翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『アンジュ・ピトゥ』56-4

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「そんな光景を見せるつもりはないよ。ヴィレル=コトレに帰そうと思っている。今日なのが残念なくらいだ」

「残念ですって?」

「ああ」

「今日だと何が?」

「あの子がこれまで寓話だと思っていたライオンと鼠の教訓を実際に目にしたのが今日だからさ」【※イソップ物語より】

「もう少しわかりやすく言ってもらえませんか?」

「あの子は目にしたんだ――貧しい農夫がひょんなことからパリに連れられて来たのを。読み書きも出来ない真面目なだけの男を。自分の人生が良かれ悪しかれ運命を左右するとは思っても見ずに、かろうじて運命を覗き込んでいただけの男を。その男がまだ必要とされていながらある時期にはもうパリを離れたいと願っているのを。そして今日この日、国王と王妃と二人の王子を助けるため見事に貢献したのを」

 ビヨは目を見開いてジルベールを見つめた。

「そうなんですか?」

「そうじゃないのか? 初めに風音に気づいて目を覚まし、それがヴェルサイユを崩壊させる嵐の前触れだと見抜き、眠っていたラファイエットを急いで起こしに行ったじゃないか」

「おかしなことじゃないでしょうに。あの人は十二時間も馬に乗っていたんだし、二十四時間も寝てなかったんだ」

「ラファイエットを宮殿に連れて来て、人殺したちのど真ん中に放り込み、『馬鹿野郎、退がれ、この人が仇を討ってくれるんだぞ!』と声を張り上げていたじゃないか」

「それはそうですがね。全部あたしがやったことです」

「平仄が合うように出来ているんだよ。ラファイエットが殺されるのを防いでいなかったとしても、きっと国王や王妃や王子二人が殺されるのを防いでいたに違いない。恩知らずめ、祖国から返礼を受けようと時に祖国の務めを捨てるつもりなのか?」

「あたしのやったことに誰が気づいてくれるんです? あたし本人にだって信じられないのに」

「君と僕だよ。それでは不充分かい?」

 ビヨは少し考えてからゴツゴツした手をジルベールに差し出した。

「なるほどその通りですがね、人間ってのは弱くてわがままで気まぐれなもんです。強くて高潔で揺るぎがないのはあなたくらいのものですよ。そんな力をどうやって手に入れたんですか?」

「不幸のおかげさ」そう言ったジルベールは泣き顔ではなく、悲しみをたたえた笑みを浮かべていた。

「そういうもんですかね。不幸な境遇の人間は嫌な奴になるとばかり思ってましたが」

「弱い人間ならね」

「あたしに不幸が降りかかれば、嫌な奴になっちまいますかね?」

「不幸が待ち受けてはいるだろうが、嫌な奴にはなるまいよ」

「そうですか?」

「請け合おう」

「では」と言ってビヨは溜息をついた。

「では?」

「では、ここに残りましょう。でもまた何度も弱気になっちまいますよ」

「僕がここにいるのはそのたびに励ますためだ」

「そういうことでしたら」ビヨは溜息をついた。

 それから今一度シャルニー男爵の死体に目を向けると、使用人たち(les domestiques)が担架で運び出そうとしているところだった。

「終わったことだ(C'est égal)。ジョルジュ・ド・シャルニーは葦毛の馬に乗り、左手に籠を持ち右手に財布を持った、可愛らしい子供だったんだ」



 第56章おわり。第57章につづく。

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『アンジュ・ピトゥ』56-3

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「そうかもしれません。でもあたしは終わりですよ。小麦は腐っちまいましたし、畑は荒れたまんまです。愛する家族もいます。この子の家族の悲しみを思えば、遺体を見たせいでいっそう家族への思いが強くなりました」

