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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 43-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ピトゥは目と同じくらいに耳を開いて、ビヨのそばの床に腰を下ろした。

 こうしてジルベールの仕事部屋(le cabinet)で始まった三人の話し合いは、なかなか興味深い光景だった。傍らの机には手紙や書類やほやほやの印刷物や新聞が積まれ、すぐそばの扉に詰めかけた請願者や告訴人は、目も手足もほとんど利かない老事務員に押し返されていた。

「教えて下さい。悪い結末とは?」ビヨがたずねた。

「いま何をしているかわかるかい?」

「文章をお書きで」

「ではこの文章の意味は?」

「当てろと仰るんですな、文字も読めないあたしに」

 ピトゥがおずおずと顔を上げ、ジルベールの前にある書類に目を向けた。

「数字ですね」

「そう、数字だよ。この数字がフランスを破滅させるものでもあり、救うものでもあるんだ」

「何ですって!」ビヨが声をあげた。

「何ですって!」とピトゥも同じ言葉を発した。

「この数字が明日には印刷されて、王宮や貴族の館や貧乏人のあばら屋から、収入の四分の一を請求することになるんだ」

「え?」ビヨがたずねた。

「アンジェリク伯母さんが嫌な顔をしそうだなあ」ピトゥが呟いた。

「おかしいかい? 革命を起こしたんだから、革命の対価を払うべきだろう?」

「その通りですね」ビヨがきっぱりと応じた。「そうさね、払うべきだ」

「君は信念を持っているからね、そうした答えを聞いても驚かないよ。だが信念を持っていない人たちは……」

「信念を持っていない人たちは……?」

「ああ、どうすると思う?」

「抗うでしょうね」ビヨの言葉には強い意志が感じられた。自分だったら何が何でも抗うだろう。自分の信念と相容れない活動のために収入の四分の一を請求されて黙っているわけがない。

「では抗争だ」ジルベールが言った。

「でも多数派が」

「言ってご覧」

「多数派が押し切りますよね」

「つまり圧制だ」

 ビヨがジルベールを見つめた。疑わしげだった眼差しに閃きの光が灯った。

「焦らなくていい」ジルベールが言った。「言いたいことはわかる。貴族と聖職者が何もかも手にしている、そうだろう?」

「その通りです。それに修道院も……」

「修道院?」

「修道院も貯め込んでますよ」

周知ノ事実Notum certumque」ピトゥが呻いた。

「貴族の税率が低すぎるんです。あたしは農夫ですからね、あたしだけでシャルニー三兄弟の二倍の税金を払ってるんですよ。三人で二十万リーヴル以上の年金を受け取ってるというのにね」

「では貴族と司祭のことを自分と同じフランス人だとは思っていないのかい?」

 ピトゥが耳をそばだてた。グレーヴ広場では肘の強さで愛国心が測られているような時に、異端の響きを伝えるような質問だったからだ。

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『アンジュ・ピトゥ』 43-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十三章 革命のすべてが薔薇色ではないと気づき始めたビヨ

 ピトゥと共に至福の神酒に浸っていたビヨだったが、苦杯が満ちていたことにとうとう気づき始めた。

 川べりの冷たい空気に触れてビヨが意識を取り戻すと、ピトゥが声をかけた。

「ヴィレル=コトレにもう帰りたいです。ビヨさんはどうですか?」

 その言葉が快復の刺戟になったものか、ビヨは落ち着きを取り戻して我に返り、人を掻き分け殺戮現場から立ち去るだけの力を甦らせた。

「そうだな。おまえさんの言う通りだ」

 ビヨはジルベールに会いに行くことにした。ジルベールが住んでいたのはヴェルサイユだったが、国王のパリ訪問の日から王妃の許には戻らずに、復職したネッケルの右腕となり、万人の歴史物語のために自分の人生の物語を捨て、貧困を分かち合って好況の礎を整えようとしていた。

