翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』21-2

 と、そこでジルベールに気づいた。二人の人物が読者もご覧の光景を演じている間、ジルベールとしてはまったくそこに入り込む余地もないため、骨を奪われた犬のように顔をしかめていたのだ。

「おや。何を拾って来たんだ?」

「哲学者ちゃんよ。すごく面白いんだから」マドモワゼル・ションは、保護した人物が傷つこうと喜ぼうと気にしないようだった。

「どこで見つけたんだ?」

「道の上よ。でもそんなのどうでもいいわ」

「そうだった」ジャンと呼ばれた人物が答えた。「ベアルン伯爵夫人は?」

「準備は出来てる」

「準備が出来てるって?」

「ええ、来てくれるはず」

「来てくれるって?」

「ええ、そう、そうよ」ション嬢はうなずいた。

 この場面は相変わらず輿の踏段で演じられていた。

「どんな話を聞かせたんだ?」ジャンがたずねた。

「弁護士のフラジョ(Flageot)の娘だって言ったの。ヴェルダン(Verdun)を通って、審問日が決まったことを父の代理で伝えに来たって」

「それだけ?」

「まあね。後は、審問日が決まった以上はパリにいなければならないって言っただけ」

「それで夫人はどうした?」

「ちっちゃな灰色の目を真ん丸にして嗅ぎ煙草を喫うと、フラジョさんは世界一の人間だって断言してから、出かける準備をさせてたわ」

「よくやった、ション! これでおまえも特命大使だ。だが差し当たっては昼食にしないか?」

「そうね。飢え死にしかけた可哀相な子もいることだし。でも急ぎましょ?」

「なぜだ?」

「すぐそこまで来ているからよ!」

「老伯爵夫人がか? こっちの方が二時間も先に出ているんだから、モープー殿に話す時間はあるさ」

「違う。王太子妃よ」

「馬鹿な! 王太子妃はまだナンシーにいるはずだ」

「ヴィトリーにいるの」

「ここから三里のところにか?」

「まったくその通り」

「畜生! 話は変わった! おい御者」

「とぢらまで?」

「宿駅だ」

「旦那さまはお乗りになるんで、それともお降りになるんで?」

「ずっとここだ。進め!」

 男を踏段に乗せたまま馬車は走り出した。五分後、馬車は馬車宿の前で停まった。

「早く早く早く!」ションが叫んだ。「骨付き肉、鶏肉、卵、ブルゴーニュ・ワイン、上等なのはいらないから。今すぐまた馬車を出さなきゃならないの」

「失礼ですが」宿の主人が敷居を跨いで言った。「すぐに出発なさるんでしたら、馬もご一緒になりますが」

「馬も一緒にだって?」ジャンが踏段からどさりと飛び降りた。

「さようで。そちらさんが乗って来た馬ですよ」

「とんでもない」御者が言った。「もう二駅分も走ってるんだ。こいつらがどんな状態か見てくだせェ」

「ほんと。これ以上走るのは無理ね」

「だったら、新しい馬を手に入れれば済む話だ」

「手前どもにはもうございません」

「おい! ないわけがないだろう……決まりがあるはずだ!」

「はい、決まりによれば、手前どもの厩舎には十五頭いなくてはなりません」

「それで?」

「こちらには十八頭おります」

「そんなにはいらん。三頭だけでいい」

「そうでございましょうが、生憎すべて出払っておりまして」

「十八頭すべてが?」

「十八頭すべてが」

「くたばっちまえ!」

「子爵!」婦人が声をかけた。

「ああわかってる、ション。心配しなくていい、もう落ち着くから……それでお前の駄馬はいつ戻って来るんだ?」

「そんな! 旦那さま、手前にはわかりませんよ。御者次第です。一時間か二時間ってところでしょうか」

「そうだろうな」ジャン子爵は帽子を左の耳まで下げ、右足を折り曲げた。「おれは冗談を言わないんだ。わかってるのか? それともわかっていないのか?」

「それは申し訳ございません。冗談がお好きな方でしたらよかったのですが」

「ふん、まあいい。おれが怒り出さないうちに、とっとと馬を繋ぐんだ」

「一緒に厩舎においで下さい。まぐさ棚に一頭でも馬がおったら、ただで差し上げますよ」

「ふざけたことを! では六十頭いたら?」

「一頭もいないのとおんなじことですよ、旦那。その六十頭は陛下のお馬ですからね」

「つまり?」

「つまりですって! お貸し出来る馬はいないってことですよ」

「ではどうしてここに馬がいるんだ?」

「王太子妃ご一行のためです」

「何だって! 飼葉桶には六十頭の馬がいるのに、おれには一頭も貸せないのか?」

「ご勘弁を。ご理解いただけると……」

「一つのことしか理解出来んね。おれは急いでるってことだ」

「お気の毒でございますが」

「それなら」と子爵は、主が口を挟んだのも意に介さずに話を続けた。「王太子妃がここに来るのは夜中になるとしたら……」

「何をお言いで……?」宿の主はぎょっとした。

「王太子妃が到着するまでは馬を借りられるだろうと言ってるんだ」

「まさか仰りたいのは……?」

「うるさい!」子爵は厩舎に足を踏み入れた。「お前に迷惑は掛けん。待っていろ!」

「ですが旦那さま……」

「三頭だけだ。たとい契約上その権利があったとしても、妃殿下みたいに八頭も欲しがりはしない。三頭で充分だ」

