翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』18 「タヴェルネよさらば」アレクサンドル・デュマ

第十八章 タヴェルネよさらば

 主人の元に戻る前に、ニコルは階段の上で立ち止まり、目下身中に渦巻く怒りをどうにか抑え込んだ。

 そこに男爵が現れて、じっと動かず手に顎を乗せ眉を寄せて考え込んでいるニコルを目にするや、これは可愛いと頭から思し召し、三十歳のみぎりにリシュリュー殿が賜ったような口づけを授け給うた。

 男爵のお戯れにすっかり目の覚めたニコルが部屋に飛んで帰ると、アンドレはいましも小箱を閉め終えたところだった。

「あら」タヴェルネ嬢が言った。「さっきのことは……?」

「よく考えました」ニコルはきっぱりと答えた。

「結婚するつもり?」

「いえ、しないことにしました」

「そう。大好きだったんではないの?」

「お嬢様のご親切のほかに大事なものなんてありません。あたしはお嬢様にお仕えしてますし、これからもずっとお嬢様にお仕えしたいんです。お嬢様のことはよくわかってます。ご主人様のこともちゃんとわかるこが出来るもんなんでしょうか?」

 この打ち明け話にはアンドレも心を打たれた。よもやあのニコルがとは思いも寄らなかった。言うまでもなく、当のニコルにとってお嬢様は二の次だったことなど知るよしもない。

 ここまでいい娘だったことに感激して、アンドレは微笑んだ。

「そんなに思ってくれていたのね。忘れないわ。あなたの面倒はわたくしが見ます。幸運が訪れた時には二人で分かちましょう。約束よ」

「もう迷いません。あたしお嬢様について行きます」

「悔いはない?」

「盲従します」

「そんな答えは聞きたくないわ。盲従させられたと言って責められる日が来て欲しくはないですから」

「自分のほかは誰も責めたりなんかしません」

「旦那さんは納得してくれたの?」

 ニコルは赤面した。

「あたし?」

「ええ、そうよ。二人で話して来たんでしょう?」

 ニコルは口唇を噛んだ。ニコルの部屋の窓とこの部屋の窓は向かい合っていたから、ここからジルベールの部屋が見えることもよくわかっていた。

「仰る通りです」とニコルは答えた。

「それで、伝えたの?」

「伝えました」もしやアンドレは探りを入れたのではないだろうか。恋敵のさり気ない遣り口に、再び疑念がもたげて来て、返答には反感を滲ませていた。「伝えました。もうあなたのことは知らないって」

 わかり切ったことだった。一人はダイヤのように純粋で、一人は根っからの性悪。この二人の娘がわかり合えるはずもない。

 棘のあるニコルの言葉にも、アンドレは鷹揚な構えを崩さなかった。

 その間に男爵は荷物をまとめ終えていた。フォントノワを共にした古びた剣、陛下の馬車に乗る権利を証明する羊皮紙、新聞の束、書類の山が一番の荷物であった。ビアスのように一切合切を脇に抱え込んでいた。【Biasとはギリシア七賢人の一人ビアスのことだと思われるが、典拠は今のところ不明。手ぶらで逃げて、「(財産は)私と共にある」と説明したやつだろうか? あるいは「sous la bras」とは文字どおり「腕の下」ではなく、「身一つで」くらいの意味か?】

 ラ・ブリが汗だくになって、中身などすかすかの大型鞄に押しつぶされそうにして歩いて来た。

 並木道の指揮官代理はと見れば、支度を待つ間に、壜の中身を最後の一滴に至るまで空けていた。

 ニコルの柳腰や脚線美に目を奪われた挙句、茂み越しにちらりと姿を現わすやあっという間に消えてしまったこの小娘を、出来ることならまた目にしたいと、西洋栃《マロニエ》の泉水の方をうろうろと彷徨っていた。

 ボージール氏はそもそも任務に就いていたのであり、馬車を請う男爵の声にはっと我に返った。飛び上がってタヴェルネ男爵に挨拶すると、大声で御者に命じて並木道に馬車を入れた。

