翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』17-1 「ニコルの二十五ルイ」 アレクサンドル・デュマ

第十七章 ニコルの二十五ルイ

 その頃、部屋に戻ったアンドレは、旅立ちの準備を急いでいた。ニコルにしても、今朝のできごと以来湧き起こっていた暗雲を吹き払い、懸命に手伝っていた。

 それをアンドレは横見して、許す許さぬもないとわかって莞爾《にこり》とした

「悪い子じゃないもの」と呟いた。「献身的で、義理堅くて。この世の生き物に欠点は付きもの。忘れましょう!」

 一方ニコルも、主人の顔色を見逃すような娘ではない。麗しく柔き主人の顔に、好ましげな表情《いろ》が大きくよぎったのに気づいていた。

 ――あたし馬鹿だった。ジルベールなんかのことで、お嬢様と仲違いするところだった。夢の都パリに連れて行ってくれるってのに。

 急な傾斜をあっちこっちと転げ回る二つの愛情が、出会うはもちろん、出会ったうえにぶつからぬ方がどうかしている。

 初めに口を開いたのはアンドレだった。

「レースを板紙の箱に入れてもらえる」

「どの箱でございますか?」

「知らないわ! なかったかしら?」

「ああ、お嬢様がくだすったんです。あたしの部屋に置いてあります」

 と、ニコルが箱を探しに駆け出したのは、アンドレに何もかも忘れて貰おうという思惑があったからにほかならない。

「でもその箱はあなたのだわ」戻ってきたニコルを見てアンドレは言った。「必要なら持っていてもいいのよ」

「あたしなんかよりお嬢様の方が必要なんじゃありませんか。それに何だかんだ言ってもお嬢様のもので……」

「これから新しい家庭を築こうという時には、家具が足りないものよ。だからそれはあなたのもの。今のあなたにはわたくしよりも必要なんですから」

 ニコルの顔が赤らんだ。

「婚礼衣装を仕舞う箱が要るでしょう」

「お嬢様!」ニコルはさも可笑しそうに首を横に振った。「あたしの婚礼衣装なんていくらでも仕舞えるし、そんなに場所も取りません」

「あらどうして? 結婚するのなら、幸せになりたいでしょう。それに裕福に」

「裕福にですか?」

「ええ。それなりに、ということだけれど」

「徴税人でも見つけてくれるおつもりですか?」

「まさか。そうではなく、持参金をつけてあげようと思うの」

「本当ですか?」

「お財布の中身は知っているでしょう?」

「はい、二十五ルイございます」

「そう! それはあなたのものよ、ニコル」

「二十五ルイがですか! でもそんな大金を!」ニコルが歓喜の声をあげた。

「心からそう言ってくれるのなら嬉しいわ」

「あたしに二十五ルイくださるのですか?」

「ええそうよ」

 ニコルは息を呑み、遂に感極まって涙を流し、アンドレの手に口づけを注いだ。

「旦那さんも喜んでくれるわよね?」とタヴェルネ嬢が言った。

「ええ、きっと喜んでくれます。あたしはそう思ってます」

 と言ってニコルは考えに耽った。ジルベールに拒絶されるとしたら貧しさへの不安からであろうが、今やニコルは金持ちであり、野心に燃える若者には理想的に思えるのではないだろうか。このお金の一部を今すぐにでもジルベールにあげよう。出来ることならお礼代わりに側にいてもらいたいし、落ちぶれるようなことにはなってもらいたくもない。ニコルの思いつきには随分と気前のいいところがあった。だが意地の悪い解釈をするならば、この気前よさの裏側には高慢の小さな種、侮辱した者に仕返ししたいという無意識の願望があるのは明らかであった。

 だが懐疑的な方にお答えしようとして、先を急ぎすぎた。今のニコルは――これは断言できるのだが――良心の方が悪意よりも遙かに上回っていた。

 アンドレはそんなニコルを見つめて溜息をついた。

「無邪気な子! 幸せになってほしいけれど」

 ニコルはこの言葉を耳にして身震いした。漠然とではあったが、絹とダイヤとレースと愛のエルドラドを、確信させる言葉だった。静かな生活こそが幸福なアンドレにとっては、考えたことさえないことばかりである。

 だがやがてニコルは地平線にたなびく赤銅色の雲から目をそらした。

 躊躇っている。

「でもお嬢様。あたしきっと幸せになります。ささやかな幸せですけど!」

「よく考えて」

「ええ、よく考えます」

「慌てないでね。あなたなりに幸せになるのはいいけれど、馬鹿な真似はしないことよ」

「わかってます、お嬢様。この際だから申しますけど、あたし馬鹿で屑同然のことしてしまって。でもお許し下さい、恋してる時って……」

「じゃあジルベールのこと、本当に愛しているのね?」

「はい、お嬢様。あたし……あたし、愛してました」

「本当なのね!」とアンドレは微笑みを浮かべた。「どんなところを好きになったのかしら? 今度会った時には、心震わすジルベールをよく見ておかなくては駄目ね」

 ニコルは疑念を拭い切れぬままアンドレを見つめた。こんなふうに話してはいるけれど、完全な見せかけ、或いは無邪気を装っているのではないだろうか?

 ――恐らくアンドレはジルベールを意識したことはないだろう。ニコルはそう独り言ちた。でも、と再び考え直す。ジルベールがアンドレを意識していたのは確かだ。

 思いつきを実行に移す前にあらゆる点をきちんと確かめておきたかった。

「ジルベールは一緒にパリには行かないんですか?」

「何のために?」

「でも……」

「ジルベールは召使いじゃないわ。パリの家を切り盛りすることも出来そうにないし。タヴェルネにいる遊民はね、庭木の枝や並木道の生垣でさえずる鳥のようなものよ。土地は貧しくとも食べていけるわ。でもパリではお金がかかりすぎる。遊民一人を好きにさせておく余裕なんてないの」

「でもあたしと結婚したら……」ニコルは口ごもった。

「ああ! 結婚した暁には、二人してタヴェルネで暮らすといいわ」アンドレの言葉は揺るぎなかった。「母があんなに愛していた家ですもの、しっかり番をしておいて頂戴」

 これにはニコルも仰天した。アンドレの言葉には些かなりとも含むところはなかった。ジルベールに対して下心も未練もないのだ。前夜、恩寵を賜っていたのとは別の人間に入れ替わっていた。わけがわからない。

「きっと貴族のお嬢様方はみんなそうなるんでしょうね」とニコルが言った。「だからなんですね、アノンシアード修道院のお嬢様方が、ずいぶん辛い時でも少しも苦しそうじゃなかったのは!」

 どうやらニコルが躊躇っているのはわかった。華やかなパリの栄華と穏やかなタヴェルネの落魄に板挟みされて、どうやら心が宙ぶらりんになっていることもわかった。その証拠に、柔らかな声にも硬いところがある。

「ニコル、あなたがこれから決めることは、一生を決めることになるんですから、よく考えて。まだ考える時間はあるのよ。一時間では足りないかもしれないけれど、結論は出してくれるものと信じてます。召使いか夫か、わたくしかジルベールか。既婚者に世話を頼むつもりはありません。家庭の秘密など聞きたくはありませんから」

「一時間ですか、お嬢様! たった一時間!」

「一時間です」

「わかりました。そうですね、いくらあっても足りないんだからどうせ同じです」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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