「ですが一頭もお貸し出来ませんよ!」主は馬と旅人の間に割って入った。

「ちんぴらめ」子爵は怒りに青ざめた。「おれが誰だか知らんのか?」

「子爵」ションが声をあげた。「お願いだから! 騒ぎは起こさないで!」

「そうだとも、ションション、お前の言う通りだ」子爵は」少し考えてから、「よし、言葉などいらん、行動あるのみ……」

 そうして主に向かって随分と愛想のいい顔つきをして見せた。

「さてご主人。あんたには責任が及ばないようにするとしよう」

「どういうことでしょうか?」子爵の穏やかな顔を見ても、主はびくびくしたままだった。

「自分で片を付けるつもりだ。ここに同じくらい立派な体格の馬が三頭いる。こいつを貰おう」

「貰うと仰いましたか?」

「ああ」

「それを手前に責任が及ばないと表現なさるのですか?」

「そうだろう? お前はくれなかったし、こっちは欲しがっていたんだ」

「ですが不可能だと申し上げたはずです」

「ふん、いいから、馬具は何処にある?」

「じっとしてろよ!」庭や厩で作業中だった二、三人の馬丁に、主が声をかけた。

「やってくれるじゃないか!」

「ジャン! ジャン!」扉を開けてすべてを見聞きしていたションが声をあげた。「面倒ごとはやめて! まだ途中なんだから、我慢が大事よ」

「我慢するさ。だが遅れることだけはならない」ジャンは驚くほど冷静に見えた。「だからだよ。こんちくしょうが手伝うのを待っていたら遅れてしまうから、自分でやろうって言ってるんだ」

 脅しが利いたのを見て、ジャンは壁から馬具を三つ取り外し、三頭の馬の背に取り付けた。

「お願いだからジャン!」ションが手を合わせた。「お願い!」

「たどり着きたいのか、違うのか?」ジャンが歯を軋らせた。

「それはたどり着きたいわよ! あたしたちが着かなかったら何もかも終わりだわ!」

「よし、だったらおれのやることを止めないでくれ!」

 子爵は三頭をほかの馬から選り抜き、輿の方に牽いて行った。

「お考え直しを」主がジャンに追いすがった。「馬泥棒は大逆罪ですよ!」

「盗むんじゃない、借りるだけだ。さあ来い、坊主ども!」

 主は手綱に駆け寄った。だが手を触れることも出来ずに乱暴に押し返された。

「お兄様!」ションが叫んだ。

「そうか、ご兄弟なのか」馬車の中で寛いでいたジルベールは呟いた。

 その時、農家の玄関側つまり道の反対側の窓が開き、美しい顔の婦人が顔を出した。騒ぎを聞きつけてびっくりしたのだ。

「おや、あなたですか」ジャンが声をかけた。

「私?」婦人は拙いフランス語で答えた。

「お目覚めになったんですね。ちょうどいい。あなたの馬をお売りするつもりはありませんか?」

「私の馬?」

「ええ、葦毛のアラブ馬です、そこの鎧戸に繋いでいる。五百ピストールお支払いしますよ」

「この馬は売り物じゃないの」という答えとともに窓が閉められた。

「そうか、今日は運が悪い。売るのも借りるのも断られた。畜生! だが売る気はなくともあのアラブ馬を手に入れてやる。貸す気がなくともこのドイツ馬どもを乗り潰してやる。来るんだ、パトリス」

 従僕が馬車の座席高くから地面に飛び降りた。

「繋ぐんだ」ジャンが従僕に命じた。

「助けてくれ、お前たち!」主が声をあげた。

 馬丁が二人、駆けつけた。

「ジャン! 子爵!」ションが馬車を揺らし、どうにか扉を開けようとしていた。「気でも違ったの? 何もかも滅茶苦茶にするつもり?」

「滅茶苦茶だって? される方じゃなくする方だといいがな。三対三だ。おい、哲学者君」と腹の底からジルベールを呼ばわった。ジルベールはといえば、余りに驚きが大き過ぎて動けずにいた。「ほら、降りろ! 降りて何か動かすんだ。杖でも石でも拳でもいい。降りろったら、馬鹿! 聖人の石膏像みたいだぞ」

 ジルベールが不安に駆られて請うような目でションを見ると、腕を出して引き留められた。

 宿駅の主は大声で喚きながら、ジャンが牽いて行った馬を自分の方に引っ張っていた。

 何とも痛ましく騒がしい三重奏であった。

 それでも戦いには終わりが来る。へとへとになって攻撃を続けていたジャンが、とうとう馬の主に重い拳を一発お見舞いした。主は水たまりにぶっ倒れて、家鴨や鵞鳥が驚いて逃げ出した。

「助けてくれ! 人殺し! 人殺しだ!」

 その間にも、時間の値打ちを知っているらしい子爵は、大急ぎで馬を繋いでいた。

「助けてくれ! 人殺しだ! 王の名において、頼むから助けてくれ!」茫然としている二人の馬丁を呼び戻そうと、主は叫び続けた。

「王の名において助けを呼んでいるのはどなたですか?」突如として一人の騎士が宿駅の庭に駆足《ギャロップ》で飛び込んで来ると、汗まみれの馬を事件の当事者たちの方に向けた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ!」ジルベールはこれまで以上に馬車の奥に縮こまって呟いた。

 ションは抜かりなくその名を聞き取っていた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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