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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』 50-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 こうしてマイヤールは、たった一言でいつの間にか敵意をすっかり変えてしまっていた。

 誰もヴェルサイユに行く理由も知らなかったし、何をしに行くのかも知らなかった。

 だがようやくそれも人の知るところとなった。ヴェルサイユに行くのは、マドレーヌ・シャンブリーを先頭にした十二人の使節団が、「飢えの名に於いて」、国民に憐れみを見せてくれるよう国王に訴えに行くためだ。

 いつの間にか七千人近く集まっていた。

 女たちは河岸に沿って歩き出した。

 ところがチュイルリーまで来たところで大きな叫び声が聞こえて来た。

 マイヤールは境界石に上って自軍全体を見渡した。

「どうしたんだ?」

「チュイルリーを突っ切りましょうよ」

「無理だ」

「どうしてです?」七千の声が問うた。

「チュイルリーは国王の宮殿であり庭だからだ。国王の許しなく突っ切ることは国王に対する侮辱に当たるし、それどころか国王のお膝元で自由を侵害する行為に当たる」

「だったらスイス人衛兵に許しを貰いましょうよ」

 そこでマイヤールはスイス人衛兵に近づき、三角帽を脱いだ。

「このご婦人方にチュイルリーを通らせてもらえんかな? アーケードの下しか通らんから、庭の草木を傷める心配はない」

 スイス人衛兵は答えの代わりに長い剣を抜いてマイヤールに突きつけた。

 マイヤールも一ピエ短い剣を抜いて応戦した。すぐに女が一人、衛兵に近寄って箒の柄で頭を殴りつけ、足許に叩き伏せた。

 直ちに別の女が銃剣で腹を突き破ろうとしたのを、マイヤールが押しとどめた。

 マイヤールは剣を鞘に収めると、衛兵の剣と女の銃剣を両腕に抱えてから、立ち回りの最中に落ちた三角帽を拾って頭に乗せ、チュイルリーを横切って先へ進んだ。先ほどの言葉通りに何も傷めたりはしなかった。

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『アンジュ・ピトゥ』 50-1

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

第五十章 マイヤール司令官

 マイヤールが指揮していたのは確かに軍隊であった。

 大砲こそあるものの砲架も台車もなかったが、荷車に積めばよかった。

 銃こそあるもののそのほとんどに撃鉄も引き金も欠けていたが、銃剣なら間に合っていた。

 面倒な武器なら山ほどあったが、武器は武器であることに間違いはなかった。

 火薬はハンカチやボンネットやポケットの中に入れていた。この生きた弾薬入れの真ん中を、火のついた火縄を持った砲兵たちが闊歩していた。

 行軍中に全軍がばらばらにはじけ飛ばずに済めば奇跡というほかない。

 マイヤールは一目で自軍の状態を見抜いた。そして自分に出来ることを確認した。即ち、広場に押し込めてはおけないこと、パリに繋ぎ止めてはおけないこと、ヴェルサイユに連れてゆくこと、到着したらおこなわれかねない悪事を防ぐこと。

 困難で超人的な仕事だが、やり遂げねばなるまい。

 そこでマイヤールは地面に降り、少女の首から太鼓を預かった。

 飢えた少女にはもうはや太鼓を運ぶ力もなかった。少女は太鼓を委ね、壁を這うように進むと、境界石(une borne)に頭を落とした。

 ひどい枕だ……飢えの枕……。

 マイヤールは少女に名前をたずねた。名はマドレーヌ・シャンブリー(Madeleine Chambry)。教会のため木彫りを作っていたが、今時そうした類の木製家具や彫刻や浮き彫りといった十五世紀の遺物を教会に備え付けようとする者がいるだろうか?

 飢えて死にそうな娘はパレ=ロワイヤルで花売りになった。

 だがパンを買う金がないという時に花を買おうとする者がいるだろうか? 花とは平和と飽食の空に輝く星であり、騒乱と革命の風には萎れるしかなかった。

 木に果実を彫ることも、薔薇や茉莉花や百合を売ることも叶わぬと知ったマドレーヌ・シャンブリーは、太鼓を持って飢えの合図を打ち鳴らしていた。

 こうしてシャンブリーはヴェルサイユに向かうことになった。苦しみに耐えかねた使節団の集っているヴェルサイユに。ただし歩けないほど衰弱していたので、荷車で向かうことになった。

 ヴェルサイユに到着したら、十二人の女たちと一緒に宮殿に入れてもらえるように頼もう。そして代表者にしよう。飢えた少女が、国王の御前で飢えの原因を訴えるのだ。

 このマイヤールの考えに喝采が起こった。

『アンジュ・ピトゥ』 49-5

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 急に灰色服の男が駆け寄って、女たちの手から火種や松明をもぎ取った。女たちは抵抗したが、男は松明を振り回して、スカートに火がついている隙に、燃えている書類の火を消した。

 一万人の怒れる女たちに立ち向かった男が何だというのか?

