翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』20-1 「今やジルベールはエキュ銀貨を失くしたことをそれほど気に病んではいないこと」 アレクサンドル・デュマ

第二十章 今やジルベールはエキュ銀貨を失くしたことをそれほど気に病んではいないこと

 数分後、意識を取り戻したジルベールは、言うなれば自分が若いご婦人の膝の上に横たわり、あまつさえそのご婦人から心配そうに見つめられていることに気づいて、少なからぬ驚きを禁じ得なかった。

 婦人は二十四、五歳で、大きな灰色の瞳、反り気味の鼻、頬は南国の陽に焼かれていた。神経質そうな形の小さな口が、明るく開放的な顔に抜け目のなさそうな表情を与えていた。驚くほどに綺麗な腕が、金釦付きの紫天鵞絨の袖口の中にひとまず収められている。大きな花模様のついた灰色の絹スカートが、馬車一杯に波打って広がっていた。というわけでジルベールは、こうした諸々のことにもやはり驚いたまま、自分がいるのは早駆けする三頭の馬車馬に牽かれた馬車の中だということに気づいたのである。

 ご婦人が微笑みを浮かべて目を注いでいるのを見て、ジルベールはこれは夢かと覚えたまま目を離せないでいた。

「気づいたのね!」一呼吸置いて婦人がたずねた。「悪いところはない?」

「ここは何処です?」と、かつて小説で読んだことのある台詞、しかもまず小説でしかお目にかかることのない台詞を、絶好のタイミングで口にした。

「もう大丈夫」婦人の言葉には明らかな南仏訛りがあった。「だけどもう少しで轢かれるところだったんだから。あんなふうに道の真ん中で倒れるなんて、いったい何があったの?」

「衰弱していたものですから」

「衰弱? どうしたらあんなになるまで衰弱したの?」

「随分と歩いて来たものですから」

「どのくらい?」

「昨日の午後四時からです」

「昨日の午後四時から……じゃあ……?」

「十七、八里はあったはずです」

「十三、四時間で?」

「駆け続けでしたから」

「行き先は?」

「ヴェルサイユです」

「何処から来たの?」

「タヴェルネから」

「それは何処?」

「ピエールフィットとバル=ル=デュックの間にある城館です」

「何か口に入れる時間くらいはあったでしょう?」

「そうする時間すらも、それにそうする手段もなかったのです」

「どうして?」

「お金を落としてしまいました」

「つまり昨日から何も口にしては……?」

「僕が持っていたのはパン数切れだけでした」

「可哀相に! どうして食べ物を分けてくれるよう頼まなかったの?」

 ジルベールは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「僕には自尊心があります」

「自尊心! もちろん大事なことよ。でも飢え死にしそうな時に……」

「名誉を傷つけられるくらいなら死を選びます」

 婦人は心を打たれたようにこの大げさな少年を見つめた。

「その言葉遣いからすると、どちらの方かしら?」

「僕は孤児です」

「お名前は?」

「ジルベール」

「ジルベール・ド・何です?」

「何も」

「まあ!」婦人はまた一つ驚きの声をあげた。

 相手に与えた効果を見て、ジルベールは自分がジャン・ジャック・ルソーになったと感じて快哉を叫んだ。

「道を旅するには若すぎるわ」

「主人が捨てた古い城館に、一人きりで残され捨てられたんです。おんなじように、今度は僕が城館を捨てたんですよ」

「当てもなく?」

「世界は広い。誰もが幸せになれる場所があります【太陽が万人を照らす場所があります】」

 ――そうか。と婦人は口の中で呟いた。――田舎の城館から逃げ出してきた庶子なのだ。

「それで、財布を落としてしまったというのね?」婦人は声に出してたずねた。

「そうです」

「たくさん入っていたの?」

「六リーヴルエキュ一枚だけです」窮状を告白するという恥ずかしさと、不正に手に入れたと思われかねない大金をひけらかす危うさがせめぎ合っていた。「でもそれで充分でした」

「六リーヴルエキュでそんな長旅を! 二日間でパンを買うのがやっとですって! しかもそんな道のりを! バル=ル=デュックからパリと言ったわね?」

「ええ」

「六十里近くはあったはず?」

「距離など物の数ではありません。行かなければならない――それだけです」

「だからあなたは旅出った、と?」

「幸いにしてこの足があります」

「丈夫な足にも疲れが出るわ。今のあなたみたいに」

「ああ、駄目になったのは足ではありません。僕に欠けていたのは希望です」

「確かに絶望していたようね」

 ジルベールは悲しげに微笑んだ。

「何が心に巣食っていたの? 自分の頭をぶって、髪を掻きむしったりして」

「本当ですか?」ジルベールは困惑し切ってたずねた。

「もちろん嘘なんかじゃないわ。やはり絶望のあまり馬車の音も聞こえてはいないようだった」

 実話だとわかったおかげで、自分の立場がぐっと上向いているのを感じた。しめた。風が向いてきている。相手が女性ならなおのこと。

「絶望していたのは事実です」

「何が原因?」

「追っていた馬車に追いつける望みがなくなったせいです」

「まあ!」婦人が笑顔を見せた。「それは一大事ね。恋愛がらみかしら?」

 懸命に隠そうとしたものの顔が赤くなってしまった。

「どんな馬車なの、小カトーさん?」

「王太子妃ご一行の馬車です」

「待って! 何て言ったの? じゃあ王太子妃がこの先にいらっしゃるのね?」

「恐らく」

「まだせいぜいナンシーでもたもたしてると思ったのに。途中で歓迎されたりはしなかったの?」

「そんなことはありません。でも妃殿下は急いでいらっしゃるようでした」

「急いでいる? 王太子妃が? 誰がそんなことを?」

「推測したのです」

「あなたが?」

「ええ」

「どこからそんな発想を?」

「タヴェルネ邸で二、三時間お休みになるつもりだと初めに仰ったことからです」

「凄い! それで?」

「実際にお休みになったのは四十五分ほどでした」

「パリから手紙か何かを受け取ってらっしゃらなかった?」

「刺繍入りの服を着た男の方が手紙を手にして現れたのが見えました」

「その方の名は?」

「わかりません。ただストラスブールの司令官とだけしか」

「スタンヴィル殿。ショワズール殿の兄弟か! ひどいものね。急いで、御者さん、もっと早く!」

 この訴えに鞭が力強い音を立てて答えた。すると既に駆足《ギャロップ》で走っているというのに、さらに速度が上がったように感じられた。

「要するに、王太子妃はこの先に?」

「そうです」

「でも食事を取りに停まるはず」自分自身に言い聞かせるようにしていた。「だったら追い抜くこともできる。今夜は無理でも……今夜はもう車を停めたの?」

「ええ。サン=ディジェで」

「何時だった?」

「十一時頃です」

「それなら夜食ね。だったらきっと昼は取るはず。このまま進んで次に着く大きめの町は何処?」

「ヴィトリ(Vitry)でござァます」

「今はヴィトリからどのくらい?」

「三里ですね」

「何処で馬を変えるつもり?」

「ヴォクレール(Vauclère)です」

「いいわ、ありがとう。途中で馬車の列を見かけたら知らせて頂戴」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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