翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』22-2

「こっちとしては、せっかくのお言葉だが車を出すつもりだと申し上げよう!」子爵は馬車から飛び降りると同時に剣を抜いた。

「いずれわかりますよ」フィリップも剣を構えて刃を合わせた。「いいですね?」

「中尉」フィリップには六人の部下がついていたが、伍長がたずねた。「中尉、我々は……?」

「じっとしていろ。これは個人的な問題だ。では子爵、いつでもどうぞ」

 ションが鋭い叫びをあげた。馬車が井戸のように深ければ、というのがジルベールの願いだった。――もっとしっかり隠れることができるのに。

 ジャンが先に動いた。ジャンはまれに見る剣の使い手だった。剣術では肉体的な能力よりもむしろ読みが物を言う。

 だが明らかに、怒りのせいで力を出し切れていなかった。一方フィリップは剣《エペ》を小剣《フルーレ》のように扱い、まるで道場で練習しているような動きを見せていた。

 子爵は身体を引き、前に出、右に飛び、左に飛び、声をあげて、連隊の軍事教官のような突きを入れた。

 一方フィリップは歯を引き締め、目を見開き、像のように動かず騒がず、すべてを観、すべてを読んでいた。

 誰もが無言で見つめていた。ションも同様だ。

 二、三分が経ち、ジャンのフェイント、掛け声、引きはことごとく無駄に終わったが、相手の動きを見極めていたフィリップもまた一度も突きを入れることはなかった。

 不意に、ジャン子爵が後ろに飛び退き声をあげた。

 と同時に血が袖口を染め、指の間からぽたぽたと滴が流れた。

 フィリップの反撃の一打が子爵の前腕を捕えたのだ。

「傷を負いましたね、子爵」

「ふん、そんなことわかっている!」ジャンの顔からは血の気が失せ、剣を落とした。

 フィリップがそれを拾って手渡した。

「さあ、もう馬鹿な真似はやめましょう」

「くだらん! 馬鹿な真似をしたというのなら報いは受けたよ」子爵が唸った。「来てくれ、ションション」呼びかけられた妹は、馬車から飛び降り兄を助けに駆け寄った。

「お許し下さい」フィリップが言った。「ですがこれは本官の過失ではありませんし、衝動に駆られてご婦人の前で剣を抜いてしまったことは後悔しております」

 そして深いお辞儀をしてその場を離れた。

「馬を外して、元の場所に戻して下さい」と宿駅の主に伝えた。

 ジャンが拳を突き上げたが、フィリップは肩をすくめた。

「おや、間の悪い!」主が声をあげた。「三頭戻って来ましたよ。クルタン! クルタン! この方の輿に急いで繋いでくれ」

「ですが……」御者が言った。

「さあさあ待ったはなしだ。お客様はお急ぎだ」

 それでもジャンがなおも毒づいたため、主が声をかけた。

「旦那さま、お嘆きなさらんことです。こうして馬が届いたんですから」

「結構なことだ!」ジャンはうめいた。「半時間前に届いていればよかったんだ」

 傷ついた腕で足を叩いた。その腕にも今はションのハンカチが巻きついている。

 その間フィリップは、自分の馬に跨り、何事もなかったかのように指示を与えていた。

「出発しましょう」ションが兄デュ・バリーを輿の方に引っ張った。

「アラブ馬はどうなる? 畜生! 悪魔に食われちまえ! 今日はとことん厄日だな」

 そう言ってジャンは輿に戻った。

「ほらほら!」ジルベールを見て言った。「これじゃあ足を伸ばすことも出来ないじゃないか」

「お邪魔でしたらお詫びいたします」

「ほらジャンったら。哲学者ちゃんは放っておいてあげて」

「何のために座席に収まってるんだ、まったく!」

 ジルベールは赤面した。

「座席に収まってはいてもぼくは従僕ではありません」

「ほざいたな!」

「降ろして下さい。ぼくは降りますから」

「ああ、糞ったれめ、降りるがいい!」

「駄目よ、駄目! あたしの正面にいらっしゃい」ションが腕を伸ばして引き留めた。「ここなら兄の邪魔にはならないわ」

 そう言っておいてから子爵の耳に口を寄せた。

「この子はあなたに怪我させた男を知ってるのよ」

 歓喜の光が子爵の目によぎった。

「そいつはいい。だったらここに置いておこう。あの士官の名は?」

「フィリップ・ド・タヴェルネ」

 と、ちょうどその時、若き中尉が馬車に近づいて来た。

「おや、そこにいましたか」ジャンが声をかけた。「今でこそ悠々と構えていらっしゃるでしょうが、運命は巡るものですからね」

「あなたに幸運が訪れた暁には、それもわかるでしょう」フィリップは動じることなく答えた。

「ええ、まったくだ。そのうちわかりますよ、フィリップ・ド・タヴェルネ !」不意打ちで名指しして、どんな反応を見せるのか試みたのだ。

 結果はというと、フィリップは驚いて顔を上げ、そこにはかすかな懸念がよぎっていた。だがすぐに元通りになり、至って恭しく帽子を取った。

「良い旅を、ジャン・デュ・バリー殿」

 馬車はすぐに駆け出した。

