正確な射撃がおこなわれたのだろうか?

 その時、知ろうとする者はいなかった……そのため永遠に明らかになることはないだろう。

 ビヨは真っ青になり、ジルベールの服(l'habit/coat)とジレと胸飾りの裂け目から目を離せずにいた。ビヨはピトゥに、さらに大きな声で「フランス人の父万歳」と叫ぶように促した。

 もっとも、並々ならぬ事態のさなかだったため、このささやかな事件は瞬く間に忘れ去られた。

 こうして遂にルイ十六世は市庁舎に到着した。ポン=ヌフで受けた祝砲には、少なくとも砲弾は入っていなかった。

 市庁舎の正面には大きな文字の銘文が記されている。日中は黒ずんでいるものの、夜になれば透明に明るく輝いて見えた。

 この銘文は市庁舎の人間が苦労して作ったものだ。

 銘文には次のように書かれていた。

『フランス人の父にして自由市民の王、ルイ十六世に』

 バイイの演説とはまた違った極めて意義深い対句表現に、広場に集まっていたパリ市民が称讃の叫びをあげていた。

 この銘文がビヨの目を惹いた。

 だがビヨは字が読めなかったので、ピトゥに読んでもらった。

 一度だけでは聞こえなかったかのように、ビヨは二度も繰り返させた。

 だからピトゥは一字一句違えずにその文章を繰り返した。

「そう書いてあるのか? そうなんだな?」

「そうです」ピトゥが答えた。

「市の奴らが、国王は自由市民の王だと書かせたのか?」

「ええ、ビヨさん」

「国民に自由があるというのなら、国民には国王に徽章を渡す権利があるんじゃないか」

 そう言ったかと思うと身を躍らせ、市庁舎の階段前で馬車を降りていたルイ十六世の前に飛び出した。

「陛下、ポン=ヌフにあるアンリ四世像に国民の徽章がつけられているのをご覧になりましたか?」

「うん?」

「いいですか! アンリ四世が国民の徽章を身につけているなら、あなただって身につけていいはずです」

「そうだな」ルイ十六世は困った顔を見せた。「持っていれば余とて……」

「そんなことですか」ビヨは声を荒らげ、手を持ち上げた。「でしたら国民の名に於いて、あなたの徽章の代わりに、あたしのを差し上げますよ、お受け取り下さい」

 バイイが割って入った。

 国王は青ざめた。事態が進んでいるのを実感し始めたのだ。答えを求めるようにバイイを見つめた。

「陛下、これがフランス人を象徴する徽章なのです」バイイが言葉をかけた。

「そういうことなら受け取ろう」国王はビヨの手から徽章をつかみ上げた。

 白い徽章は外さずにおいたまま、三色の徽章を帽子に取りつけた。

 巨大な勝鬨が広場に轟いた。

 ジルベールは深く傷ついたように顔を背けた。

 国民がこれほどまでに素早く踏み込み、国王が何ら抵抗しなかったことに気づいていた。

「国王万歳!」というビヨの声が、二度目の喝采の合図となった。

「国王は死んだ」ジルベールが呟いた。「もはやフランスに王はいない」

 国王が馬車から降りた地点から出迎えられた部屋まで、幾つもの剣が掲げられて鋼のアーチが出来ていた。

 ルイ十六世はこのアーチの下をくぐり、市庁舎の奥に消えた。

「これは勝利のアーチじゃない。カウディウムの槍道(les fourches Caudines)だ」【※古代ローマにて、カウディウムの隘路で敗北を喫したローマ軍が、槍でできたアーチの下を歩かされた故事による】

 ジルベールは溜息をついた。

「王妃は何と仰るだろう」


 第37章終わり。第38章に続く。

『アンジュ・ピトゥ』 37-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 そうした考えに取り憑かれてしまったため、ジルベールが国王と話すのをやめた瞬間に、ビヨはジルベールに自分の思っていることを打ち明けた。