 四輪馬車が入って来た。ラ・ブリは誇りと喜びを綯い交ぜに、傍らに鞄を置いた。

「国王の馬車に乗れるとは」感激に我を忘れ、てっきり一人きりのつもりで呟いていた。

「ほら、後ろにさがって」ボージールが温かい笑みを見せて声をかけた。

「あら、ラ・ブリも連れて行くのですか」アンドレが男爵にたずねた。「いったい誰がタヴェルネの世話を?」

「ふん! 怠け者の哲学者がおろうが!」

「ジルベールが?」

「まあな。銃を持っていなかったか?」

「でもどうやって食べて行くのです?」

「銃があるじゃろう! それに料理は出来るから心配いらん。ツグミやクロウタドリなら切れる【尽きる】こともないわい」

 アンドレはニコルを見つめた。ニコルは笑い出していた。

「それが同情の仕方なの? 何て子かしら!」

「とんでもないです! お嬢様、ジルベールはとっても上手いんですから。飢え死にしたりはしませんから安心して下さい」

「ジルベールに一ルイか二ルイやらなくては」

「甘やかすためか。ふん! もう充分に堕落しておるというのに」

「生きるためにです」

「喚けば食べさせてもらえるじゃろう」

「気にしないで下さい、お嬢様。ジルベールは喚いたりしませんから」

「とにかく、三、四ピストール渡しておいて」

「きっと受け取りませんよ」

「受け取らないですって? 随分と気位が高いのね、あなたのジルベールは」

「お嬢様、もうあたしとは何の関係もないんです!」

「わかった、わかった」どうでもいい話にうんざりとして、男爵が割って入った。「もうよい、ジルベールなど! 馬車が待っておるから乗りなさい」

 アンドレは口答えせず、城館を一目見てからどっしりとした馬車に乗り込んだ。

 タヴェルネ男爵が隣に席を取った。ラ・ブリはいつものお仕着せ姿で、ニコルはジルベールなど知らぬとばかりに、座席に腰掛けた。御者が馬に跨った。

「だが司令官殿はどうなさるおつもりです?」タヴェルネ男爵が声を高めた。

「本官は馬で参ります、男爵殿」ボージールはそう答えてニコルを盗み見た。礼儀知らずの百姓に代わって早くも粋な騎士が現れたことに感激して、ニコルは顔を赤らめた。

 やがて馬車は四頭の逞しい馬に牽かれて動き始めた。並木道の――アンドレの親しんできた並木道の木々が、住人たちに最後の別れを告げようとでもするように、東風に吹かれて悲しげに傾ぎながら、馬車の脇腹に擦られ一つまた一つと視界から消えて行った。正門に差し掛かった。

 そこにはジルベールが身動きもせずに立っていた。帽子を手に、目は虚ろだがそれでもアンドレのことを見ていた。

 アンドレの方は反対側の扉に身体を押しつけ、慣れ親しんだ家を少しでも長く目に焼きつけておこうとしていた。

「ちょっと止めてくれ」タヴェルネ男爵が御者に向かって声をあげた。

 御者が馬を止めた。

「これは怠け者殿。元気でやってくれたまえ。これで正真正銘の哲学者同然、一人きりじゃな。何をするでもなし、小言を喰らうでもなし。せいぜい眠っている間に火を出さんように気をつけてくれ。それとマオンの世話も忘れずにの」

 ジルベールは無言のまま頭を垂れた。ニコルの目つきが耐え難いほどに重くのしかかって感じられた。怖くて見ることが出来なかった。勝ち誇り、当てつけるような少女を見るのが、焼きごての痛みを恐れるのと同じくらい怖かった。

「出してくれ!」タヴェルネ男爵が怒鳴った。

 ジルベールが怯えているのを見ても、ニコルは笑わなかった。それどころか、パンも未来も慰みもないまま見捨てられた青年をあからさまに憐れんだりしないようにと、ひとかたならぬ力を振り絞らねばならなかった。馬の向きを変えたボージールを見つめていなければならなかった。

 翻って、ボージールを見つめていた以上、ジルベールがアンドレを凝視していたのを目にすることはなかった。

 アンドレが涙を浮かべ見つめていたのは、自分が生まれ母が死んだ家だけだった。

 とうとう馬車は見えなくなった。先刻からとうに相手にされていなかったジルベールだが、もはやいないも同然だった。

 タヴェルネ男爵、アンドレ、ニコル、ラ・ブリは、城門を越えて新しい世界に足を踏み入れたところだった。

 一人一人が胸に思いを抱いていた。

 男爵は、バル=ル=デュックでならバルサモのくれた金器は軽く五、六千リーブルになるだろうと値踏みしていた。

 アンドレは、傲慢や野心に絡み取られぬように、母から教わった祈りを小さく唱えていた。

 ニコルがショールをかき合わせたのは、ボージール殿にとってはあまりお気に召されぬ成り行きであった。

 ラ・ブリはポケットの奥で王太子妃の十ルイとバルサモの十ルイを数えていた。

 ボージールは駆足《ギャロップ》していた。

 ジルベールがタヴェルネの大門を閉めると、油を差していない扉はいつものようにぎいぎいと呻きをあげた。

 それから小部屋に走り、オークの箪笥を開くと、その奥からしっかりとくるまれた包みが現れた。手巾でくるまれたその包みを、ステッキの先で引き出した。さらに粗末な寝台から干し草のマットレスを引きはがし、それを引き裂いた。すぐに両手でたたんだ紙をつかみ出した。紙包みの中には、ぴかぴかに輝く六リーブルすなわち一エキュがあった。確かジルベールが三、四年かけて貯めたものだ。

 包みを開いて中身が化けてやしないのを確かめるかのように見つめると、紙で覆われたままキュロットのポケットに突っ込んだ。

 マオンがわうわうと吠え、鎖の許す限り暴れていた。家族に次々と見捨てられ、今度はジルベールにも見捨てられることを、本能的に悟ってうめいているのだ。

 唸りはますます大きくなった。

「黙るんだ、マオン!」

 そう言いながら、心に浮かんだ二つの考えに口の端を歪めた。

 ――僕は犬みたいに捨てられたんじゃなかったっけ? だったらお前も人間みたいに捨てられたってことか?

 もう一度よく考えてみた。

 ――少なくとも自由にはしてくれたんだ。自分で生きる自由、それこそ僕の求めていたものだ。そうか! だったらマオン、お前にもおんなじことをしてやらなくちゃな。

 ジルベールは犬小屋に駆け寄り、マオンの鎖をはずした。

「これでお前も自由だぞ。望み通り一人で生きていけ」

 マオンは城館に向かって飛び跳ね、門が閉じてあるのを見ると廃墟の方に駆け出して行った。マオンが茂みの中に消えるのをジルベールは見届けた。

「さあ、犬と人間、どちらが生存本能が強いかな」

 こう言ってジルベールは門を出て、鍵をしっかりと掛けると城壁越しに泉水まで放り投げた。石を投げるのなら百姓にはお手のものだ。

 けれども、心に生じた時こそ起伏に乏しかった感情にも、胸に届く頃には変化が訪れ、タヴェルネを離れるに従ってジルベールもアンドレと同じような気持になっていた。ただし、アンドレの場合それは過去への郷愁だったが、ジルベールの場合それは明るい未来への希望だった。

「お別れだ!」そう言ってもう一度だけ城館を振り返った。無花果《シカモア》の葉と金鎖《キングサリ》の花に隠れた屋根が見えた。「もう会うことはないね。あんなに辛くて、みんなから嫌われて、盗んだと言ってはパンを投げつけられていた、こんな家とはおさらばなんだ! 嬉しくってしょうがないよ。自由なんだ、閉じ込める壁ももうない。牢獄よ、さようなら! さよなら、地獄! 暴君の巣! さらば、永久にさよならだ!」

 こうして、あまり詩的とは言えぬがそれなりに意義深い呪いを吐いた後でジルベールは、今もまだ遠くに響く馬車の音を追って飛び出したのである。

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