アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第四十五章 メデイア
読者諸兄にお伝えして来た道義的にも政治的にも恐ろしい騒乱の後には、ヴェルサイユに些かばかりの静穏が訪れた。
国王は安堵の息をついていた。パリ行きによって忍耐を強いられたブルボン家の誇りのことを考えるにつけても、人気が取り戻せたのは良しとせねばなるまい。
この間、ネッケルは作りあげた人気を徐々に落としていた。
貴族たちは逃げ出す準備か抵抗する準備を始めていた。
庶民たちは目を光らせて待ち受けていた。
この間、王妃は殻に閉じこもり、憎悪を一身に受けていることを自覚して、小さくなって身を潜めていた。それでもまだ、自分が憎しみの的であると同時に希望の光でもあることをよくわかっていた。
国王のパリ行き以来、ジルベールを見かけることはほとんどなかった。
それでも一度だけ、国王の部屋に通ずる控えの間に姿を見せたことがある。
深々とお辞儀をしたジルベールに向かって初めに口を利いたのは王妃の方だった。
「こんにちは、国王のところにいらっしゃるの?」
王妃は皮肉を効かせた笑みを浮かべてさらにたずねた。
「顧問として? それとも医師として?」
「医師として、です。本日はお約束がございました」
王妃がジルベールについて来るよううながした。
二人は国王の寝室の手前にある応接室に入った。
「嘘を仰いましたのね。先日は、パリに行っても国王には何の危険もないと仰っていましたのに」
「私が嘘を?」ジルベールが驚いた声を出した。
「そうでしょう? 陛下は狙撃されたんではなくて?」
「誰がそんなことを?」
「みんなが言ってます。とりわけ可哀相なご婦人が陛下の馬車の下に倒れるのを目撃した人たちが。誰が言ったですって? ボーヴォー氏、デスタン氏が、あなたの破れた服と穴の空いた胸飾りを見ているんです」
「陛下!」
「あなたをかすめた弾丸が陛下に死をもたらしていたかもしれないんです。その可哀相なご婦人に死をもたらしたように。結局のところ、暗殺者が殺したがっていたのは、あなたでもそのご婦人でもなかったんですから」
「犯罪行為があったとは思っておりません」ジルベールが躊躇いがちに答えた。
「結構。でもわたしはあったものと思っております」王妃はジルベールに厳しい目つきを送った。
「ともかく仮に犯罪行為があったとしても、国民(peuple)のせいではありません」
王妃がさらに厳しい目をジルベールに向けた。
「では誰のせいだと? 仰いなさい」
「王妃」とジルベールはかぶりを振った。「しばらく前から私は、国民を観察して来ました。国民が革命で誰かを殺すとしたら、その手で殺すことでしょう。国民とは、怒りに燃えた虎であり、尻尾を踏まれた獅子なのです。虎も獅子も、力をふるって獲物を屠るのに、何かの手を借りたりはしません。殺すために殺し、血を流すために流すのです。その血で牙をそめ、血に爪を浸すのが喜びなのです」
「その証拠がフーロンとベルチエですか? でもフレッセルは拳銃で撃たれたのではありませんか? 少なくともわたしはそう聞いています。でもきっと――」王妃は皮肉な笑みを見せた。「事実ではなかったのでしょうね。わたしたち王族の周りにいるのはごますりばかりですから」
今度は厳しい目を向けたのはジルベールの方だった。
「フレッセル(celui-là)を殺したのが国民だと信じてらっしゃらないのは陛下の方ではありませんか。フレッセルの死に利害のある人たちがいたはずです」
王妃は一考して答えた。
「そうですね、ありそうなことです」
「そうですか」ジルベールは一礼して、ほかにもまだ聞きたいことがあるかと王妃にたずねるような態度を見せた。
「わかりました」王妃は親しげにさえ見える素振りで、やんわりとジルベールの動きを遮った。「そうだとしても、三日前に胸のボタンで国王を救ったほど確実には、医学の力で国王を救うことはないのでしょうね」
ジルベールは再び頭を下げた。
だが王妃が動かないのを見て、ジルベールもそのままでいた。
「またお目に掛からなくてはなりませんね」王妃はすぐに動きを再開させた。
「もう私に出来ることなどありません」
「謙虚な方ですね」
「そうなりたくはないのですが」
「どうして?」
「謙虚でなければ大胆になれるからです。そうすれ私の仲間を援助し敵を害することも容易いでしょうから」
「『私の仲間』と言って『私の敵』と言わなかったのはどうして?]
「私には敵がいないからです。正確に言えば敵がいると認めたくないからです」
王妃が目を瞠った。
「つまり向こうだけが私のことを憎んでいて、私の方では誰も憎んではいないのです」
「なぜ?」
「もう誰も愛してはいないからです」
「野心家なんですね?」
「そうなりたいと思ったこともありました」
「だけど……」