「ジルベールさん、どうして国王は国民の徽章(la cocarde nationale)をつけてないんでしょうね?」

「そうだねビヨ、きっと国王は新しい徽章があるのを知らないのか、それとも自分の徽章こそ国民の徽章に相応しいと考えているんじゃないかな」

「何言ってんですか、国王のは白くて俺らのは三色だからじゃありませんか」

「早まっちゃいけない」新聞の言葉に軽々しく飛びつこうとしたビヨを、ジルベールが止めた。「国王の徽章はフランス旗のように白いけれど、それは国王のせいじゃない。徽章と旗は国王が生まれる前から白かったんだ。しかもね、ビヨ、旗はその役目をしっかりと果たして来たし、白い徽章だってそうだった。シュフラン執行官(bailly de Suffren)がインド半島にフランスの旗を再び掲げることに成功した時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。ダッサス(d'Assas)も帽子に白い徽章をつけていた。それがために夜中ドイツ人に気づかれても、奇襲されて味方を失うよりは自分が殺される方を選んだ。サックス元帥(Maréchal de Saxe)がフォントノワでイギリスと戦った時にも、帽子には白い徽章が輝いていた。それから、ロクロワ、フライブルク、ランス(à Rocroy, à Fribourg et à Lens)で帝国軍を破ったコンデ公の帽子にも白い徽章があった。これが白い徽章の果たして来たことなんだ、ビヨ。しかもまだこれだけじゃない。それに引き替え国民の徽章(la cocarde nationale)はいずれラ・ファイエットが予言したように世界を駆け巡ることになるだろうけれど、今はまだ何かを果たすだけの時間がなかった。出来たのが三日前なのだからね。このまま何もせずじまいだなんてことはない。つまるところ、まだ何も果たしていないということは、何か果たすのを待つ権利を国王に与えるということなんだ」

「国民の徽章がまだ何も果たしていないってのはどういうことですか?」ビヨがたずねた。「バスチーユを占拠しなかったとでも?」

「そんなことはない」ジルベールは悲しげに答えた。「君は正しいよ、ビヨ」

「だったら決まってまさぁ」ビヨは勝ち誇って断言した。「国王は国民の徽章をつけるべきじゃありませんか」

 ジルベールがビヨの脇腹を肘で小突いた。国王が耳を傾けていることに気づいたのだ。声を潜めた。

「気は確かか、ビヨ? 何のためにバスチーユを占拠したんだ? 王権に抗うためだと思っていたよ。すると君は、君の勝利の記念品と国王の敗北の証を、国王の身につけさせたいのか? 正気じゃない! 国王は優しく善良で率直な人だ、そんな人を偽善者にさせたいのか?」

「ですけどね」ビヨは口調を和らげたものの、完全に譲歩したわけではなかった。「厳密に言えばバスチーユの占拠は国王に抗ったわけではなく、専制政治に抗ったわけですからね」

 ジルベールは肩をすくめた。それには、下にいる者を踏み潰さぬようにという、上に立つ者の配慮が見えた。

「そうですとも」ビヨが昂奮して先を続けた。「俺らが戦った相手は国王じゃない。幕臣(satellites)なんだ」

 当時、政治の上では兵士(soldats)と言わずに幕臣(satellites)と言った。芝居の中では馬(cheval)と言わずに駒(coursier)と言うように。

「そのうえにですね」ビヨがもっともらしい顔で話を続ける。「国王は俺らのところにいらっしゃる以上、幕臣とは対立する。国王が幕臣と対立するなら、俺らとは仲良くするってことです。俺らの幸せと国王の名誉のために、俺らは行動を起こしたんです、そしてこの俺らが、バスチーユで勝利を収めたんです」

 ジルベールは国王の顔をよぎったものと心をよぎったものとの間にどのように折り合いをつければよいのかわからずにいた。

 国王は国王で、ざわついた行列の囁きの中でも、自分のそばまで踏み込んで来た議論の言葉を拾い始めていた。

 ジルベールは国王が議論に注意を傾けていることに気づいて、ビヨが踏み込んだ滑りやすい場所からもっと滑りにくい場所に連れ出そうと必死だった。

 突然、行列が止まった。ラ・レーヌ大通り、旧コンフェランス門、シャン=ゼリゼーにたどり着いたのだ。

 そこにはバイイ新市長を筆頭とした選挙人と市役人の代表団が整列していた。さらには聯隊長(un colonel)率いる三百人の衛兵と、第三身分から顔を連ねたのが明らかな国民議会の議員も少なくとも三百人いた。

