翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』013-1「フィリップ・ド・タヴェルネ」 アレクサンドル・デュマ

 フィリップ・ド・タヴェルネ、シュヴァリエ・ド・メゾン=ルージュは、妹とはちっとも似ていなかった。とはいえ女らしい美女の兄に相応しく、男らしい美丈夫であった。事実、自信に満ちた穏やかな瞳、けちのつけようのない横顔、美しい手、女らしい足にバランスの良い体躯など、どこから見ても申し分のない騎手である。

 気高き者【自尊心の高い者】なら騒ぎ立てるような生活に苦しんでいる矜恃持ちの例に洩れず、フィリップは悲しげではあったが悲観的ではなかった。恐らくはこの悲しげな見かけのおかげで随分と優しそうに見えたものの、ひとたび悲しげな見た目を剥いでしまえばそこにいるのは、生まれながらに傲然、尊大、超然たる人物であったはずだ。権利上では富貴な者たちと暮らしているはずが、事実上は貧しい者たちと暮らす必要に迫られていたために、神に与えられた厳しく横柄で気難しい本性も和らいでいたのである。いつ何時とも、獅子のように広い心にも軽蔑が潜んでいるのだ。

 フィリップが父を抱きしめかけたところに、歓喜のあまり催眠術から醒めたアンドレがやって来て、青年の首に飛びついたことは既に述べた。

 そうしている間にもすすり泣きが聞こえてきたことから、無邪気な魂にとってこの再会がいかに大切なものだったかがわかろう。

 フィリップはアンドレの手と父の手を取り、水入らずで過ごそうと応接室に向かった。

「お疑いですね、父上。驚いているね、アンドレ」二人を両脇に座らせると、フィリップが言った。「ところがこれ以上ないほど真実なのです。あと少しすれば、王太子妃殿下がぼくらの侘住まいにいらっしゃいます」

「いかなることがあっても止めねばならんぞ!」男爵が声をあげた。「そんなことがあろうものなら、わしらは未来永劫に浮かばれん! 王太子妃殿下がフランス貴族の見本をご覧になるおつもりなら、お気の毒様じゃな。だが先も言うたが、何の間違いでこの家をお選びになったのだ?」

「それが何もかも成り行きなのです」

「成り行きですって! 聞かせて下さらない?」

「ええ、成り行きです。主は我らが救世主にして父である。それを忘れ給う者たちでさえも主を讃え給うことを思い出すような出来事でした」

 男爵は口を引き結んだ。人類や物事を審判し給う至高の存在がわざわざ自分に目を向け首を突っ込むとは思えなかったのだ。

 得意げなフィリップを見れば疑いなど湧くはずもなく、アンドレは兄の手を握り、もたらされた報せと込み上げる幸せに感謝を込めて囁いた。

「お兄様!」

「お兄様、か」男爵が繰り返した。「この出来事を喜んでいるようじゃな」

「だってお父様、フィリップがこんなに嬉しそうなのに!」

「フィリップは興奮しやすい質じゃからな。だがわしは幸か不幸かものを考える質でな」と言ってタヴェルネ男爵は応接室の家具に一瞥をくれた。「どんなことでもそこまで気楽には思えぬ」

「これから話すぼくの体験談を聞けば、すぐにお気持ちが変わりますよ」

「では聞かせてもらおうか」老人はぶつぶつと呟いた。

「ええお願い、フィリップ」アンドレも言った。

「もちろんです! 知っての通りぼくはストラスブールに駐屯していました。ご存じのようにストラスブールとは、王太子妃殿下が入国をなされた場所なんです」

「こんな侘住まいにおっては、ものを知っとるわけがなかろう?」

「それでお兄様、ストラスブールで王太子妃殿下は……?」

「ああ。ぼくらは朝から斜堤の上で待っていました。土砂降りの雨のせいで服はびしょびしょだった。王太子妃殿下が何時に到着するのか正確に知っている者は一人もいません。連隊長【駐屯長?長官major】に命じられてぼくが偵察に向かいました。一里ほど進んで道を曲がった途端、先頭の騎士たちと顔を合わせたんです。言葉を交わしていると、妃殿下が馬車から顔をお出しになり、ぼくのことを誰何しました。