「くたばっちまえ!」そう言って子爵は顔をしかめた。「どうもおれの傷はひどいようだな、ション?」

「次の宿駅でお医者さんを呼びましょう。この子には何か食べさせておけばいいわ」ションが答えた。

「ああ、そうだな。何も食べていなかった。おれは苦しくて飯どころじゃない。今は喉がからからだ」

「オー・ド・ラ・コートを一杯飲む?」

「ああ、頼む」

「失礼ですが、一つ申し上げてよければ……」ジルベールが口を挟んだ。

「構わん」

「あなたのような症状に一番良くないのがリキュールなんです」

「そうなのか?」子爵はションの顔を見た。「すると、この哲学者君は医者なのか?」

「医者ではなく、まだ医者の卵です。でも軍人向けの論文で読んだのですが、負傷兵に絶対にしてはならないことが、リキュール、ワイン、コーヒーを与えることでした」

「ほう! 実際に読んだのか。ではもう何も言うまい」

「一つだけ構いませんか。ハンカチを貸していただけたなら、泉水に浸して腕に巻いて差し上げます。そうすればだいぶ楽になるはずです」

「そうして頂戴。お願い、停めて頂戴」ションが御者に向かって声をあげた。

 御者が車を停め、ジルベールは子爵のハンカチを小川に浸した。

「あの坊主がいると、話をするには都合が悪いな!」デュ・バリー子爵が言った。

「方言で話しましょう」

「ハンカチ諸共ここに置き去りにして車を出すよう御者に言ってやりたいね」

「駄目よ。あの子は役に立つわ」

「何の役に?」

「王妃がらみで。ついさっきも、決闘相手の名前を教えてくれたばかりじゃない」

「それもそうだな、そばに置いておくか」

 ちょうどその時、冷たい水に浸したハンカチを持ってジルベールが戻って来た。

 腕に布を巻きつけたところ、ジルベールの言った通り随分と楽になった。

「なるほどな。だいぶ楽になった。話をしようじゃないか」

 ジルベールは目を閉じて耳を傾けた。ところがその備えは裏切られることとなった。ションは兄の提案に、パリっ子の耳にはちんぷんかんぷんの鮮やかな方言で答えたのだ。くぐもった子音の唸りが音楽的な母音の上で転がされたために、かろうじてプロヴァンス方言だということがわかるぐらいであった。

 ジルベールがどれだけ感情を抑えようとしても、落胆の仕種をションの目から隠すことは出来なかった。ションは慰めるように優しく微笑みかけた。

 微笑みの意味は明らかだった。ジルベールは大事にされている。自分のような虫けらが、王の恩寵を授けられた子爵にそんな態度を取らせているというのだ。

 アンドレがこの馬車にいるぼくを見ていたらなあ!

 ジルベールの自惚れがふくれあがった。

 ニコルのことは考えもしなかった。

 兄と妹は方言で会話を続けていた。

「これはこれは!」子爵が突然声をあげ、扉に身体を押しつけて後ろを見た。

「何?」ションがたずねた。

「アラブ馬のご登場だ!」

「アラブ馬って?」

「おれが買おうとしていた馬だよ」

「あら、乗っているのはご婦人よ。何て凄いのかしら!」

「どっちの話だ……? 女か馬か?」

「ご婦人よ」

「だったら声をかけてみてくれ、ション。おれよりもお前の方が安心するだろう。あの馬になら千ピストールやってもいい」

「ご婦人になら?」ションが笑ってたずねた。

「破産しちまうよ……いいから声をかけてくれ!」

「マダム! マダム!」ションが叫んだ。

 瞳は大きく黒く、白い外套を纏い、長い羽根のついた灰色の帽子に額が隠れていた。ションが呼びかけたにもかかわらず、その若い婦人は道の脇を矢のように擦り抜け、声を出していた。

「Avanti《進め》! ジェリド! Avanti《進んで》!」

「イタリア人か」子爵が言った。「たいした別嬪じゃないか! こんな怪我をしていなけりゃ、馬車から飛び降りて追いかけてくんだがな」

「今の人のことは知っています」ジルベールが口を開いた。

「何だと! この坊主は地方年鑑か? 誰も彼もを知ってるじゃないか!」

「何ていう人なの?」ションがたずねた。

「ロレンツァという人です」

「どんな人?」

「魔術師の奥さんです」

「魔術師って?」

「ジョゼフ・バルサモ男爵です」

 兄と妹は見つめ合った。どうやらこんな会話を繰り広げていたようだ。

「この子を拾ったのは正解だったでしょ?」

「まったくだ」

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 07 | 2017/08 | 09
    S M T W T F S
    - - 1 2 3 4 5
    6 7 8 9 10 11 12
    13 14 15 16 17 18 19
    20 21 22 23 24 25 26
    27 28 29 30 31 - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年08月 (3)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH