翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』011-4 アレクサンドル・デュマ

「わかりました! 相手は……ジルベールです」

 ニコルの予想とは裏腹に、アンドレは表情一つ変えなかった。

「ジルベール、あのジルベール、乳母の子の?」

「そうでございます」

「そうだったの! あの子と結婚したいのね?」

「はいお嬢様」

「向こうも愛してるのね?」

 ここが正念場だ。

「いつもそう言ってくれます」

「なら結婚なさいな」アンドレは至って落ち着いていた。「何の障碍もないのじゃないかしら。お前のご両親はもういないし、ジルベールはみなしごだし。決めるのは自分たちでしょう」

「そうかもしれませんが」とニコルは口ごもった。予想と異なる展開に戸惑っている。「そのう、よいのですか……?」

「当たり前でしょう。二人ともまだ若いのが気にかかるけど」

「二人して年を取っていきますから」

「二人とも財産がないんでしょう」

「働きます」

「何をして働くの? あの人、何も出来ないじゃないの」

 この一言にいよいよニコルはかちんと来た。隠しておくのも嫌になった。

「お嬢様がジルベールを悪く言ってたと伝えても構わないんですか?」

「何を今さら! その通りに言ったまでです。あれは怠け者でしょう」

「暇さえあれば本を読んでますし、何かと言えば知識を得てばかりですよ」

「横着なだけよ」

「お嬢様に尽くしてるじゃないですか」

「何をしてくれたのかしら?」

「ようくご存じのはずです。夜食に鳥を撃つよう命じたのはお嬢様なんですから」

「わたくしが?」

「鳥を探しに何十里も歩くこともあるんですよ」

「悪いけどそんなこと気にしたこともなかったわ」

「鳥のことですか?」ニコルが鼻で笑った。

 いつもと同じ精神状態であれば、アンドレはこの冗談に笑ったであろうし、小間使いの皮肉に漲っていた悪意にも気づかなかっただろう。だがアンドレの神経は、弾き過ぎた楽器の弦のようにぶるぶると震えていた。その震えは意思や身体の動きよりも素早かった。ほんのわずかの動きも抑えるのは難しかった。現代の我々であれば、これを苛立ちと表現したであろう。言語学の成果による優れた表現である。酸っぱい果物を口に入れたりざらざらしたものに触れたりしたときに起こるあの不愉快な震えを連想されたし。

「その皮肉はどういう意味?」アンドレはようやく目を覚まし、初めのうちは怠さから衰えていた洞察力も、苛立ちと共に甦った。

「皮肉ではありません。皮肉は貴婦人のご専門ですから。あたしは田舎娘、言葉どおりの意味しかありません」

「どういうことなの? 仰いなさい!」

「お嬢様はジルベールを馬鹿にしています。あんなにお嬢様のことを考えているのに。そういうことです」

「召使いとしての義務を果たしているだけじゃありませんか。ほかには?」

「でもジルベールは召使いじゃありません。お給金を貰ってませんから」

「昔使っていた小作人の息子ね。食事も出して、部屋も与えて。代わりに何かしてくれた? 残念だけどあの人は泥棒よ。だけど何が言いたいの? どうしてそこまでして非難からかばいたいのかわからないわ」

「あら! お嬢様がジルベールを非難してるわけじゃないことくらい存じておりますよ」ニコルは棘のある笑みを見せた。

「またわからないことを言いだしたわね」

「お嬢様がわかろうとなさらないからです」

「いい加減にして頂戴。今すぐ言いたいことを説明なさい」

「あたしの言いたいことなんて、お嬢様の方がようくご存じでらっしゃいます」

「いいえ、知らないわ。見当もつかない。謎々を解く暇などなかったもの。結婚の了解を得に来たのではなかったの?」

「そうなんです。ジルベールがあたしを愛しているからといって、妬んだりしないで欲しいんです」

「ジルベールがあなたを愛してようといまいと、わたくしに何の関係があるのかしら? 本当にもうたくさんよ」

 ニコルは蹴爪を立てた若鶏のように、小さな足を蹴り上げた。溜まりに溜まった怒りがついに爆発したのだ。

「てことは、とっくに同じことをジルベールに仰ったんでしょうね」

「わたくしがジルベールに? もう勘弁して頂戴。馬鹿げてるわ」

「たった今とか今後とかはともかく、ちょっと前ならわかりません」

 アンドレが歩み寄ると、ニコルは軽蔑しきった目つきを浴びせた。

「一時間も前からふざけたことばかり繰り返してます。早く済ませなさい。いいですね」

「でも……」ニコルの気持がぐらついた。

「わたくしがジルベールと親しくしていたと?」

「ええ、そうです」

 ずっと心を占めてはいたがとても信じ難い考えが、アンドレの胸に浮かび上がった。

「まさかこの子、嫉妬してるのかしら。ちょっとごめんなさい!」笑い声がさんざめいた。「安心して、ルゲ。ジルベールのことなんて考えたこともないわ。目の色が何色なのかもわからないのだから」

 アンドレにとっては無礼というより狂気の沙汰ではあってが、すべて水に流すつもりだった。

 ニコルの思いは違った。侮辱されたと思っているのはニコルの方で、許しなど望んではいなかった。

「そうでしょうね。夜中では見ようがありませんから」

「どういうこと?」わかりかけて来たが、まだ信じられない。

「ジルベールと会うのは昨日のようにいつも夜中だったんでしょう。だったら顔の細かいところははっきりわかりませんよね」

「いいですか。今すぐに説明なさい!」アンドレの顔は青ざめていた。

「そうしろと仰るなら」じっくり行くのは止めだ。「昨夜、見たんです……」

「お待ちなさい。階下で誰か呼んでいます」

 確かに花壇から声が聞こえる。

「アンドレ! アンドレ!」

「お父様ですよ。昨晩のお客様もご一緒です」

「行って、お断わりして来て頂戴。具合が悪くて、身体も怠いので。戻って来たら、このおかしな議論を然るべく終わらせましょう」

「アンドレ!」再び男爵が声をかけた。「バルサモ殿がお前に朝の挨拶をしたいと仰っておる」

「行きなさい」アンドレは女王のように扉を指し示した。

 ニコルは指示に従った。アンドレに命じられた人間なら誰でもするように、口答えもなく、眉一つ動かさず。

 だがニコルが出てゆくと、アンドレに不思議な変化が訪れた。姿を見せまいという決意は固かったのだが、目に見えぬ超越的な力にでも触れられたものか、ニコルの開けた窓の方へと引き寄せられて行った。

 見るとバルサモはアンドレに目を据えたまま深くお辞儀をした。

 身体が震えてしまい、バランスを崩さぬよう鎧戸にしがみついた。

「おはようございます」アンドレも挨拶を返した。

 とその時、言伝を預かっていたニコルが到着し、お嬢様の気まぐれにはついていけないとばかりに大きく口を開けて呆れていた。

 途端にアンドレの身体中から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。

 バルサモはそれをじっと見つめていた。

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 10 | 2017/11 | 12
    S M T W T F S
    - - - 1 2 3 4
    5 6 7 8 9 10 11
    12 13 14 15 16 17 18
    19 20 21 22 23 24 25
    26 27 28 29 30 - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年11月 (2)
  • 2017年10月 (4)
  • 2017年09月 (5)
  • 2017年08月 (4)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH