翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』19-01 「ジルベールのエキュ金貨」アレクサンドル・デュマ

第十九章 ジルベールのエキュ金貨

 半時間ほどひた走った頃、ジルベールは歓喜の叫びをあげた。四半里ほど先に、並足で坂を上る男爵の馬車が見えたのだ。

 紛れもない誇りが湧き上がってくるのを自分でも感じていた。あるのは若さと体力と知力。ただそれだけで富と権力と階級に追いついたのだから。

 タヴェルネ男爵がジルベールを思想かぶれと呼んだのもこれでおわかりいただけよう。路上から見つめたまま、手には杖、ボタン穴にはちっぽけな荷物、大急ぎで足を進め、距離を稼ごうと土手を飛び越え、一歩きごとに馬をからかうでもするように立ち止まった。

「ちょっと遅いんじゃありませんか。僕の方がそっちを待っているくらいだ」

 思想かぶれ! 哲学者! さよう、喜びを否定し、安易さを拒むことを哲学と呼ぶのであれば、まさしくその通りだった。確かに、自堕落な生き方に染まってなどはいなかった。が、愛にとろけぬ者が何人いようか!

 それゆえ見事な光景だったと言わねばなるまい。泥にまみれて顔を上気させ、馬車に追いつこうと一刻ほども走り続けた果てに、馬が進めなくなったのを見て大喜びで一服している少年よりも、むしろ逞しく知的な被造物の父なる神に相応しき光景であると。我々と同じように目と頭を使って後を追うことの出来る者なら、この日のジルベールには感嘆の念を抱くほかなかっただろう。ことによるとあのアンドレとても、これを見たら心を動かされやしなかっただろうか? 怠け者だと冷淡な態度を取ってはいたものの、この行動力を見れば打って変わって尊敬したりはしなかっただろうか?

 一日目はこうして終わった。男爵はバル=ル=デュックに一時間も留まり、追いつくどころか追い越す時間までジルベールに与えてくれた。金細工師のところに立ち寄るという指示は聞いていたので、ジルベールは町をぐるりと巡り、馬車が着いたのを見ると藪に飛び込んでやり過ごし、またもや追いかける側に戻った。

 夕方頃、男爵はブリヨンの小村で王太子妃の車と合流した。丘の上に寄り集った住人たちが、喜びの叫びと繁栄の祈りを捧げていた。

 その日を通してジルベールはタヴェルネから持ち出したパンしか口にしていなかったが、道を横切る見事な小川から水をたらふく飲んでいた。水は冷たく澄み、クレソンと黄睡蓮に彩られていた。アンドレは馬車を停めてわざわざ降り立ち、王太子妃の金器で水を汲んだ。これだけは売らずにほしいと男爵に頼んでいたのだ。

 道路脇の楡に隠れて、ジルベールは何もかも見ていた。

 そういうわけだから馬車の一行が立ち去るや、ジルベールはその場所に向かって歩いていた。アンドレが上るのを目にした土手に足を踏み入れていた。タヴェルネ嬢が喉の渇きを癒したばかりのその流れに、ディオゲネスのように手を入れ水を飲んだ。【ディオゲネスは古代ギリシアの哲学者。所有しているものは水を飲み用の茶碗だけだったが、子どもが手で水をすくって飲んでいるのを見て、その茶碗さえ捨ててしまったというエピソードがある】

 やがて渇きが癒えると、再び走り出した。

 ジルベールには一つだけ懸念があった。王太子妃は途中で宿を取るだろうか。宿を取るのであれば――その可能性は充分にある――タヴェルネで変調を訴えていたからには、休息が必要なのは確かだろう――王太子妃が宿を取るのであれば、ジルベールとしては大助かりだ。この分なら恐らくサン=ディジェ(Saint-Dizier)で車を停めるはずだ。納屋で二時間も眠れば充分だった。強張りかけていた足の痺れも取れるだろう。二時間経ったら道に戻ればいい。一晩かけて少しずつ足を運べば、五、六里は縮まるはずだ。歳は十八、五月の良夜、足を運ぶには申し分ない。

 夕暮れが訪れ、刻々と押し寄せる闇が辺りを包み込み、やがてその闇はジルベールのいる小径上にも及んだ。もはや馬車の在処を示すものは、左につけた大きなランタンだけ。その光が路上に見えると、白い幽霊が道の裏で怯えて駆け惑っているような、そんな効果を上げていた。

 夕暮れの後、夜が来た。十二里を進み、コンブル(Combles)に着くと、馬車が停まったように見えた。やはり天は我にあり。ジルベールはそう思い、アンドレの声を聞こうと近づいて行った。四輪馬車は依然としてそこにいた。馬車が大門の門下に滑り込んだ。光に照らされアンドレが見え、時刻をたずねるのが聞こえた。「十一時です」。もはやジルベールに疲れはなかった。馬車に乗るよう誘われても笑って拒んだはずだ。

 想像力豊かな焼けつくような目には、すでに金色に輝くヴェルサイユが見えていた。ヴェルサイユ。貴族と王の都。そしてヴェルサイユの向こうには、暗く翳る広大なパリ。人民の都パリだ。

 気が晴れるようなこの景色と引き替えろと言われても、ペルーの黄金一片たりとも受け取らなかったはずだ。

 二つのことが起こってジルベールは空想から引き戻された。再び動き出した馬車の立てる物音と、路上に置き忘れられた犂にぶつかって鳴る激しい物音だった。

 同時に胃も空腹を叫び始めた。

「お金があってよかった」

 ご存じの通りジルベールには一エキュがあった。

 真夜中まで、馬車は走り続けた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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