翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』19-2 「ジルベールのエキュ銀貨」

 真夜中、サン=ディジェに到着した。ここで泊まってくれることをジルベールは願った。

 十二時間で十六里も走っていたのだ。

 ジルベールは溝の外れに坐り込んだ。

 ところがサン=ディジェでは馬を替えただけであった。再び遠ざかってゆく鈴の音が聞こえて来た。富貴な旅人たちは明かりと花に囲まれて喉の渇きを癒しただけだったのだ。

 ジルベールは気力を振り絞った。十分前には足が萎えていたことなど忘れようと、足に再び力を込めた。

「さあ、進め、進むんだ! もう少しだ。僕もサン=ディジェに着いたらパンと脂身を買おう。ワインを一杯飲むぞ。五スー使ってしまおう。五スーあれば、支配者方(les maîtres)より元気になれるさ」

 ジルベールがこの支配者という言葉を、幾分大げさに口にしたことは強調しておこう。

 ジルベールは予定通りサン=ディジェに足を踏み入れた。護衛が通り過ぎてしまったため、人々が窓や扉を閉め始めていた。

 我らが哲学者はよさそうな宿屋を見つけた。夜中の一時だというのに女中はちゃんと服を着ており、下男はemmanchésボタン穴に花をつけている。【emmanchés の意味がわからなかった。本義が「柄をつける」ということから類推するに、ボタン穴にピンか何かをつけていたということだろうか?】花模様のついた陶器製の大皿には鶏肉が盛られ、腹を空かせた随員たちが実に見事に十分の一税を取り立てていた。【※ここは比喩的に訳すべきか?】

 ジルベールは毅然としてその本館に足を踏み入れた。鎧戸の閂が掛け終えられたところだった。身体を屈めて調理場に足を運んだ。

 そこに女将がいて、警戒怠りなく売り上げを数えていた。

「お邪魔します。パンとハムを一切れいただきたいのですが」

「ハムはないよ。鶏肉はいらないかい?」

「すみません。ハムが欲しかったので。鶏肉は苦手なんです」

「そいつぁ困ったね。ここにゃあそれしかないんだよ。でもいいかい」と女将はにっこり笑った。「鶏肉ならハムほど高くないんだけどね。半分、いや十スーで丸ごと持ってきな。それで明日のご飯にはなるだろ。妃殿下は代官殿のところにお泊まりになるだろうと思ってたからさ、お供の方たちに売りたかったんだよ。ところが妃殿下は通り過ぎちまった。料理はぱあさ」

 うまい話だし、女将はいい人だし、立派な食事にありつける絶好の機会を逃すはずはないとお思いだろうが、ジルベールの性格をお忘れではないだろうか。

「ありがとうございます。でも必要なだけで結構です。僕は王様でも従僕でもありませんから」

「だったらやるよ、謹厳居士さん。神のご加護がありますように」

「僕は乞食でもありません」ジルベールはむっとして答えた。「お金は払います」

 その言葉を証明するように、キュロットのポケットに厳かに手を入れ、肘まですっぽり見えなくなった。

 ところがジルベールは真っ青になった。ポケットをくまなく捜しても捜しても、出て来たのは六リーヴル貨を包んでいた紙だけであった。走っているうちに古くてよれよれの包みは擦り切れ、ポケットの布にも穴が空き、とうとうエキュ銀貨はキュロットから滑り落ちて、留め金のはずれた靴下留めから外に飛び出していたのだ。

 少しでも足を楽にしようと思い、靴下留めをはずしていたのである。

 エキュ銀貨は道の上だ。恐らくはジルベールをあれほど喜ばせた小川のほとりだろう。

 この哀れな青年は、掌一杯の水に六フラン支払ったことになる。それはそうと、ディオゲネスが茶碗など無益だと悟った時には、穴の空くようなポケットも失くすようなエキュ銀貨も持ってはいなかったのだ。

 恥ずかしさのあまりジルベールが真っ青になって震えるものだから、女将の方が心配になった。これがほかの者であったなら、思い上がった若造に罰が当たったのを見て溜飲を下げたことだろう。だがこの女将は、動顛した若者が顔色を変えて苦しんでいることに耐えられなかった。

「ほらほら、ここでご飯を食べて泊まってきな。どうしても出かけるっていうんなら、明日になってから旅を続ければいい」

「そうだ、出かけなくちゃ! 明日じゃ駄目なんです。今すぐに出かけなくては」

 耳を貸そうともせずに包みを仕舞い、恥ずかしさと苦しみを闇に紛らせようとして、外に飛び出した。

 鎧戸は閉まっていた。陽射しもすっかり村から消え、仕事に疲れた犬たちも吠えるのを止めていた。

 ジルベールは一人きりだった。この世に一人きり。何しろ最後の銀貨一枚とお別れして来たばかりの人間ほど孤独な者などいやしまい。ましてやそれは生涯で初めて手にした銀貨だったのだ。

 闇が辺りを覆っていた。どうすればいい? ジルベールは躊躇った。銀貨を捜しに元来た道をたどっても、見つかるかどうか定かではない。捜しているうちに、永遠とまでは行かずともかなりの時間を、追いつけないほど馬車から引き離されることになる。走り続けよう、追跡に戻ろう。そう決めた。だが一里進んだところで、ジルベールを飢えが襲った。精神的な苦しみから一時は飢えも和らいだというか丸め込んだのだが、駆け続けたせいで血が沸き立ち、かつてないほど凄まじい空腹感を目覚めさせてしまった。

 と同時に、飢えとは切っても切れない疲労もジルベールの手足を侵し始めた。粉骨砕身の末に、一度は馬車に追いついていたというのに、まるで陰謀でも仕組まれているようであった。馬車が停まったのは馬を替えた時だけ、それも大急ぎで行われたので、哀れな旅人は五分しか休む暇がなかった。

 それでも先を目指した。朝の光が地平線から覗き始めた。帯のように広がる薄暗い靄の上に、太陽が燦然と輝き、天を司る威厳に満ちた顔を現した。夏をふた月も先取りした、焼けつくような五月の一日になるであろう。果たしてジルベールは真昼の暑さに耐えられるや否や?

 馬も人も神さえも共謀しているのだと考えることで、束の間自尊心を慰めようとした。やがてアイアースのように、拳を天に突き上げた。アイアースのように「神々であろうと俺に手を出せぬのだ」と言わぬのは、オデュッセイアのことを社会契約論ほど知らなかったからに過ぎない。【アテナの怒りに触れて船を沈められた際に、生き延びた小アイアース(アヤックス)が叫んだ言葉。この言葉によってポセイドンの怒りを買い、岩を砕かれ結局は溺れ死んでしまった。※ホメロス『オデュッセイア』第四章の該当箇所には「拳を天に突き上げる」という記述はない。19世紀の詩人カジミール・ドラヴィーニュ(Casimir Delavigne)の詩「La Dévastation du Musée」に「un bras dans les cieux」という表現がある。そもそも『オデュッセイア』では「神々の意に反して、俺は(海の水)から逃げられる(=俺を溺死させることはできないぞ)」という表現がされており、「J'échapperai malgré les dieux」というのはドラヴィーニュの詩からそのまま借りた可能性がある。ちなみに、これも19世紀の Leconte de Lisle によるフランス語散文訳では「Il dit que, malgré les Dieux, il échapperait aux grands flots de la mer.」となっていた。もちろん『オデュッセイア』のフランス語版をくまなく調べたわけではないので何とも言えないが。】