「何が言いたいんだ? 同情を期待しているのかい?」

「まさか」ビヨは底意なく答えた。「ただね、苦しんでるから愚痴も出るし、愚痴ったところでどうにもならないからあたしなりのやり方で楽になろうと思ってるんです」

「つまり……?」

「つまり農民に戻りたいんです」

「また?」

「ねえジルベールさん、向こうからあたしを呼ぶ声がするんですよ」

「ビヨ、そいつは敵前逃亡をそそのかす声だぞ」

「敵前逃亡も何も、あたしは軍人じゃありません」

「君がやろうとしていることは、軍人とは違った意味で敵前逃亡の罪に当たらないのか?」

「どういうことですかね?」

「パリに来たのは破壊のためなのに、いざ建物が崩壊したら逃げ出そうとしてるじゃないか?」

「仲間を下敷きにしたくありませんから」

「案外、自分が下敷きになりたくないんじゃないのか」

「自分の身を案じちゃいけないって法もないでしょうに」

「賢明だね。石が転がらずとも、或いは転がった石に押し潰されることがなかろうとも、どんなに離れていようと逃げ出す臆病者がいるらしい」

「あたしは臆病者じゃありませんよ」

「だったら残り給え、ビヨ。ここには君が必要なんだ」

「あっちには家族が待ってるんで」

「ビヨ、君とは同意見だと思っていたんだがなあ。祖国を愛する人間には家族などない」

「あそこにいるのが息子さんのセバスチャンだったとしても、同じことを言えますかね?」

 ビヨはそう言って死体を指さした。

「ビヨ」ジルベールは動じなかった。「あの死体のように、いつかはセバスチャンの死体を目にする日だって来る」

「その日が来てもあなたみたいに冷静でいられたらあの子にとっちゃ災難ですね」

「僕を越えてくれるものと願っているよ。今よりもっと強くなる。しっかりと見本を見せてやるつもりだからね」

「流血に慣れさせてでもおくつもりですか。若いうちに戦火や縛り首や暴動や夜襲に慣れさせ、王妃を罵り国王を脅かすのを見慣れさせておこうってことですかね。そうしてあの子がいずれ剣のように固く冷たくなった時には、愛しもすれば尊敬もしてくれるだろうとお考えですか?」

『アンジュ・ピトゥ』56-2

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

 死体はジョルジュ・ド・シャルニー男爵のものだった。ジルベールは死体に屈み込み、畏敬を込めた目つきで凝っと見つめていた。瀕死の人間から抜けゆく生命を引き留め、死んだ人間から飛び去った魂を呼び戻そうとでもしているように。

「冷え切って強張っている。死んでいる。間違いなく死んでいる」ようやっとそう振り絞った。

 シャルニー伯爵が声を嗄らし、物言わぬ肉体を抱きしめ、胸の裂かれるような嗚咽をあげ始めた。それを聞いてジルベールの身体に震えが走り、ビヨは中庭の片隅に行って耳を塞いだ。

 やがて伯爵が死体を起こし、壁にもたせかけ、もしや息を吹き返してついて来ないかとでもいうように、振り返りながら離れた。

 ジルベールはひざまずいたまま、片手で顔を覆い、物思いに沈んで怯えたように動かなかった。

 ビヨは暗がりから離れてジルベールのところに戻った。ビヨの心を引き裂いいてた伯爵の嗚咽はもう聞こえなかった。

「ジルベールさん、これが内戦ってやつなんですね。あなたの言っていた通りだ。ただし事態はあたしやあなたが思ってたより早い展開で起こっちまった。あの糞ッたれどもと来たら、悪い奴らを殺していたかと思えば、今度はいい人たちを殺しているじゃないですか。フレッセルが殺され、ローネー氏が殺され、フーロンが殺され、ベルチエが殺されたのを見た時には、手足が震えました。どいつもこいつも(des autres)反吐が出るほど嫌になりましたよ。

「だけどあそこで殺されてる人たちは可哀相な人たちばかりです。

「とうとうジルベールさん、あなたの言った通り、善人が殺される日が来てしまいました。

「シャルニー男爵が殺されているのを見たら、震えも止まり、涙が出て来ました。嫌になったのはもう他人(des autres)のことなんかじゃありません。自分のことが怖くてしょうがない」

「ビヨ」ジルベールが遮った。

 だがビヨは耳を貸さずに話し続けた。

「ジルベールさん、こうして若い人が殺されました。兵士として戦って、殺したんじゃなく、殺されたんです」

 ビヨは内腑の奥から出て来たような溜息をついた。

「可哀相に。子供の頃から知っていました。ブルソンヌ(Boursonne)からヴィレル=コトレまで葦毛の馬に乗って、パンを母親のところから貧しい人たちのところに運んでいたんです。

「肌が白くて頬っぺたが赤くて可愛い子でしたよ。目が大きくて青く、いつも笑っていました。

「おかしいな、顔を歪めて血塗れであそこに倒れているのを目にしたのに、頭に浮かぶのは死体ではなく、笑顔を浮かべて左腕に籠を抱え右手で財布を持っている子供の頃の姿ばかりだ。

「でもジルベールさん、それでいいんです。これ以上なにも見たくありません。このままじゃあ、前に言われた通り、あなたが死ぬのを見ることになる。そしたら……」

 ジルベールはそっと首を振った。

「ビヨ、落ち着き給え。僕はまだ死なないよ」

『アンジュ・ピトゥ』56-1

第五十六章 ジョルジュ・ド・シャルニーの死

 たった今お話ししたような物語は、これまでにも様々な形で幾度となく語られて来た。なぜなら一七八九年から一七九五年にかけて流れた大いなる時代、即ちフランス革命と呼ばれた時代でもひときわ目を惹く出来事なのは間違いのないところだからだ。

