アレクサンドル・デュマ『アンジュ・ピトゥ』 翻訳中 → 初めから読む。
第六十三章 陰謀家ピトゥ
人の身に起こって幸運や名誉をもたらすものは、大抵の場合、今の今まで強く望んでいたことか非道く軽蔑していたことと相場が決まっている。
この原理を歴史上の出来事や人物に当てはめてみれば、その奥底だけでなく真理も見えて来ることだろう。
我々としては個々の事例にかかずらうことなく、主人公であるアンジュ・ピトゥの物語に当てはめるに留めておこう。
さてピトゥが許してくれるならば、我々としては何歩か後戻りしてピトゥの胸の真ん中に空いた傷に話を戻そうと思う。つまり森の外れであの場面を目撃してからというもの、ピトゥはこの世のすべてに軽蔑を感じずにはいられなかった。
ピトゥが夢見ていたのは愛という名の世にも珍しい貴重な花を心に咲かせることだった。ピトゥは兜と剣を身につけ故郷に帰って来た。著名な同郷人ドムスチエ(Demoustier)が『神話に関するエミールへの手紙』の中でいみじくも書いたように、マルスとウェヌスをめあわせた誇り高き武具を身につけて来たというのに、ヴィレル=コトレにいて愛すべきにもほどがある隣人たちに囲まれていることに気づいて、落胆と悲嘆を覚えた。【※Charles-Albert Demoustier(1760-1801)。フランスの作家。『Les Lettres à Émilie sur la mythologie』は神話に材を取った諷刺に満ちた散文・韻文集。「マルスとウェヌスをめあわせた誇り高き武具」の該当箇所は不明。第一巻第27章「Mars et Vénus」には、マルスがウェヌスの気を引くため兜と剣を身につけて馬車を曳かせたが、ウェヌスが怯えて逃げたのを見て、自尊心と武器を置いて愛を詠んだ、とある。】
ピトゥは貴族に対するパリの抵抗運動の中でもかなり積極的な役割を担っていたというのに、今ではちっぽけな存在として田舎貴族を前にしていた。例えばイジドール・ド・シャルニーのような。
美男子。一目で好印象を与えるような人間。革製のキュロットと天鵞絨製の上着を身につけた貴族。
そんな相手とどう勝負しろというのか!
拍車のついた乗馬用長靴を所有し、閣下(monseigneur)と呼ばれるような兄のいる相手と。
そんな恋敵とどう太刀打ち出来ようか! 嫉妬で苦しむ胸の痛みを何倍にもする、屈辱と崇拝という二つの感情をどう共存させられようか! 自分より上か下の恋敵を好きかどうかもわからぬほどの苦しみに襲われているというのに。
だからピトゥは嫉妬というものをよくわかっていた。うぶでお人好しなピトゥには、痛くてたまらないその不治の傷にそれまで縁がなかったとしても。嫉妬とは毒性の強い草花であり、どんな悪意も芽吹かないような土地からも、不毛な土地を覆い尽くす自惚れという雑草さえも芽吹かない土地からも、種も蒔かれずに生えて来るものなのだ。
そんな荒んだ心に落ち着きを取り戻すためには深い哲学が必要だった。
もしもピトゥが哲学者だったなら、そんなつらい感情を覚えた翌日にドルレアン公の白兎(lapins)や野兎と一戦交えようと考えたり、翌々日にはあの素晴らしい演説をおこなおうと考えたりするだろうか?
ピトゥの心はぶつかると火花を散らす火打ち石のように硬いのだろうか――それとも海綿のように柔らかく抵抗するだけで、災難に遭っても涙を吸収して傷つきもせずしぼむのだろうか?
それがわかるのはまだ先のことだ。予断を下さず物語を続けるとしよう。
ピトゥは村人に受け入れられ演説も終えると、卑しい家事に身を投じたいという気持に突き動かされて、仔兎を調理し、それが成兎ではないことを残念がりつつ平らげた。
果たしてそれが成長した野兎であったなら、食べずに売っていたことだろう。
どうでもよい話ではない。野兎は大きさによって十八スーから二十四スーまでの価が付く。ピトゥにはジルベールから預かったルイ金貨がまだ何枚かあったし、アンジェリク伯母のような吝嗇家でないとはいえ、母から節制の志を受け継いでいたので、十八スーあったなら散財せずに虎の子に加えて懐を暖めていたことだろう。