翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』23-1 「デュ・バリー伯爵夫人の小起床の儀」

第二十三章 デュ・バリー伯爵夫人の小起床式

 さて、ここらで読者にお許し願って、ションとジャン子爵がシャロン(Châlons)の道に馬車を走らせている間に、もう一人の一族の元へとご案内しよう。

 以前は王女マダム・アデライードが暮らしていたヴェルサイユの一室に、ルイ十五世陛下は一年ほど前から寵姫になったデュ・バリー伯爵夫人をあてがっていた。この政変が宮廷にどんな影響を及ぼすものか、ずっと前から気づいていないわけでもないのだが。

 この寵姫、気ままで物に頓着せず、愛嬌があって何とも無邪気、ひどい気まぐれだったものだから、静謐だった宮殿を賑やかな場所に変えてしまった。何はなくとも陽気に振る舞わないと耐えられない世界の住人なのである。

 部屋の持ち主がふるう権力に関心をお持ちであれば、恐らくこの限られた部屋からは祝いの指示や宴の合図ばかりが聞こえたはずだ。

 だが案ずるに、この宮殿の一部であるきらびやかな階段について特筆すべきは、驚くべき数の人波である。それこそ朝の九時から、着飾った訪問客がその階段を上り、慎ましやかに控えの間に坐すのである。控えの間には珍しい品々が並べられていたが、聖地に招かれた選ばれし者たちが崇め奉る偶像ほど不思議なものではない。

 ラ・ショセ界隈で起こった出来事を先ほどお話ししたばかりだが、その翌日の朝の九時頃、つまり聖時(heure consacrée)のことである。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ(Jeanne de Vaubernier)が刺繍入りのモスリンの部屋着に身を包み、軽やかなレース越しに妙なる足と石膏のような腕を覗かせて、ベッドから出た。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ即ちランジュ嬢であり、ついには後見役ジャン・デュ・バリー氏のおかげをもってデュ・バリー伯爵夫人と相成った。ヴィーナスに似たところは一つもないが、ヴィーナスよりも美しい――事実よりも虚構を好む者ならばそう言うであろう。

 見事にカールした栗毛の髪、青く血管の透けた白繻子の肌、沈んだかと思えば輝いたりを繰り返す瞳、真紅の筆で描かれたような小さな口、開けば必ず二列の真珠が顔を見せた。頬、顎、指に浮かぶえくぼやくぼみ。ミロのヴィーナスに生き写しの喉、蛇のようにしなやかで、ほどよい肉付き。これが小起床の謁見準備をしていたデュ・バリー夫人である。ルイ十五世陛下は、食卓の下のパン屑を無駄にする勿れなる古人の格言に倣って、夜のお勤めもあるというのに朝の謁見も欠かさなかった。【※マタイ15:27、マルコ7:28?『然(しか)り、主(しゅ)よ、小狗(こいぬ)も主人(あるじ)の食卓(しょくたく)よりおつる食屑(たべくず)を食(くら)ふなり』、『然(しか)り、主(しゅ)よ、食卓(しょくたく)の下(した)の小狗(こいぬ)も子供(こども)の食屑(たべくず)を食(くら)ふなり』】

 寵姫はしばらく前から目を覚ましていた。八時にはベルを鳴らし、呼ばれた侍女がまずは厚い緞帳を、次いで薄めの帳を開けて、少しずつ部屋に明かりを入れた。喜びに溢れたその日の陽射しが招じ入れられ、数々の神話的遺産の記憶をたどりながら、この美しいニンフを包み込んだ。ただしこのニンフ、神々に愛でられしダフネの如くに身を翻したりはせず、時には人々に愛でられし者をこちらから迎えに出向くほどの人間臭さ。斯かるが故に、金縁真珠で飾られた手鏡に微笑みかけた柘榴石の如き瞳には、既にむくみも躊躇いもなかった。先ほど途中まで説明していたしなやかな体躯が、甘い夢に震え寝んでいたベッドから滑り抜けると、そこは白貂の絨毯。シンデレラも斯くやとばかりの足が、室内履《スリッパ》を持つ手とご対面。その室内履と来ては、片方だけでもジャンヌの故郷の木樵には一財産という代物だった。

 この魅力溢れるご婦人が起き上がり、ますます生き生きとして来たところに、マリーヌのショールが肩に掛けられた。続いて、室内履からちらりと覗いたぽってりした足に、きめ細やかな薔薇色の絹靴下が着けられたが、肌の艶とて絹に劣っているわけではない。

「ションから便りはなかった?」とまず侍女にたずねた。

「ございません」

「ジャン子爵からも?」

「ございませんでした」

「ビシは受け取ったかしら?」

「今朝、送られたところでございます」

「手紙もなし?」

「手紙もございません」

「ああ、こうやって待つのって退屈なものね」伯爵夫人は可愛らしい口を尖らした。「百里の距離を一瞬にしてやり取りすることって永遠に出来ないのかしら? ああ、もう! 今朝あたしに会う人は気の毒ね! 控えの間は結構混んでいた?」

「おたずねなさるまでも?」

「ねえ聞いて、ドレ。王太子妃がやって来れば、あたしは見捨てられたっておかしくないでしょ? 太陽と比べれば、ちっちゃな星に過ぎないんだもの。どなたがいらっしったの?」

