アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「そんな光景を見せるつもりはないよ。ヴィレル=コトレに帰そうと思っている。今日なのが残念なくらいだ」
「残念ですって?」
「ああ」
「今日だと何が?」
「あの子がこれまで寓話だと思っていたライオンと鼠の教訓を実際に目にしたのが今日だからさ」【※イソップ物語より】
「もう少しわかりやすく言ってもらえませんか?」
「あの子は目にしたんだ――貧しい農夫がひょんなことからパリに連れられて来たのを。読み書きも出来ない真面目なだけの男を。自分の人生が良かれ悪しかれ運命を左右するとは思っても見ずに、かろうじて運命を覗き込んでいただけの男を。その男がまだ必要とされていながらある時期にはもうパリを離れたいと願っているのを。そして今日この日、国王と王妃と二人の王子を助けるため見事に貢献したのを」
ビヨは目を見開いてジルベールを見つめた。
「そうなんですか?」
「そうじゃないのか? 初めに風音に気づいて目を覚まし、それがヴェルサイユを崩壊させる嵐の前触れだと見抜き、眠っていたラファイエットを急いで起こしに行ったじゃないか」
「おかしなことじゃないでしょうに。あの人は十二時間も馬に乗っていたんだし、二十四時間も寝てなかったんだ」
「ラファイエットを宮殿に連れて来て、人殺したちのど真ん中に放り込み、『馬鹿野郎、退がれ、この人が仇を討ってくれるんだぞ!』と声を張り上げていたじゃないか」
「それはそうですがね。全部あたしがやったことです」
「平仄が合うように出来ているんだよ。ラファイエットが殺されるのを防いでいなかったとしても、きっと国王や王妃や王子二人が殺されるのを防いでいたに違いない。恩知らずめ、祖国から返礼を受けようと時に祖国の務めを捨てるつもりなのか?」
「あたしのやったことに誰が気づいてくれるんです? あたし本人にだって信じられないのに」
「君と僕だよ。それでは不充分かい?」
ビヨは少し考えてからゴツゴツした手をジルベールに差し出した。
「なるほどその通りですがね、人間ってのは弱くてわがままで気まぐれなもんです。強くて高潔で揺るぎがないのはあなたくらいのものですよ。そんな力をどうやって手に入れたんですか?」
「不幸のおかげさ」そう言ったジルベールは泣き顔ではなく、悲しみをたたえた笑みを浮かべていた。
「そういうもんですかね。不幸な境遇の人間は嫌な奴になるとばかり思ってましたが」
「弱い人間ならね」
「あたしに不幸が降りかかれば、嫌な奴になっちまいますかね?」
「不幸が待ち受けてはいるだろうが、嫌な奴にはなるまいよ」
「そうですか?」
「請け合おう」
「では」と言ってビヨは溜息をついた。
「では?」
「では、ここに残りましょう。でもまた何度も弱気になっちまいますよ」
「僕がここにいるのはそのたびに励ますためだ」
「そういうことでしたら」ビヨは溜息をついた。
それから今一度シャルニー男爵の死体に目を向けると、使用人たち(les domestiques)が担架で運び出そうとしているところだった。
「終わったことだ(C'est égal)。ジョルジュ・ド・シャルニーは葦毛の馬に乗り、左手に籠を持ち右手に財布を持った、可愛らしい子供だったんだ」
第56章おわり。第57章につづく。