翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』20-2 「ジルベールが今やエキュ……」アレクサンドル・デュマ

 車中の婦人と御者が言葉を交わしている間に、ジルベールは再び気が遠くなりかけていた。座席に戻った婦人の目に、真っ青になって目を閉じたジルベールが見えた。

「ああ、可哀相に。また具合が悪くなってしまったんだわ! あたしも悪かった。飢えと渇きで死にそうだっていうのに、飲み食いさせずにおしゃべりさせてしまったんだもの」

 無駄にした時間を直ちに償おうと、馬車の隠しから彫り細工入りの壜を取り出した。壜の首には金の器が金の鎖で堤げられていた。

「さあこのコート水を少し飲んで」とグラスに注いでジルベールに差し出した。

 今度はジルベールも素直だった。コップを差し出した美しい手のせいだろうか? サン=ディジェの頃よりも空腹がひどかったのだろうか?

「ほら! 次はビスケットをお食べなさい。あと一、二時間もしたら、もっとちゃんとした食事も取らせてあげる」

「ありがとうございます」

 そう言うと、まるでワインを飲み干したようにビスケットを口に入れた。

「いいわ! これで少しは元気になったでしょう。あたしでよければ話を聞かせて頂戴。どんな事情があってあの馬車を追いかけなければならないの? あれは王太子妃一行のものだという話だけど」

「単純なことです。妃殿下がいらっしゃった時、僕はタヴェルネ男爵のところで暮らしていました。妃殿下が男爵にパリまでついてくるようお命じになり、男爵は受諾したのです。孤児の僕のことなど気にかける者などいませんから、お金も食べ物も持たされずに見捨てられました。みんなが見事な馬と馬車でヴェルサイユに向かう以上は、僕もヴェルサイユに行こうと決めたんです。ただし徒歩で。十八歳の足で。十八歳の足でなら、馬や馬車に負けないくらい早くたどり着けるはずだったんです。なのに体力も僕を見捨てました、いや運命が僕に引導を渡したんです。お金を失くしてしまったら、食べることもできません。夜に食べておかなければ、朝、馬に追いつくこともできません」

「素敵、何て勇敢なの! 立派なことだわ。でも一つ心得てないことがあるんじゃないかしら……」

「何です?」

「ヴェルサイユでは、勇気だけじゃ生きていけないわ」

「パリに行くつもりです」

「パリはその点ではヴェルサイユよりも厳しいわ」

「勇気だけで生きられないのなら、働いて暮らします」

「いい答えね。でも何をして働くの? 人夫や人足の手には見えないけれど?」

「勉強をするつもりなんです」

「もう随分といろいろ知っているように見えるけれど」

「ええ、自分が何も知らないということを知っていますから」ソクラテスの言葉を思い出して、ジルベールは大げさな答えを返した。

「聞いてもいいかしら? 学びたい分野は何?」

「そうですね。一番大事な学問とは、同胞のために役立てるものだと思います。その一方、人間はあまりにちっぽけです。強さの秘密を知るためには弱さの秘密を学ばなくてはなりません。お腹のせいで朝から足が進まないのは何故なんでしょう? いつかそれが知りたいんです。それに、本当にお腹のせいなんでしょうか――怒りや熱や毒気が頭に回ったり、僕が路上に倒れたりしたのは?」

「きっと素晴らしいお医者さんになるわ。今でも充分に医学の心得があるみたいだし。十年もしたら、かかりつけはあなたにしましょう」

「お心にかなうよう努力します」

 御者が車を停めた。到着した宿駅には一台の馬車も見当たらなかった。

 問い合わせてみると、王太子妃は十五分前に通ったばかりだという。馬を替えたり食事を取ったりするために、ヴィトリーで止まるはずだ。

 替わったばかりの御者が鞍に跨った。

 婦人は御者に、並足で町を出るよう命じた。やがて家も見えなくなってからしばらく経った。

「御者さん、王太子妃の馬車に追いつくことは請け合える?」

「まあ大丈夫でしょう」

「ヴィトリーの手前で?」

「冗談言っちゃいけねェ! 向こうは速歩《トロット》ですぜ」

「それなら駆足《ギャロップ》で行けば……」

 御者が目を剥いて見つめた。

「三倍払うわ!」

「そういう話はさっさとしてくれるべきでしたな。でしたらとっくに四半里先でしたでしょうに」

「これが手付けの六リーヴル=エキュ。失くした時間を取り戻しましょう」

 御者が後ろに身を乗り出し、婦人が前屈みになり、ついに二人の手が触れ合うと、エキュ銀貨が乗客の手から御者の手へと渡った。

 馬こそとんだとばっちりだ。輿は疾風のように走り出した。

 馬を替えている間に、ジルベールは水飲み場で顔と手を洗っていた。顔と手が瑞々しさを取り戻すと、今度はつやのある髪を梳かしていた。

 ――本当に。と婦人は独り言ちた。――医者になるには充分過ぎる器量だわ。

 ご婦人はジルベールを見て微笑んだ。

 旅の連れが微笑んだ理由に心づいたのか、ジルベールは真っ赤になった。

 御者と話をつけたご婦人は再びジルベールと話し始めたのだが、その逆説・警句・金言に退屈する暇がなかった。

 時折ではあるが、ジルベールの答えの端々に耳哲学を感じて笑いはじけながらも、黙り込んで道の先に目を凝らしたりもした。婦人の腕がジルベールの額に触れたり、丸い膝が脇腹に押しつけられたりすると、伏せた目とは裏腹に顔が真っ赤になるのを見て面白がった。【※quelque réponse sentant le philosophisme à une lieue à la ronde】