 いつものようにピトゥもビヨに倣った。

 二人が部屋に通されると、ジルベール医師は仕事中だった。

「先生、あたしは農場に戻ります」

「何故だい?」ジルベールがたずねた。

「パリが嫌になりました」

「わかるよ。うんざりしたんだろう」ジルベールは淡々と応じた。

「もう御免です」

「革命にはもう憧れはないんだね?」

「早く終わればいいんです」

 ジルベールが寂しそうに微笑んだ。

「革命は始まったばかりだよ」

「ああ」

「驚いてるね、ビヨ?」

「あなたが冷静だからですよ」

「何故だと思う?」

「確信があるからでしょう」

「正解だ」

「何を確信なさってるんですか?」

「当ててご覧」

「すべてが丸く収まると考えておいでで?」

 ジルベールはさらに寂しそうな笑みを見せた。

「いや、逆だよ。すべてが良からぬ結果を迎えると確信している」

 ビヨが反論の声をあげた。

 ピトゥは論理的ではない論理を耳にして目を見開いた。

「いやいや」ビヨはごつい手で耳を掻いた。「どうもよくわかりません」

「椅子に坐ってそばにおいで」

 ビヨは言われた通りにした。

「もっと近くに。君に聞かせたい話を、ほかの誰にも聞かれたくない」

「ボクもでしょうか、ジルベールさん」ピトゥがおずおずとたずね、ジルベールに言われればいつでも引き下がるつもりだと身振りで伝えた。

「いや、残り給え。若い人にも聞いて貰いたい」

『アンジュ・ピトゥ』 42-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ベルチエは市庁舎の階段を、上った時と同じ足取りで降りた。

 ベルチエが正面階段に姿を見せた途端、広場から悪鬼のような咆吼が湧き起こり、足を置いていた石段すら震わせた。

 だがベルチエは気にも留めずに平然として、怒りに燃えた眼差しを見渡すと、肩をすくめてこう言った。

「おかしな人たちだ。何を騒いでいるんだ?」

 最後まで口にすることは出来なかった。ベルチエはもはや暴徒のものであった。石段の上の衛兵のところにまで、幾つもの腕が突き出された。衛兵を蹴散らしたその鉄の鉤に捕えられ、足をすくわれ、小突き回された。

 抗い難い力によって引きずり出されたのは、二時間前にフーロンがたどった血塗れの道だった。

 あの街灯の上に、綱を持った男が待機していた。

 だがそれとは別にベルチエにしがみついている男がいて、狂ったようになって、暴徒に拳と罵声を浴びせていた。

「離れろ! 殺させるもんか!」

 ビヨだった。追いつめられたビヨは、狂人のような馬鹿力を得ていた。

 ビヨが叫んだ。

「覚えていないか? 俺もバスチーユにいたんだ!」

 気づいた者たちもいて、攻撃の手が緩んだ。

 今度は別の方向に向かって叫んだ。

「裁判を開くんだ! 俺が責任を持つ。逃げるようなことがあれば、代わりに俺を吊るせばいい」

 哀れなビヨ、哀れな正直者! ベルチエと共に渦に呑み込まれ、羽根や藁のように竜巻に巻き上げられてしまった。

 状態もわからず、何も見えないまま、気づけば到着していた。

 衝撃は遅れてやって来た。

 ベルチエは後ろ向きに引きずられ、担がれていたので、歩みが止まったのに気づいて振り返って目を上げてみると、頭上には絞首索が揺れていた。

 ここで思いがけぬ力を出して羽交い締めから抜け出し、国民衛兵の小銃を奪って、銃剣で暴徒たちに立ち向かった。

 だがすぐに背後から殴り倒され、袋だたきにされてしまった。

 ビヨは暴徒たちの足許に埋もれていた。

 ベルチエには苦しむ間もなかった。幾つもの傷口から、血と魂が一斉に飛び立った。

 ビヨが目にしたのはこれまでに見たどんなものよりもさらにおぞましい光景だった。男が死体の胸に手を突っ込み、湯気の立つ心臓を抜き出していた。

 男は心臓を剣の先に刺し、歓呼する暴徒が開けた道を通って、選挙人が会議をしている大会議室の机に乗せようとした。

 さしもの鉄人ビヨもこれには耐えられず、街灯のそばにある境界石(une borne)の上にひっくり返った。

 ラファイエットは自分の権威が汚されたのを目にし、指揮していた、と思っていた革命が汚されたのを目の当たりにして、剣を折って人殺しどもの頭上に放り投げた。

 ピトゥはビヨを助けに向かい、腕に抱えて歩きながら耳許に囁いた。

「ビヨさん! 起きて下さい。気が遠くなっているところなんか見られたら、仲間だと思われて殺されてしまいますよ。そんなのいけません……立派な愛国者なんですから!」

 そう言うとピトゥはビヨを川の方へ引っ張って行った。ひそひそと言葉を交わしている暴徒の目を出来るだけ避けるようにしていた。

 
 第42章終わり。第43章に続く。

『アンジュ・ピトゥ』 42-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 ラファイエットは大急ぎで意見をまとめて、眠りかけていたベルチエに声をかけた。

