アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
急に灰色服の男が駆け寄って、女たちの手から火種や松明をもぎ取った。女たちは抵抗したが、男は松明を振り回して、スカートに火がついている隙に、燃えている書類の火を消した。
一万人の怒れる女たちに立ち向かった男が何だというのか?
この男にされるがままになる理由などない。もう少しでルフェーヴル修道院長を縛り首に出来たのだ。この男を吊るす準備さえ整えば、今度こそ息の根を止めるまで吊るしてしまおう。
こうした理屈に基づいて、殺してしまえと大合唱が起こった。そこに行動も伴った。
女たちは灰色服の男を取り囲んで首に綱を掛けた。
だがビヨが駆けつけた。マイヤールが修道院長のためにしたことを、ビヨがマイヤールにしに行ったのだ。
ビヨは綱に取りつき、鋭利なナイフで何箇所か切断した。今は綱を切るのに役立ったが、ぎりぎりの瞬間になれば逞しい腕で柄をつけて別のことに役立てるだろう。
出来る限り綱をばらばらに切り刻むと、ビヨは大声で叫んだ。
「阿呆女ども! バスチーユの英雄を知らないのか? 俺が堀の中で藻掻き回っている間に、板を渡って降伏を勧めに行った人だぞ! マイヤールさんを知らないのか?」
よく知られ恐れられてもいたその名を聞いて、女たちも手を止めた。見つめ合って、額を拭った。
何しろ大仕事であったので、十月だというのに汗を掻かずにはいられなかったのだ。
「バスチーユの英雄だよ! しかもマイヤールさんだってさ、シャトレの執達吏マイヤールさんだよ! マイヤール万歳!」
殺せの合唱は称讃の言葉に変わり、マイヤールは次々と抱きしめられて、万歳の大合唱となった。
マイヤールはビヨと握手を交わし目を合わせた。
その手は「同胞よ!」と言葉を交わしていた。
その目は「助けが必要なときはいつでも当てにしてくれ」と言っていた。
マイヤールの影響力はますます大きくなっていた。マイヤールが女たちを咎めないとわかっていただけにいっそう評価は高まった。
だがマイヤールは老練な水夫であった。群衆という海原が風の一吹きで波を起こし言葉の一言で凪ぐことを知り抜いていた。
群衆に向かって口を利かせてもらえる場面でどう話しかければ良いかを心得ていた。
しかも話をするには絶好の機会だった。マイヤールの周りで誰もが耳を澄ましている。
マイヤールはパリ市民たちに自分たちの市を壊して欲しくはなかった。市民自身を守る唯一の権力なのだから。戸籍を消失させて欲しくなかった。市民自身の子らが庶子ではないと証明するものなのだから。
非凡で声高く諧謔に富んだマイヤールの言葉は効果覿面だった。
これで誰も殺されることはないし、何も燃やされることはないはずだ。
だがヴェルサイユ行きだけは譲れなかった。
ヴェルサイユこそは悪であり、パリが飢えているというのに幾夜となく浮かれ騒いでいる場所であった。すべてを貪っているのがヴェルサイユであった。パリに小麦も小麦粉も足りないのは、小麦粉がパリを経由せず真っ直ぐコルベイユからヴェルサイユに届けられているからだ。
もし「パン屋」と「パン屋の女将」と「見習い小僧」がパリにいればこんなことにはならなかったであろう。
これは国民のパンを本来配るはずの国王と王妃と王太子につけられたあだ名である。
女たちはヴェルサイユを目指すに違いない。
何しろ女たちはもはや軍隊になっており、銃も大砲も火薬も手にしていたし、銃も火薬もない者は槍や熊手を手にしていた。後は足りないのは司令官であった。
当然ではないか。国民衛兵には素晴らしい司令官がいる。
ラファイエットは男たちの司令官だ。
マイヤールが女たちの司令官になればいい。
ラファイエット氏が指揮しているのは怠け者の擲弾兵であった。すべきことがあってもさほど行動しないのだから、予備兵のようなものだ。
マイヤールが指揮することになるのは現役兵である。
笑みも浮かべず眉一つ動かさずにマイヤールは快諾した。
今やマイヤールがパリの女たちの司令官である。
行軍は長いものにはならぬだろうが、はっきりとした結末がもたらされるであろう。
第49章終わり。第50章に続く。