 こうして一里ほど走った。婦人が歓声をあげ、躊躇せず前部座席から身を乗り出したため、今度は身体全体がジルベールに押しかぶせられる恰好となった。

 長い坂道を苦労して登っている馬車の後ろ姿を捉えたのだ。連なった馬車からは、ほとんどの乗員が降りている。

 ジルベールは花柄の襞から抜け出し、肩の下に頭を潜らせ、前部座席に膝をついて、坂を登る小人たちの中にタヴェルネ嬢を探そうと目を凝らした。

 ボンネットをかぶったニコルらしき人が見つかった。

「見えましたよ、マダム」と御者が言った。「どうしやすか?」

「追い越して頂戴」

「追い越すですって! そんな無茶な。王太子妃を追い越すなんたァ」

「どうして?」

「ご法度ですよ。王のお馬を追い越すなんて! ガレー船行きですぜ」

「出来ないことはしなくてもいいわ。でも追い越さなくちゃならないの」

「ではあなたはお付きの方ではないんですか?」ジルベールとしては今の今まで、婦人の馬車は一台だけ遅れたのだと思っていたし、馬を飛ばすのも本隊に追いつきたいからだとばかり思っていたのだ。

「知りたがるのはいいことね。口を閉じていた方がいいこともあるわ」

「すみません」ジルベールは真っ赤になった。

「困ったわね。どうしましょう?」婦人は御者にたずねた。

「そうですな。ヴィトリーまではこのままついて行きましょう。そこで妃殿下が車を停めれば、先に行くお許しをもらえばいい」

「そうね、でも誰何されるでしょうし、あたしが誰なのか知られたら……駄目、それじゃ意味がない。別の方法を考えましょう」

 ここでジルベールが声をかけた。「よろしければ考えがあるのですが……」

「聞かせて頂戴。いい考えならいただくわ」

「ヴィトリーに回り込むように抜け道を取れば、無礼を働くことなく王太子妃殿下の前に出ることが出来るのではないでしょうか」

「その通りよ」婦人は声をあげて御者にたずねた。「抜け道はないの?」

「何処に抜けるんです?」

「何処でもいいわ。王太子妃殿下があたしたちより後ろになるようなところなら」

「ああ! そうしますと、右にマロール(Marolle)の道がありますから、ヴィトリーを回り込むようにして、ラ・ショセ(La Chaussée)で本通りに戻れまさァね」

「上出来! そうしましょう!」

「ですけどマダム、回り道をしますと、おあしも二倍になりますが」

「ラ・ショセで王太子妃を追い越していたら、二ルイ出すわ」

「輿が壊れるかもしれませんぜ?」

「心配いりません。輿が壊れたなら、馬で旅を続けるだけです」

 斯くして馬車は右に折れて大通りを離れ、深い轍の残る抜け道に入り、青い水の流れ。ラ・ショセとミュティニー(Mutigny)の間を流れるマルヌ川(la Marne)の支流である。御者は約束を守った。輿が壊れるまで、また目的地にたどり着くまで人間に出来うる限りのことをしたのである。

 ジルベールは何度も婦人の上に投げ出され、婦人の方も何度となくジルベールの腕の中に倒れ込んだ。

 ジルベールは気詰まりにならぬよう礼儀をわきまえていた。たといその目が、婦人を美しいと思う気持を雄弁に語っていようとも、微笑みを浮かべぬ術は心得ていた。

 二人きり揺られたことで親近感が湧き起こった。二時間経って辻に出た頃には、ジルベールは十年も前からご婦人のことを知っていたような気持になっていたし、婦人の方でもジルベールを生まれた時から知っていたと断言できたはずだ。

 十一時頃、シャロン(Châlons)でヴィトリーの本通りに合流した。たずねられた伝令が言うことには、王太子妃はヴィトリで食事を取っただけではなく、疲労を感じたために二時間の休憩を取ったという。

 さらに言うには、自分が次の宿駅に急いでいるのは、繋駕係を呼んで午後三時か四時までには準備させておくためだという。

 この報せに婦人は満足したようである。

 約束通り御者に二ルイ払うと、ジルベールの方を向いた。

「さあ、あたしたちも次の宿駅で夕食を取りましょう」

 だがジルベールはそこではまだ夕食にありつけない定めだった。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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