 この男にされるがままになる理由などない。もう少しでルフェーヴル修道院長を縛り首に出来たのだ。この男を吊るす準備さえ整えば、今度こそ息の根を止めるまで吊るしてしまおう。

 こうした理屈に基づいて、殺してしまえと大合唱が起こった。そこに行動も伴った。

 女たちは灰色服の男を取り囲んで首に綱を掛けた。

 だがビヨが駆けつけた。マイヤールが修道院長のためにしたことを、ビヨがマイヤールにしに行ったのだ。

 ビヨは綱に取りつき、鋭利なナイフで何箇所か切断した。今は綱を切るのに役立ったが、ぎりぎりの瞬間になれば逞しい腕で柄をつけて別のことに役立てるだろう。

 出来る限り綱をばらばらに切り刻むと、ビヨは大声で叫んだ。

「阿呆女ども! バスチーユの英雄を知らないのか? 俺が堀の中で藻掻き回っている間に、板を渡って降伏を勧めに行った人だぞ! マイヤールさんを知らないのか?」

 よく知られ恐れられてもいたその名を聞いて、女たちも手を止めた。見つめ合って、額を拭った。

 何しろ大仕事であったので、十月だというのに汗を掻かずにはいられなかったのだ。

「バスチーユの英雄だよ! しかもマイヤールさんだってさ、シャトレの執達吏マイヤールさんだよ! マイヤール万歳!」

 殺せの合唱は称讃の言葉に変わり、マイヤールは次々と抱きしめられて、万歳の大合唱となった。

 マイヤールはビヨと握手を交わし目を合わせた。

 その手は「同胞よ!」と言葉を交わしていた。

 その目は「助けが必要なときはいつでも当てにしてくれ」と言っていた。

 マイヤールの影響力はますます大きくなっていた。マイヤールが女たちを咎めないとわかっていただけにいっそう評価は高まった。

 だがマイヤールは老練な水夫であった。群衆という海原が風の一吹きで波を起こし言葉の一言で凪ぐことを知り抜いていた。

 群衆に向かって口を利かせてもらえる場面でどう話しかければ良いかを心得ていた。

 しかも話をするには絶好の機会だった。マイヤールの周りで誰もが耳を澄ましている。

 マイヤールはパリ市民たちに自分たちの市を壊して欲しくはなかった。市民自身を守る唯一の権力なのだから。戸籍を消失させて欲しくなかった。市民自身の子らが庶子ではないと証明するものなのだから。

 非凡で声高く諧謔に富んだマイヤールの言葉は効果覿面だった。

 これで誰も殺されることはないし、何も燃やされることはないはずだ。

 だがヴェルサイユ行きだけは譲れなかった。

 ヴェルサイユこそは悪であり、パリが飢えているというのに幾夜となく浮かれ騒いでいる場所であった。すべてを貪っているのがヴェルサイユであった。パリに小麦も小麦粉も足りないのは、小麦粉がパリを経由せず真っ直ぐコルベイユからヴェルサイユに届けられているからだ。

 もし「パン屋」と「パン屋の女将」と「見習い小僧」がパリにいればこんなことにはならなかったであろう。

 これは国民のパンを本来配るはずの国王と王妃と王太子につけられたあだ名である。

 女たちはヴェルサイユを目指すに違いない。

 何しろ女たちはもはや軍隊になっており、銃も大砲も火薬も手にしていたし、銃も火薬もない者は槍や熊手を手にしていた。後は足りないのは司令官であった。

 当然ではないか。国民衛兵には素晴らしい司令官がいる。

 ラファイエットは男たちの司令官だ。

 マイヤールが女たちの司令官になればいい。

 ラファイエット氏が指揮しているのは怠け者の擲弾兵であった。すべきことがあってもさほど行動しないのだから、予備兵のようなものだ。

 マイヤールが指揮することになるのは現役兵である。

 笑みも浮かべず眉一つ動かさずにマイヤールは快諾した。

 今やマイヤールがパリの女たちの司令官である。

 行軍は長いものにはならぬだろうが、はっきりとした結末がもたらされるであろう。

 
 
 第49章終わり。第50章に続く。

『アンジュ・ピトゥ』 49-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 議論の結果は以下の通りである。

「無駄な書類ばかり作って毎日のおまんまを食わせないような市庁舎なんて燃やしてしまえ」

 折りしも市庁舎では、重さを誤魔化してパンを売っていたパン屋の判決が宣告されていたところであった。

 パンが高くなればこうした誤魔化しも増える。ただし儲けが上がればそれだけ危険も大きくなる。

 その当然の帰結として街灯作業に慣れた者たちが新しい綱を持ってパン屋を待ち構えていた。

 市庁舎の衛兵はパン屋を守ろうとして、全力を尽くしていた。だが結果はご覧の通り、しばらく前から博愛主義との折り合いは悪化していた。

 女たちが衛兵に飛びかかり、こてんぱんにのしてから市庁舎に乗り込むと、掠奪が始まった。

 目についたものは手当たり次第にセーヌ川に放り投げ、運べないものは広場で燃やそうとした。

 というわけで水の中には男の山が、広場には火の壁が出来あがっていた。

 大仕事であった。

 市庁舎にはほとんどの人間が揃っていた。

 選挙人が三百人。

 助役たち。

 区長たち。

「あいつら全員を川に放り込むには大分かかるだろうね」その女には時間を気にするだけの分別があった。

「そうするだけの価値はあるだろう」

「でも時間がないね」

「まとめて焼き殺しちまえばいいんだよ。そうすれば簡単だ」

 火種が欲しくて松明を探し回っている間、時間を無駄にせず、修道院長が一人吊るされた。ルフェーブル・ドルメソン修道院長(l'abbé Lefèvre d'Ormesson)である。

 幸いなことに灰色服の男(l'homme à l'habit gris)がいたため、綱が切られ、修道院長は十七ピエの高さから落下した。修道院長は足を挫いて、女たちの哄笑の中、びっこを引き引き逃げ出した。

 何故に修道院長が安穏と逃げ出せたのかといえば、松明に火がつけられていたからであり、女たちはとっくに松明を手にしていたからであり、松明を書類に向かって近づけていたからであり、あと十分もすればすべてが炎に焼かれるはずだったからである。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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