「デギヨン殿、スービーズ公爵、サルチーヌ殿、モープー院長です」

「リシュリュー公閣下は?」

「まだお見えではないようです」

「今日も昨日も! 言ったでしょう、ドレ。外聞を憚っているのよ。アノーヴル邸に伝令を送って、臥せってらっしゃるのかどうか確かめて頂戴」

「かしこまりました。一斉にお会いになりますか、それともお一人ずつ内謁を?」

「内謁を。サルチーヌ殿にお話があるの。お一人だけ入れて頂戴」

スポンサーサイト

コメント

Page Top▲

コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

Page Top▲

トラックバック

Page Top▲

PROFILE

東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 名前:東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
  • 本好きが高じて翻訳小説サイトを作る。
  • 翻訳が高じて仏和辞典Webサイトを作る。

  • ロングマール翻訳書房
  • RSS
  • 09 | 2017/10 | 11
    S M T W T F S
    1 2 3 4 5 6 7
    8 9 10 11 12 13 14
    15 16 17 18 19 20 21
    22 23 24 25 26 27 28
    29 30 31 - - - -

    SEARCH

    RECENT ENTRIES

    CATEGORY

    RECENT TRACKBACKS

    RECENT COMMENTS

    ARCHIVES

  • 2017年10月 (2)
  • 2017年09月 (5)
  • 2017年08月 (4)
  • 2017年07月 (5)
  • 2017年06月 (3)
  • 2017年05月 (5)
  • 2017年04月 (4)
  • 2017年03月 (4)
  • 2017年02月 (4)
  • 2017年01月 (4)
  • 2016年12月 (5)
  • 2016年11月 (4)
  • 2016年10月 (5)
  • 2016年09月 (4)
  • 2016年08月 (4)
  • 2016年07月 (5)
  • 2016年06月 (4)
  • 2016年05月 (4)
  • 2016年04月 (5)
  • 2016年03月 (4)
  • 2016年02月 (4)
  • 2016年01月 (5)
  • 2015年12月 (4)
  • 2015年11月 (4)
  • 2015年10月 (5)
  • 2015年09月 (4)
  • 2015年08月 (5)
  • 2015年07月 (4)
  • 2015年06月 (4)
  • 2015年05月 (5)
  • 2015年04月 (4)
  • 2015年03月 (4)
  • 2015年02月 (4)
  • 2015年01月 (4)
  • 2014年12月 (4)
  • 2014年11月 (5)
  • 2014年10月 (4)
  • 2014年09月 (4)
  • 2014年08月 (5)
  • 2014年07月 (4)
  • 2014年06月 (4)
  • 2014年05月 (4)
  • 2014年04月 (4)
  • 2014年03月 (5)
  • 2014年02月 (4)
  • 2014年01月 (3)
  • 2013年12月 (4)
  • 2013年11月 (5)
  • 2013年10月 (5)
  • 2013年09月 (5)
  • 2013年08月 (4)
  • 2013年07月 (4)
  • 2013年06月 (5)
  • 2013年05月 (5)
  • 2013年04月 (4)
  • 2013年03月 (5)
  • 2013年02月 (4)
  • 2013年01月 (4)
  • 2012年12月 (5)
  • 2012年11月 (3)
  • 2012年10月 (4)
  • 2012年09月 (5)
  • 2012年08月 (4)
  • 2012年07月 (4)
  • 2012年06月 (5)
  • 2012年05月 (4)
  • 2012年04月 (4)
  • 2012年03月 (6)
  • 2012年02月 (4)
  • 2012年01月 (2)
  • 2011年12月 (4)
  • 2011年11月 (5)
  • 2011年10月 (6)
  • 2011年09月 (5)
  • 2011年08月 (5)
  • 2011年07月 (5)
  • 2011年06月 (4)
  • 2011年05月 (4)
  • 2011年04月 (5)
  • 2011年03月 (5)
  • 2011年02月 (7)
  • 2011年01月 (5)
  • 2010年12月 (5)
  • 2010年11月 (4)
  • 2010年10月 (5)
  • 2010年09月 (5)
  • 2010年08月 (4)
  • 2010年07月 (5)
  • 2010年06月 (4)
  • 2010年05月 (5)
  • 2010年04月 (5)
  • 2010年03月 (9)
  • 2010年02月 (5)
  • 2010年01月 (5)
  • 2009年12月 (5)
  • 2009年11月 (5)
  • 2009年10月 (5)
  • 2009年09月 (4)
  • 2009年08月 (5)
  • 2009年07月 (4)
  • 2009年06月 (4)
  • 2009年05月 (5)
  • 2009年04月 (4)
  • 2009年03月 (5)
  • 2009年02月 (3)
  • 2009年01月 (5)
  • 2008年12月 (4)
  • 2008年11月 (5)
  • 2008年10月 (4)
  • 2008年09月 (4)
  • 2008年08月 (3)
  • 2007年06月 (5)
  • 2007年05月 (3)
  • 2007年04月 (3)
  • 2007年02月 (4)
  • 2007年01月 (3)
  • 2006年12月 (1)
  • 2006年11月 (2)
  • 2006年10月 (1)
  • 2006年09月 (6)
  • 2006年08月 (13)
  • 2006年07月 (6)
  • 2006年06月 (10)
  • 2006年05月 (2)
  • 2006年04月 (4)
  • 2006年03月 (3)
  • 2006年02月 (11)
  • 2006年01月 (10)
  • 2005年12月 (14)
  • 2005年11月 (17)
  • 2005年10月 (3)
  • 2005年09月 (27)
  • 2005年08月 (3)
  • 2005年02月 (3)
  • 2005年01月 (8)
  • LINKS

    SEARCH

    SEARCH