翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』013-2「フィリップ・ド・タヴェルネ」 アレクサンドル・デュマ

「妃殿下が行ってしまわれたので、ぼくは営舎に戻って着替えをしました。確かに同情を寄せられるほどびしょ濡れで泥まみれでしたから」

「ひどい」アンドレが呟いた。

「その間、妃殿下は町の庁舎を訪れ、住民たちから祝福を述べられていました。祝辞も尽きたころ、食事の用意が出来たと報せがあり、妃殿下はテーブルにお着きになりました。

「友人の連隊長が、これが妃殿下をお迎えにあがるよう指示した者なのですが、王太子妃が辺りを見回し、晩餐に呼ばれた将校たちの列を探していると教えてくれたんです。

『見つかりません』何度か探すのを繰り返した後、殿下が仰いました。『今朝わたしを迎えに来てくれた若い将校が見つかりませんね。感謝を述べたいと伝えてくれなかったのかしら?』

 長官が進み出ました。

『妃殿下、タヴェルネ中尉(lieutenant)はやむなく戻って着替えをしております。そのうち妃殿下の御前に相応しい恰好で現れるはずでございます』

「ぼくが戻ったのはその直後でした。

「ものの五分と経たないうちに、妃殿下がぼくに目を留められました。

「側に来るよう合図を受け、ぼくはお側に近寄りました。

『中尉殿、わたしと一緒にパリに来るのはお嫌ですか?』

『とんでもありません! それどころか最高の幸せにございます。ですが本官はストラスブール駐屯地で兵役に就いております。それに……』

『それに……?』

『つまり、本官の望みは個人的なものに過ぎません』

『責任者はどなた?』

『軍司令官でございます』

『わかりました。上手く話してみましょう』

 退がるように合図され、ぼくは退出しました。

 その晩、妃殿下が司令官に近づいて行きました。

『閣下、わたし、叶えて欲しいわがままが一つあるんですの』

『仰って下さい。殿下のわがままとあらば本官にとっては命令でございますからな』

『叶えて欲しいわがままといいますか、むしろ、実行して欲しいお願いですの』

『これほど光栄なことはありませんな……どうぞ、殿下』

『よかった! 連れて行こうと思ってた人がいたんです。わたしがフランスの土を踏んでから初めて会ったフランス人の方ならどなたでも構いません。その方とそのご家族を幸せにしてあげたいの。もっとも、君主に人を幸せにする力があれば、ですけど』

『君主は地上における神の代理人でございます。初めて殿下にお目見えする光栄に預かったのは、何者にござりましょう?』

『タヴェルネ=メゾン=ルージュ殿。わたしの来たことを知らせた若い中尉です』

『それはうらやましい。ですがその幸運を邪魔だてするつもりはございません。中尉は命令によって留まっておりますが、その命令は取り消しましょう。誓いによって縛られておりますが、その誓いも破棄いたしましょう。中尉は妃殿下と共に出立できますぞ』

「その言葉通り、妃殿下の馬車がストラスブールを発つその日、ぼくは馬に乗って随行するよう命じられたのです。それ以来、ぼくは馬車の戸口に寄り添っておりました」

「ほほう!」男爵は先ほどと同じような笑みを浮かべた。「ふむ! 不思議なことだが、あり得んでもない!」

「何か、父上?」青年は無邪気にたずねた。

「いや、大丈夫。気にせんでくれ。はっはっ!」

「でもお兄様、ここまで聞いていても、どうして王太子妃殿下がタヴェルネをご訪問下さるのか、まだわたくしにはわからないわ」

「今話すよ。昨夜十一時頃、ナンシーに到着したんだ。明かりを掲げて町を通っていると、妃殿下から声を掛けられたんです。

『タヴェルネ殿、もっと供の者たちを急がせて下さい』

 ぼくは合図をして、妃殿下のご希望を伝えました。

『明日は早いうちに発ちましょう』さらに妃殿下が仰います。

『遠くまで馬車を走らせるおつもりですか?』

『そうではありませんが、途中で寄りたいところがあるのです』

 それを耳にした途端、予感のようなものが心臓を震わせました。

『途中で、でございますか?』

『ええ』

 ぼくは無言のままでした。

『何処に寄りたいのかおわかりになりません?』と妃殿下は微笑まれました。

『はい、殿下』

『わたしはタヴェルネに寄ろうと思っておりますの』

『何故そのようなことを?』ぼくは叫んでしまいました。

『お父君と妹君にお目に掛かりたいのです』

『父と妹のことを!……何故、殿下はご存じなのです……?』

『人から聞きました。わたしたちが通って来た道から二百パッススのところにお住まいがあるそうではありませんか。追ってタヴェルネに寄るよう指示して下さい』

 汗が額に浮かび、ぼくは慌てて妃殿下に辯じました。震えていたのは言うまでもありません。

『殿下、父上の邸は、とても殿下のような方をお迎えできるような場所ではございません』

『どうしてです?』

『わたくしどもは貧しいのでございます』

『もてなしてくれるのなら、真心と最低限のもののほかは何も要りません。タヴェルネが貧しいというのであれば、わたしがオーストリア大公女・フランス王太子妃であることは束の間忘れて、一人の友人としてコップ一杯のミルクを振る舞って下されば充分です』