「呼び止められたような気がしましたが、ぼくは一刻も早く良い報せを伝えようと、すでに駆足《ギャロップ》で走り出していました。六時間も歩哨に就いていた疲れも魔法のように消え去っていました」

「それで、王太子妃殿下は?」アンドレがたずねた。

「おまえと同じくらい若く、どんな天使にも負けぬほど美しかった」

「待っとくれんか?」男爵が躊躇いがちにさえぎった。

「何ですか?」

「王太子妃殿下は、知り合いの誰かに似てらっしゃらんか?」

「ぼくの知っている人ですか?」

「うむ」

「妃殿下に似ている者などいるはずがありませんよ」青年は熱っぽく答えた。

「考えてみてくれ」

 フィリップは考えた。

「心当たりはありません」

「そのな……例えばニコルはどうじゃ?」

「ニコル? 驚いたな! 確かに共通するところもありますね。でも遙かに及びませんよ! でもそんな情報をいったい何処から仕入れたんです?」

「さる魔術師からじゃよ」

「魔術師?」フィリップは驚きの声をあげた。

「うむ。お前が帰ってくることも言い当てた」

「旅の方のことですか?」アンドレが自信なげにたずねた。

「その旅人というのは、ぼくが帰って来た時に一緒にいた人ですか? ぼくが近づくと目立たぬように立ち去りましたが」

「その通りじゃ。だが話を続けてくれ、フィリップ。最後までな」

「おもてなしの用意をした方が良くはありません?」

 と言ったアンドレを、男爵が手で止めた。

「用意をすれば一層間抜けに見えるだけじゃ。続けてくれ、フィリップ」

「そうしましょう。というわけでぼくはストラスブールに戻り、報せを伝えたところ、報せを受けたド・スタンヴィル司令官(le gouverneur)がすぐに駆けつけました。報せを聞いた司令官が斜堤に到着した頃、太鼓が鳴り響き、行列が見え始めたのでぼくらはケールの城門まで駆け出したんです。隣には司令官がいました」

「ド・スタンヴィル殿。待ってくれぬか、確か聞き覚えが……」

「大臣ド・ショワズール殿の義理のご兄弟に当たります」

「そうじゃった。続けてくれ」

「妃殿下はお若いため、恐らく若い者の方が気安かったのでしょう。司令官の言葉を聞き流して、ぼくに目をお留めになったのです。畏れ多くて前には出られませんでした。

『迎えに来てくれた方じゃありません?』妃殿下がぼくを見てたずねました。

『さようでございます』とスタンヴィル殿が答えました。

『これへ』

 ぼくはお側に進み出ました。

『お名前は?』妃殿下はきれいな声をしていました。

『シュヴァリエ・タヴェルネ=メゾン=ルージュ』ぼくの声は震えていました。

『書きつけておいてちょうだい』と妃殿下が老婆に告げました。後で知りましたが、それは養育係のランゲルスハウゼン(Langershausen)伯爵夫人で、言葉どおりにぼくの名前を手帳に書きつけたのです。

 それからぼくの方を見て、

『こんなひどい天気ですのに! わたしのためにそんなひどい目に遭ったのかと思うと、ほんとうに心苦しいことです』」

「何て素敵な方なのかしら! それに何て素晴らしいお言葉!」アンドレが手を合わせて声をあげた。

「ぼくもお言葉の一つ一つを覚えている」フィリップは感に堪えぬようであった。「その言葉を紡ぎ出すお顔も、何もかも全部だ!」

「素晴らしいことじゃ!」男爵は呟いて、何とも言えぬ笑みを浮かべた。そこに浮かんでいたのは父親としての誇らしさと同時に、女性はもちろん王妃に対してすら抱いている偏見であった。「では続けてくれ」

「お兄様は何と答えたの?」

「何も言わなかった。地面に頭をこすりつけていると、妃殿下が通り過ぎたんだ」

「何だと! 何も言わなかったじゃと?」

「声が出なかったのです。どんな力も胸から出てきてくれず、胸は激しく鳴るばかりでした」

「わしがお前くらいの歳にレクザンスカ皇太子妃に紹介されて、言うことが何もないなぞあるまいに!」

「父上は聡明な方ですから」と答えてフィリップは頭を垂れた。

 アンドレがぎゅっと兄の手を握った。

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