アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
「こんにちは、イジドールさん」カトリーヌの声が聞こえた。
「イジドールさんか。やっぱりそうだった」とピトゥが呟いた。
途端に人の乗った馬に踏みつぶされたような重みを心に感じた。
途端に全身に疲れを感じた。疑惑と不審と嫉妬によって一時間前から動きづめだったツケが回って来たのだ。
二人は向き合って手綱を放し、手を握り合っていた。立ったまま身体を震わせ、無言で微笑み合っていた。二頭の馬は慣れたものだったのだろう、鼻面で胴を擦り合ったり、道端の苔を脚でいじったりしていた。
「
「『今日は』だって!」ピトゥが呟いた。「それじゃまるで、ほかの日は遅れなかったみたいじゃないか」
「仕方なかったんだ、カトリーヌ」イジドールが答えた。「今朝、兄から手紙が届いたから、折り返し返事を出さなくてはならなかったんだ。でももう大丈夫、明日は遅れないよ」
カトリーヌが微笑んだのを見て、イジドールはその手をいっそう優しく握り締めた。
荊に刺されたようにピトゥの心から血が流れた。
「じゃあパリから便りが届いたばかりなの?」
「ああ」
「わたしもなの」カトリーヌが微笑んだ。「このあいだ言ってた通りね、愛し合っている二人には同じことが起こるって。これが共鳴なんでしょう?」
「うん。誰から届いたんだい?」
「ピトゥから」
「ピトゥって?」イジドールの他意のない朗らかな質問を聞いて、ピトゥは頬まで真っ赤になった。
「知ってるでしょ? ピトゥだよ。パパが農場に呼んでいた人で、いつだったかの日曜日にわたしが腕を貸していた人」
「ああ、あの膝がナプキンの結び目みたいな子か」
カトリーヌが声をあげて笑った。ピトゥは恥ずかしさのあまり死にたくなった。見れば確かに結び目のようではないか。両手を突いて起き上がってみたものの、溜息をついてすぐに腹ばいに戻った。
「ピトゥのことをあんまりからかわないで。さっきピトゥから何て言われたかわかる?」
「さあね。よければ聞かせておくれ」
「あのね、ラ・フェルテ=ミロンまでついて来るって」
「行き先でもないのに?」
「うん、だってここで待っていてくれると思っていたから。実際には待っていたのはほとんどわたしの方だったけど」
「自分がいま素晴らしい言葉を口にしたことに気づいてる?」
「そう? 気づかなかったな」
「どうしてその紳士の申し出を受けなかったんだ? きっと楽しかっただろうに」
「そうとは限らないんじゃないかな」カトリーヌは笑って答えた。
「そうだね」イジドールは愛おしげな眼差しをカトリーヌに注いだ。
そうしてカトリーヌの真っ赤な顔に両腕を回した。
ピトゥは目を閉じて見まいとしたが、聞くまいとして耳を塞ぐのを忘れていたため、ピトゥのところまで口づけの音が聞こえてきた。
グロ(Gros)の「ジャファのペスト患者を見舞うボナパルト」の前景にいるペスト患者のように、ピトゥは絶望して髪を掻き毟った。【※アントワーヌ=ジャン・グロ Antoine-Jean Gros(1771-1835)。新古典主義派の画家。「ジャファのペスト患者を見舞うボナパルト(Bonaparte visitant les pestiférés de Jaffa)」には、うつぶせになって交差させた腕で髪を鷲づかみにする男が描かれている。】
ピトゥが我に返った時には、二人はまた並足で馬を歩かせ、ゆっくりと遠ざかっていた。
最後の言葉がかろうじてピトゥの耳に届いた。
「そうね、イジドールさん、一時間くらい一緒に歩きましょう。この馬の脚ならそのくらいの時間は取り返せるもの」そう言ってカトリーヌが声をあげて笑った。「この子は喋れないしね」
そこまでだった。目の前が見えなくなり、地上に闇が降りるように心に闇が降りた。ピトゥはヒースの中を転げ回り、苦しみを隠そうともせずほとばしらせた。
やがて夜の冷気に触れて正気に戻った。
――農場には戻るまい、とピトゥは独り言ちた。戻っても恥を掻かされ愚弄されるだけだ。ほかの男を愛する女から食事を出されるだけだ。しかも相手はボクより恰好よくて金持ちでお洒落。ピスルーではなくアラモンで暮らそう――故郷のアラモンになら、ボクの膝がナプキンの結び目みたいだなんて気に留める人はいないもの。
ピトゥは長い足をさすると、アラモンに向かった。自分と兜と剣のことがとっくに噂になっているものだと疑いもせずに。幸福とまではいかずとも輝かしい運命が待ち受けているものだと疑りもせずに。
だが生憎なことに、人間の本質とはただ幸せであることのみではないのだ。
第61章おわり。第62章に続く。