 これからも幾多の形を取って語られてゆくことだろう。だが予言しておこう。この物語ほど公明正大な物語が現れることはないと。

 けれどどれだけ語られようとも物語が尽きることはない。歴史が完成されることなどないからだ。幾万の目撃者がいればそれぞれの歴史がある。幾万もの異なる場面があれば、異なっているがゆえにそれぞれに意味がありそれぞれに筆遣いがある。

 だがそうした物語のすべてが真実であろうと、それでいったいどうなるというのだろう? いったいこれまでに政治の授業で政治家が育ったことがあっただろうか?

 ではこうした悲劇や物語や王家の血が、石を穿つ水滴に等しい力を持っていたことがあっただろうか?

 否。王妃たちは涙を流した。国王たちは殺された。それでも子孫たちは、運命からもたらされたそれら残酷な教訓を一度として活用して来なかった。

 忠臣たちは献身的に身を尽くした。たとい主君たちが残酷な教訓を活用して来ずとも。

 先ほど王妃がつまずきそうになったのは、そういった男の死体であった。旅立った国王たちが転げ落ちながら歩んだ道に、血塗れのまま捨て置かれた男たちの死体であった。

 悲鳴をあげてから数時間後、王妃は国王と子供たちと共にヴェルサイユを離れていた。もう戻ることはない。そんな時、雨に濡れた中庭を刺すような秋風が乾かし始めた頃に、以下のようなことが起こっていた。

 黒服の男が死体に屈み込んでいた。

 護衛隊の軍服を着た男が反対側から死体に屈み込んでいた。

 その傍らには、手を握り締めて目を見開いて立ち尽くしている男がいた。

 死者は二十二、三の若者だった。見たところ頭と胸に受けた大きな傷口から血を流していた。

 傷だらけの胸は血の気を失い鉛色になっていたが、無駄な抵抗を嘲笑うかのようなそよ風に吹かれて、まだ動いているように見えた。

 口を半開きにして、反り返らせた顔に痛みと怒りを浮かべているところは、雄々しいローマ人の姿を見ているようだった。

『断末魔の声と共に生命は亡者の住まいに消ゆ』

 黒服の男はジルベールだった。

 ひざまずいている将校はシャルニー伯爵だ。

 立っているのはビヨだった。

『アンジュ・ピトゥ』55-6

アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む

「ではあなた」と別の衛兵に声をかけた。「こちらに。話があります」

 衛兵は言われた通りにした。それというのもその衛兵にはシャルニーのように躊躇する理由がなかった。

 ラファイエットが衛兵をバルコニーに連れ出し、自分の三色徽章を衛兵の帽子につけて抱擁した。

「ラファイエット万歳! 護衛隊万歳!」五万人の声が轟いた。

 声の中にはその低い唸りという形で去りゆく嵐の脅威をいまいちど聞かせようとするものもあった。

 だがすべて歓声に掻き消されてしまった。

「もう大丈夫だ」ラファイエットが言った。「晴れ間が戻って来た」

 それから部屋に戻り、

「ですが再び曇らぬように、していただかなくてはならないことが一つだけ残っております」

「うむ。ヴェルサイユを離れるのだな?」国王は眉間に皺を寄せた。

「パリにいらっしゃるのです」

「では国民に伝えてくれ。王妃と余と子供たちは一時にはパリに発つ」

 次に王妃に声をかけた。

「部屋に寄って支度を始めてくれ」

 この言葉を聞いて、どうやらシャルニーは忘れていた重要な出来事でも思い出したようだった。

 シャルニーが駆け出して王妃を追い抜いた。

「わたしの部屋に行ってどうするのですか?」王妃の言葉は辛辣だった。「何の用もないでしょう?」

「そうであって欲しいものです」シャルニー伯爵が答えた。「ですがご心配は無用です。本当に用がなければ、陛下のご不興をこうむるほど長くはお邪魔いたしません」

 シャルニーの後ろを歩く王妃は、床を汚している血の痕を目にして目を閉じた。手探りしてシャルニーの腕をつかむと、そのまましばらく目を閉じたままで歩いた。

 ふと、シャルニーの全身が震えていることに気づいた。

「どうしたのですか?」王妃は再び目を開けた。

 それから気づいた。

「死んでいる! 人が死んでいます」

「腕を放していただけますか。お部屋まで捜しに来たものが見つかりました。この死体は弟のジョルジュです」

 それは確かに王妃のために命を賭せと兄から命じられたあの若者の死体だった。

 命令に忠実に従ったのだ。


 
 第55章おわり 第56章につづく。

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
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