翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』17-2 アレクサンドル・デュマ

「じゃあ服をまとめて頂戴。お母様の服も忘れないで。聖遺物のように大事にしてるのはわかってるでしょう。その後で決意を聞かせて頂戴。どちらの答えを選んだとしても、二十五ルイはあなたのものです。結婚を選ぶのなら持参金。わたくしを選ぶのなら、給金二年分」

 ニコルはアンドレの手から財布を受け取り、口づけした。

 与えられた時間を一秒たりとも無駄にする気はなかったのだろう。ニコルは部屋を飛び出すと、大急ぎで階段を駆け降り、中庭を横切って並木道に姿を消した。

 アンドレはぽつりと呟きそれを見送った。

「可哀相な子、幸せに飢えていたのね!」

 愛とはかほどに甘いのだろうか? 五分後、なおも時間を惜しんで、ニコルは一階にあるジルベールの部屋の窓を叩いた。もったいなくもアンドレからは遊民の称号を、男爵からは怠け者の称号を賜った男である。

 ジルベールは並木道に面したこの窓に背を向け、部屋の奥で何やらせわしなくしていた。

 ニコルの訪いを耳にして、現場を押さえられた盗っ人の如くびくりと作業を止めると、ばね仕掛けも斯くやとばかりの勢いで振り向いた。

「ああ、何だ、ニコルかい?」

「ええ、またあたし」とニコルは窓越しに、思い詰めたような微笑みを浮かべていた。

「うん、入って」そう言ってジルベールは窓を開けた。

 出だしはまずまずだと感じながら、ニコルは手を伸ばした。ジルベールがそれを取った。

 ――ここまではいい感じ。さよなら、パリ!

 なかなか上出来なことに、ニコルはこう考えた時も溜息一つをついただけであった。

「ねえジルベール」と娘は桟に肘を突いて切り出した。「みんなタヴェルネからいなくなっちゃうの、知ってるでしょ」

「うん、知ってるよ」

「行き先は?」

「パリだろう」

「あたしが行くことも知ってた?」

「いや、初めて知ったよ」

「それで?」

「それで? おめでとう。よかったじゃないか」

「何て言ったの?」

「よかったじゃないか、って。難しいことを言ったつもりはなかったよ」

「よかったけど……場合によるの」

「君の方は何が言いたいんだい?」

「いいかどうかはあなた次第ってこと」

「わからないな」ジルベールがニコルの腕に膝をくっつけるように窓枠に腰掛けたため、二人とも話を続けやすくなった。昼顔と金蓮花の蔓が頭の上まで絡みついて、ちょっとした隠れ蓑になる。

 ニコルが愛おしげにジルベールを見つめた。

 ところがジルベールは首と肩をすくめ、話どころかその目つきもよくわからないねと言いたげな素振り。

「あのね……大事な話があるの。聞いてくれる?」ニコルが再び口を開いた。

「聞いてるよ」とジルベールは素っ気ない。

「お嬢様からパリにお供するよう言われたの」

「よかったね」

「もし……」

「もし?……」

「もし、結婚してここで暮らすんじゃなければ」

「君はまだ結婚するつもりでいるのか?」ジルベールはことともしない。

「ええそうよ、何しろお金があるんだから」

「お金があるって?」ニコルの期待を裏切るような落ち着きようだった。

「ええとっても」

「嘘じゃないね?」

「ええ」

「どんな奇跡が起こったんだい?」

「お嬢様からいただいたの」

「すごいじゃないか。おめでとう、ニコル」

「ほら」と掌に二十五ルイを滑らせた。

 そうしておいて、ジルベールの目に歓喜の色やせめて貪婪な光がないかと見つめていた。

 ジルベールは眉一つ動かさない。

「凄いや! 大金じゃないか」

「まだあるんだから。男爵様もお金持ちになるの。メゾン=ルージュも再建され、タヴェルネも修復してもらえる」

「きっとそうだろうね」

「そうなったら城館の管理がいるでしょう」

「そうだろうね」

「そうなの! お嬢様はそれをあたしに……」

「管理人でそのうえニコルの旦那さまか」耳ざといニコルがひるみもしないので、今度は皮肉を隠しもしなかった。

 それでもニコルは我慢した。

「ニコルの旦那さま、ね。誰のことだかわかってるでしょ?」

「何が言いたい?」

「あら、頭が悪くなったの? それともあたしのフランス語のせい?」いい加減お芝居には嫌気が差して、ニコルは声を荒げた。

「ちゃんとわかってるさ。僕に夫になれというんだろう、ルゲさん?」

「ええそう、ジルベールさん」

「お金が出来たからなんだね」とジルベールは急いでつけ加えた。「いまだにそんなこと思ってるのは。そりゃあ、ありがたいとは思ってるよ」

「ほんとう?」

「まあね」

「だったらほらどうぞ」躊躇いはなかった。

「僕に?」

「貰ってくれるでしょ?」

「断る」

 ニコルは飛び上がった。

「わかった。ひどい心をしてるよね。それとも頭だった? いいこと、そんなことしても不幸になるだけだよ。あたしがまだあんたのこと好きで、誇らしさや誠実さとは別の気持で今みたいなことしたんだと思ってみてよ。傷つくじゃない。でもよかった! お金が出来た途端にニコルはジルベールを見下したとか、ひどいこと言って苦しめたとか、言われたくはなかったもの。ジルベール、あたしたちもう何もかも終わったの」

 ジルベールの反応は冷やかだった。

「あなたのことどう思ってるか、わかってるでしょ。あたし決めてたんだよ。わかってるでしょ、あなたと同じくらい自由でわがままなあたしが、ここに骨を埋めようと決意してたんだから。パリが待ってるのに! 晴れの舞台が待ってるのに! わかる? 一日中、一年中、一生の間、穏やかな顔を変えもせずに、嫌な気持は仕舞っておこうと決めていたんだから! 尽くしてたの。わかんなかったでしょ、駄目な男。後で悔やんで欲しいなんて言わない。今日のこの日あんたに拒まれたあたしがこれからどうなるか、気を揉みながら見届けて自責に駆られればいい。また貞淑な女にも戻れたのに。崖っぷちで止めてくれる救いの手なんてなかった。よろめいて、足を滑らせて、後は転がり落ちるだけ。大声で叫んでたのに。『助けて! 誰か止めて!』って。あんたはそれを突き放した。ジルベール、あたし転がり落ちてる、どん底に落ちてる、落ちるところまで落ちてる。あんたにも罪があることは神様ならご存じだわ。さよなら、ジルベール。さよなら」

 やがて貴人のように、心の奥に仕舞い込んでいた余裕をようやく引っぱり出すと、怒りも苛立ちも見せず、傲然としてきびすを返した。

 ジルベールは静かに窓を閉め穴蔵に戻ると、ニコルが来るまで携わっていた謎めいた作業を続けていた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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