『殿下!』ぼくは面を伏せて答えました。

 それだけです。畏れ多くてそれ以上のことは言えませんでした。

 予定を忘れてはくれまいか、路上の冷気と共にこの思いつきも霧散してはくれまいかと願っていましたが、そんなことは起こりませんでした。ポン・タ・ムソンの宿駅で、タヴェルネは近いかと妃殿下にたずねられ、ぼくは渋々、後三里だけだと答えました」

「愚か者奴が!」男爵が吠えた。

「その通りです! 妃殿下はぼくの悩みなどお見通しのようでした。『案じることはありません。長々と厄介をかけたりはしませんから。でもわたしが辛い目に遭うと脅かすのなら、それで貸し借りなしじゃありませんの? だってストラスブールで迎えに来て下さった時は、あなたを辛い目に遭わせてしまったんですから』このようなありがたいお言葉に、どう抗えと? 教えて下さい、父上!」

「抗えるものですか」アンドレが言った。「お話を聞く限りでは、妃殿下ならきっと花やミルクにもお言葉通り満足して下さるわ」

「うむ。じゃが背中の痛い椅子や目に障る壁には満足して下さらんじゃろう。困った思いつきだわい! これからのフランスは、こうやって女の気まぐれで動いてゆくらしいの。まったくひどい! これがおかしな治世の始まりじゃな!」

「父上! ぼくらに名誉を賜る妃殿下のことも同じように思われるのですか?」

「むしろ名誉を損じはせぬか! 今タヴェルネのことを考えておる者が一人でもおるか? 一人もおらん。家名はメゾン=ルージュの瓦礫に埋もれて眠っておるが、返り咲く暁には然るべき手段でと思っておったし、いずれその時が来るものと思っておった。ところが今や生憎なことに、一人の娘っ子の思いつきのせいで、再興の運びもくすんで汚れてみすぼらしく惨めなものになるじゃろうと思えて来た。話の種を求めて餌にありつこうと、今や新聞がこぞって妃殿下のタヴェルネ来訪をくだらん記事にしようとしておるわい。糞ッ! 手はあるぞ!」

 父の言葉の激しさに、若い二人は震え上がった。

「聞かせてもらえますか?」フィリップがたずねた。

「つまりな」と男爵はもごもごと口を動かした。「自分のことならよくわかっておる。メディナの伯爵(comte de Médina)が王妃を抱くため邸宅に火を付けたように、わしも妃殿下の来訪を阻止するためにこのあばら屋を燃やせばいいんじゃ。どうぞ来てもらうがいい」

 最後の言葉を聞いて、二人は不安げに顔を見合わせた。

「どうぞ来てもらうがいい」男爵は繰り返した。

「間もなくいらっしゃいますとも」フィリップも言い返した。「ピエールフィットの森から近道を取ってご一行に幾らかは先んじましたが、もうそれほど遠くはないでしょう」

「では急がねばなるまい」

 そう言って二十歳の若者のようにはしこく応接室を出て台所に駆けつけると、竈から燃えている燠を抜き取り、干し藁と飼い葉と豆の詰まった納屋に駆けつけた。男爵が飼い葉の山に近づいたとき、バルサモが音もなく背後から現れてその腕をつかんだ。

「いったい何をなさるおつもりです?」老人の手から火種を奪い取った。「オーストリア大公女はブルボン大元帥ではありませんよ。いてもらっては不名誉だからいっそ燃やしてしまえというのとはわけが違う」

 動きを止めた老人の顔は真っ青に震えており、もはやあの笑みは浮かんでいなかった。名誉を守るため、少なくとも自分の決めたやり方を貫き、隠れもない赤貧をせめてもの貧しさに変えようとするために、気力をすべて出し尽くしてしまったのだ。

「お急ぎなさい」バルサモが続けた。「部屋着を脱いで相応しい恰好に着替える時間しかありません。フィリップスブルクで存じ上げていた頃のタヴェルネ男爵は、サン・ルイの最高受勲者でした。あれほどの勲章をつければ、どんなものでも豪華で格調高い服に早変わりしないわけがない」

「しかしですな、結局のところ、あなたにだって見せたくなかったものを王太子妃殿下は見にいらっしゃるのですぞ。わしがどれだけ惨めかを」

「落ち着くことです。丁重なおもてなしをすれば、お邸が新しいか古いか、貧しいか豊かかなど気がつきませんよ。お出迎えの用意を。貴族としての務めです。妃殿下をお慕いする人間がご来訪を阻むために城館を燃やしたりしては、大勢いる妃殿下の敵が何をするか、考えてご覧なさい。怒りの種を予め用意してやるのは止しましょう。ものには順序というものがある」

 既に一度諦めの印を見せていた男爵は、言われるままに我が子二人のもとに向かった。二人は姿の見えない父を心配してあちこちを探していた。

 バルサモはというと、取り組んでいた仕事をやり終えたかのように、音もなく立ち去った。

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