「準備をしていただいても構いませんか?」

 ベルチエは溜息をついて肘を起こした。

「何の準備ですか?」

「大修道院(l'Abbaye)に移っていただくという結論に至ったのです」

「大修道院に? まあいいでしょう」ベルチエ知事は選挙人たちがまごついているのを見て、事情をすっかり理解した。「そうと決まれば、どの道この道、さっさと終わらせてしまいましょう」

 怒りの声がグレーヴ広場から湧き起こった。いつまでも抑えつけられていた不満が爆発したのだ。

「まずい。いま外に出すわけにはいかない」ラファイエットが制止の声をあげた。

 バイイは勇気をふるって胸の内で決意を固め、選挙人二人と広場に降り立ち、沈黙を命じた。

 暴徒たちはバイイの言わんとしていることなど聞かずともわかっていた。罪を重ねるつもりだったから譴責など聞く耳は持たなかった。バイイが口を開いた瞬間に、大きなどよめきが生じ、声が聞こえる前に声を掻き消した。

 バイイはただの一言すら声に出すのは叶わないと悟り、市庁舎に舞い戻った。その後ろから「ベルチエを出せ! ベルチエを出せ!」という声が追いかけて来た。

 やがてその声に割り込むように別の声が聞こえて来た。いずれもウェーバー(Weber)やマイヤベーア(Meyerbeer)作品の悪魔が詠唱中に聞かせる絶唱のような声だった。「街灯に吊るせ! 街灯に吊るせ!」【※ウェーバー(Weber)、マイアベーア(Meyerbeer)。いずれも18~19世紀ドイツのオペラ作曲家。本文中で言及されているのはそれぞれ『魔弾の射手』や『悪魔のロベール』のことか?】

 バイイが戻って来るのを見て、今度はラファイエットが飛び出した。若く意気に燃えた人気者なら。つい昨日まで人気のあった老人には手に入れられなかったものでも、ワシントンとネッケルの友人になら初めの一言で手に入れられるかもしれない。

 だが人民の将軍が暴徒の中に飛び込んだのも無駄だった。正義と人道の名に懸けて訴えたのも無駄だった。舵取りらしき者たちを見つけたというよりは見つけたように見せかけて、手を握って歩みを止めるよう呼びかけたのも無駄だった。

 言葉は一つも耳に届かず、行動も心には染み込まず、涙も目には映らなかった。

 ラファイエットはじりじりと押し戻されて、市庁舎の正面階段(le perron)に膝を突き、同胞という名の虎たちに向かって懇願した。自分の国を貶めないでくれ、自分のことを貶めないでくれ、法律の力で罰を与えて貶めを授けるべき罪人たちを殉教者に祭り上げてしまうのはやめてくれ。

 懇願しているうちにラファイエットを脅す者まで現れたが、ラファイエットは屈しなかった。猛り狂った拳が突き上げられ、腕が振り上げられた。

 ラファイエットが拳に向かって突き進むと、振り上げられていた腕は下げられた。

 だがラファイエットすら恫喝されるようなら、ベルチエなどは恫喝では済むまい。

 ラファイエットはバイイ同様すごすごと市庁舎に戻った。

 選挙人たちは皆、ラファイエットが嵐を前に無力だったところを目撃していた。最後の砦が落とされたのだ。

 こうなればもう、市庁舎の衛兵にベルチエを大修道院に連れて行かせるべきだ。

 それはつまり、ベルチエを死地に送り出すということだ。

「遂に来たか」方針が明らかになるとベルチエが言った。

 ベルチエは選挙人たちに蔑みの目を向けると、バイイとラファイエットに感謝の合図をして、ビヨに手を差し出してから、衛兵に挟まれるようにして立った。

 バイイが涙の滲んだ目を逸らし、ラファイエットは怒りに溢れた目を逸らした。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

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