アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第四十七章 フランドル聯隊
王妃にとって不幸なことに、これまでお伝えして来た事実は、どれも腕の立つ頼もしい人間であれば傷をふさげるような事故であった。持てる力を集めるだけでよかったのだから。
パリ市民が自分から兵士になり、まるで戦争をしたがっているかのようにしているのを見て、王妃は本当の戦争とは如何なるものなのかを見せてやろうと考えた。
――今まであの者たちが相手にしていたのはバスチーユの負傷兵や意地と根性のないスイス人衛兵だったのだ。王制に忠実な熟練した聯隊が如何なるものかを見せてくれよう。
――今ごろはもう、暴徒を蹴散らし、激しい内戦で血を流している聯隊も何処かにいもしよう。分けても世に知られた聯隊を呼び寄せれば、その時こそパリ市民も悟るだろう。自分たちが救われる唯一の道は、一戦を交えないことだと。
それもすべて国民議会と国王の間で起こっている拒否権を巡るいざこざが終わってからのことだ。国王は二か月にわたり、主権の切れっ端を取り戻そうと抗っていた。内閣及びミラボーと共に、フランスから王権を消滅させようと目論む共和派の勢いを削ごうと躍起になっていた。
王妃はそうした抵抗に嫌気、分けても国王が負けるのを見ることに嫌気が差していた。
国王はこの抵抗のせいですべての力と残っていた人気を失っていた。王妃は異名を頂戴していた。
誰の耳にも耳慣れぬその言葉、耳をくすぐりさえするその言葉、まだ侮蔑でこそないものの、いずれ何よりも残酷な呼び名となり、いつしか血塗られた言葉に変わってしまう洒落の利いた言葉。人呼んで「拒否権夫人」。
この呼び名は革命の歌に乗って運ばれてドイツまで届き、ドイツ人の王妃をフランスに送り込んだ者たちの家来や友人たちにやがて不安を抱かせることになる。当然のことながら、王妃が「オーストリア女」と罵られたことにも驚いていた者たちである。
この呼び名は虐殺にまみれた狂的な輪舞の日々の中で、犠牲者の末期の叫びと恐ろしい苦悶をパリにもたらすことになる。
以後マリー=アントワネットは拒否権夫人と呼ばれ、遂にはカペー未亡人と呼ばれることになる。
呼び名が変わるのはこれで三度目であった。オーストリア女と呼ばれた後は、赤字夫人と呼ばれていた。
こうした騒ぎによって友人たちに危険が迫っていると王妃は触れて回っていたが、騒ぎが収まってからようやく、市庁舎に旅券の申請が六万件あったことに気づいた。
パリやフランスの名士たちが六万人、王妃の友人や家族とは外国で再会しようと旅立っていたのだ。
王妃に衝撃を与えるに相応しい、まさしく衝撃的な出来事の好例だった。
王妃はこの瞬間から、ほかのことを考えるのはやめた。考えるのはただ、亡命について念入りに打ち合わせること、亡命するなら必要とあらば力ずくさえ厭わないこと、亡命すれば最終的には救済となるはずだということ、そして逃げおおせた暁にはフランスに残った忠臣たちが内戦を戦い、いわば革命分子に鉄槌を下すこともあり得ようということだけであった。
計画は悪くなかった。確実に成功していたであろう。だが王妃の背後では悪しき守護神が目を開いていた。
何という運命の皮肉だろう。身を尽くして人のために動いたというのに、誰一人として口をつぐんでなどくれなかった。
王妃自身が決意するよりも早く、王妃が逃げ出したがっていることはパリ中に知れ渡っていた。
広く知れ渡ってからも、自分の計画が実現不可能になったことに王妃は気づかなかった。
ところが王党派を支持するあのフランドル聯隊が、強行軍でパリに向かっていた。
これはヴェルサイユ市当局の要請によるものだった。特別警戒や宮殿警護任務や食糧配給や相次ぐ暴動のせいで疲弊していたヴェルサイユには、国民衛兵やブルジョワ民兵(les milices)とは別の軍隊が必要だったのだ。
宮殿はもう充分すぎるほど防衛の手だてを講じていた。
このフランドル聯隊は到着するとすぐに、望まれた通りに権威を纏うべく、人々の注目を浴びるような特別な歓待を受ける必要があった。
デスタン総督(L'amiral d'Estaing)はヴェルサイユに在駐している国民衛兵の全将校を集め、聯隊のとろこに赴いた。
フランドル聯隊は大砲、格納台、輸送車を引っさげ、華々しくヴェルサイユに乗り入れていた。
その現場を取り囲むようにして、何処の軍にも属さない若い貴族たちが集まって来た。