翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

「ジョゼフ・バルサモ」14-3 アレクサンドル・デュマ

「この邸を訪れることは誰も知りません。ことによれば自分でも知りませんでしたもの。わたしが引き起こしてしまう面倒ごとをここで引き起こしてしまわぬよう、自分の気持を自分にも隠していましたから。昨夜ご子息に伝えるまでは、一言も口にはしておりません。一時間前にはご子息はまだ側におりましたし、余裕は数分しかなかったはずです」

「正確にはたった十五分でございました」

「では知らせたのは妖精かしら。もしやご息女の名付け親?」王太子妃は微笑んでアンドレを見た。

「殿下」男爵は王太子妃のために椅子を引いた。「このような吉報をもたらしてくれたのは妖精ではありません。それは……」

「それは?」男爵が躊躇っているのを見て、そう繰り返した。

「それがその、魔術師なのです!」

「魔術師! どのようにして予知したのですか?」

「存じません。魔術には関わっておりませんので。どうにかこうにか殿下をおもてなし出来ますのも、つまりは魔術師のおかげでございます」

「では手を付けることはなりませんね。目の前のお食事は魔法で出したものなんですもの。それに猊下は」と黒服の貴族を振り向いた。「そのストラスブールのパテを切るのにお忙しいようですが、口に入れることはなりません。それに」と今度は養育係を振り返り、「そのキプロスのワインは我慢なさい。わたしと同じことをするのです」

 こう言い終えるや王太子妃は、球のように丸く首の細いデカンタから金器になみなみと水を注いだ。

「でもきっと」怯えるようにアンドレが口を開いた。「妃殿下は正しいのですわ」

 前夜の出来事など知りようもないフィリップは、驚きに震えながら、父と妹を代わる代わる見つめ、二人の言わんとすることを目つきから見抜こうとした。

「教義には反しますもの」王太子妃が言った。「枢機卿猊下は罪を犯すことになりませんの?」

「我ら枢機卿は、天が大食に怒りをぶつけると信じるには世間ずれしておりますし、ご馳走を振る舞ってくれる親切な魔法使いを火あぶりにするには人が良過ぎます」

「真面目な話ですぞ、猊下」男爵が言った。「誓って申し上げますが、これをすべてやったのは魔法使い、正真正銘の魔術師が、一時間前に妃殿下と伜の訪問を予言したのです」

「一時間前?」王太子妃がたずねた。

「それ以上ではありますまい」

「ではたった一時間で、このテーブルを設え、世界中に注文して果物を集め、トカイとコンスタンシアとキプロスとマラガからワインを送らせたというのですか? ではその魔術師よりあなたの方がよほど魔術師ではありませんの?」

「とんでもない。やったのはあの方、これもあの方ですわ」

「まさか! これもその方が?」

「これをご覧下され。このように用意万端整ったテーブルを地面から取り出す芸当など、ほかの誰にも出来ません」

「間違いありませんね?」

「誓って本当のことでございます」

「馬鹿な!」小皿をさげた枢機卿の声には紛れもない真剣味が備わっていた。「ご冗談でしょうな」

「猊下、滅相もございません」

「お宅にいるのは魔術師、それも本物の魔術師だと?」

「本物かどうかですと! この金製の食器を造ったのがあの方であっても驚きもしませんな」

「賢者の石か!」枢機卿の目が貪婪なまでに輝いた。

「まあ! さすが一生を石に捧げた枢機卿殿ね」

「実を申しますと、神秘的なことほど面白いことはありませんし、不可能なことほど興味を駆られることはないのですよ」

「では痛いところを突いたということ? 歴史上の偉人たちは謎を抱えていますものね。特に外交に長けている人は。実は枢機卿殿、わたしも魔法が使えますの。不可能なことや神秘的なことは叶わずとも……信じられないことくらいは当てられることもあるのですから」

 恐らくは枢機卿にだけはわかる謎かけであったのだろう、目に見えて狼狽を表わした。なるほど確かに、話をしているうち、穏やかな王太子妃の目にも、内なる嵐が呼んだ稲妻によって火がついていた。

 だがどうやらそれは稲光のみに終わり、雷鳴は轟かず、王太子妃は穏やかに先を続けた。

「それではタヴェルネ殿、宴を申し分ないものにするためにも、魔術師をご紹介下さい。どちらにおいでですの? どんな箱に仕舞っておしまいに?」

「殿下、むしろ箱に仕舞われたのは、わしと邸の方です」

「気を持たせますのね。ますますお会いしたくなりました」

 マリ=アントワネットの口振りからは感じの良さが消えてはいなかったが、とはいえ有無を言わせぬものがあった。王太子妃に給仕しようと息子と娘を従え立ったままだった男爵は、すっかり飲み込みラ・ブリに合図した。ラ・ブリは給仕もせずに著名な賓客に見とれており、この眼福を溜まりに溜まった二十年分の給金代わりにでもしているようだった。

 ラ・ブリが顔を上げた。

「ジョゼフ・バルサモ男爵をお呼びしてくれ」男爵が命じた。「王太子妃殿下がご会見を望んでいらっしゃる」

 ラ・ブリが立ち去った。

「ジョゼフ・バルサモ! 随分と変わったお名前ね?」

「ジョゼフ・バルサモ!」枢機卿も茫然として繰り返した。「確か聞き覚えがある」

 間を埋める者もないままに五分が過ぎた。

 不意にアンドレがおののいた。葉陰を歩む足音に、誰よりも早く気づいたのだ。

 枝が押し広げられ、ジョゼフ・バルサモがマリ=アントワネットの真正面に現れた。

 

**14章おしまい。**

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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