 恐れていた通り、力及ばず難しい立場に陥る瞬間がやって来たのだ。無力と自惚れがぶつかり合う、恐怖の瞬間だった。ジルベールの気力が、いつしか絶望の力に裏書きされた瞬間だ。最後の力を奮い立たせ、姿を消していた馬車に追いつくと、砂埃で充血した目はひどい色になっていたが、その向こうには再び馬車が見えたのである。耳に響く馬車の轟きが、どくどくと脈打つ音と混じり合った。口は開き、目は動かず、髪は汗で額に貼りつき、まるで人間そっくりに作られたもののぎこちなさとかたくなさの目立つからくりのようだった。前夜から数えれば、もう二十里か二十二里は走っていた。ついに来た。足が萎え、立っていることも出来なかった。目の前の景色ももはや見えない。大地が揺れ、めくれたように思えた。叫ぼうとしたが声は出なかった。倒れる! そう思い、こらえようとして気違いのように腕を空に叩きつけた。ようやく声が喉に戻って来ると、パリに向かって、正確に言えばパリに違いないと思う方向に向かって怒号をあげ、気力と体力を奪った者たちに激しい罵声を浴びせかけた。それから両手で髪をつかみ、一度か二度くるくると回ってから路上にばったりと倒れた。自覚はあった。即ち古代の英雄のように死の間際まで戦ったのだという慰めはあった。

 力つきて倒れながらも、両の眼はかっと見開き、両の拳はぐっと握り締めていた。

 やがて目は閉じ、力も抜けた。ジルベールは気を失った。

「糞ッ! 危ねェ!」ジルベールが倒れた瞬間、鞭の鳴る音と共にしゃがれた叫び声がした。

 だがジルベールには聞こえない。

「危ねェってのが! 轢き殺されてェのか!」

 この怒鳴り声と共に、長い鞭が力強く打ちつけられた。

 革で出来た鞭がジルベールの腰に食い込んだ。

 だがもはや何も感じることもなく、ジルベールは馬の脚元に倒れていた。この馬はティエブルモン(Thiéblemont)‐ヴォクレール(Vauclère)を結ぶ本通りまで、間道を通って来たのであるが、錯乱しているジルベールには、見ることも聞くことも叶わなかった。

 この馬たちが羽根の如く軽やかな疾風となって運んできた馬車から、悲鳴が聞こえた。

 御者の超人的な努力にもかかわらず、先頭の馬がジルベールを跨ぎ越えるのを避けることは出来なかった。だが後ろの二頭は何とかそれより手前で止めることが出来た。婦人が一人、馬車から身を乗り出した。

「ああ!」恐ろしげな声をあげた。「轢かれてしまったの?」

「さいですな!」馬の脚で巻き上げられた砂煙越しに、御者は確かめようとした。「どうやらそんな気がいたします」

「可哀相に! 進んじゃ駄目よ。止めて頂戴!」

 そうして乗客は扉を開けて馬車から飛び降りた。

 御者は既に馬の下に潜り、血塗れで息絶えているに違いないジルベールの身体を、車輪の間から引き出そうとしていた。

 婦人客も力の限り御者に手を貸した。

「悪運の強ェ野郎だ! かすり傷一つ、打ち身一つねェや」

「でも気を失ってるじゃない」

「吃驚したんでしょうな。お急ぎのようですから、そこの溝に寝かせて、行くとしましょうか」

「馬鹿言わないで! こんな状態の子を放っておける?」

「はあ。何ともありませんよ。ひとりでに気づきますって」

「駄目よ、駄目。こんな若くて可哀相な子! 学校から逃げ出して、限界まで旅を続けようとしたのね。こんなに顔色が悪くちゃ、死んじゃうわよ。駄目駄目、放っておくもんですか。馬車に運んで、前の座席に乗せて頂戴」

 御者は言われた通りにした。ご婦人は既に馬車に戻っていた。ジルベールは柔らかいクッションに横たえられ、四輪馬車のふかふかの壁に頭をもたせかけられていた。

「だけど二十分も時間を食っちゃったわね。これから二十分稼いでくれたら一ピストール出すわ」

 御者が鞭を頭上で鳴らし、この威圧的な合図の意味を先刻承知の馬たちは、全速力で走行を再開させた。

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