 選挙人が二人、上手く力とコツを合わせて金箔張りの大皿を傾かないように支えている。大皿の上には巨大な鍵が二つ、アンリ四世時代のパリ市の鍵が戴せられていた。

 斯かる迫力ある光景を目の当たりにして、お喋りをしていた者たちもぴたりと口を閉じた。人込みの中にいる者たちも行列の中にいる者たちも、状況の違いはあれど皆それぞれに、今から交わされるであろう会話に耳を傾けようとした。

 著名なる研究者にして優れた天文学者であるバイイは、意に反して代表にされ、意に反して市長にされ、意に反して演説を任されてしまい、栄えある大演説の用意をしていた。この演説はまず前置きとして、厳格なる修辞の駆使された、チュルゴー氏の政権就任からバスチーユ襲撃に至るまでの、国王への讃辞で始まっていた。如何に雄辯が優れた結果をもたらすものであろうと、事態の主導権を国王にもたらすには程遠かった。哀れな君主は事態を最大限甘受していた。これまで見て来たように、渋々と甘受していたのである。

 バイイは演説に満足していた。とある出来事のせいで――バイイ自身が回想録にこのことを書いているが――とある出来事のせいで、用意していた前置きとは違う形の、なかなかに印象的な前置きが生まれたのである。そのうえ事実に基づいた名言至言を手ぐすね引いて期待している人々の記憶に残されたのはその一事のみであった。

 バイイは市役人と選挙人と共に前に進みながら、国王に手渡す予定の鍵の重さに不安を感じ始めた。

「どうだろう」バイイは笑って話しかけた。「この記念品を国王にお見せした後でパリに持ち帰るのは疲れるとは思わんかね?」

「ではどうするおつもりで?」選挙人の一人がたずねた。

「そうだな、君たちにあげるか、そうでなければ木の根元にある溝にでも捨ててしまいたいね」

「何てことを」選挙人が憤慨して言い返した。「この鍵がパリ攻囲後にパリ市からアンリ四世に贈られたものだということをご存じないのですか? 大変に貴重な、歴史的な遺物ですよ」

「その通りだ。この鍵はアンリ四世に贈られた。パリの征服者たるアンリ四世にね。それがルイ十六世に贈られる。ルイ十六世は……ううん、いや待てよ!」バイイは独り言ちた。「これはいい対句が書けるな」

 すぐに鉛筆を握って、用意していた演説の上に以下の前置きを書き足した。

『畏れながらこうして陛下にパリ市の鍵をお持ちする運びとなりました。この二つの鍵こそアンリ四世に贈られたものであります。アンリ四世はパリ市民を取り戻しました。そして今、パリ市民は国王を取り戻したのです』

 美しく正確な文章が、パリ市民の心に植えつけられた。ありとあらゆるバイイの演説や、バイイの著作まで含めてみても、後の世に残ったものはこれだけであった。

 ルイ十六世は同意の印にうなずいたものの、真っ赤になっていた。というのも敬意と美辞麗句の下に隠された諷刺や皮肉に気づいていたからだ。

 だから小声で呟いた。

 ――マリ=アントワネットならバイイ氏によるこうしたおべんちゃらに騙されはせぬだろうし、余とは違った対応をするであろうな。

 このような事情により、ルイ十六世はバイイ氏の演説の冒頭に気を取られ過ぎていたせいで、結びをまったく聴いていなかった。選挙人代表ドラヴィーニュ氏(M. Delavigne)の演説に至っては、始めから終わりまでまったく聴いていなかった。

 だがそれでも国王は、演説が終わると、自分を嬉しがらせようとした演説に対し喜んでいないように見えるのはまずいと思い、堂々たる言葉をもって応えた。演説の内容に何ら非難めいたことも言わず、パリ市と選挙人の敬意を充分に受け止めた。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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