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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』27-3 28-1「ぼろ、ぞうきん、からす」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ルイ十五世は腕を組んでうつむいた。

「厳しい言葉だな。すると、そなたが咎めている問題とは、余がしでかしたことなのか?」

「そうでなければよいのですが! 何しろわたくしたちが生きている時代の問題なのですから。陛下もわたくしたち同様に流されているのです。王権を野次った些細な仄めかしに、桟敷がどっと湧くのをお聞き下さいませ。上機嫌の人々が中二階の小階段を大きな音を立てて降りているというのに、大理石の大階段は薄暗く人気がないのをご覧下さいませ。国民も廷臣も、わたくしたちとは別のところで楽しみを見出しているのです。あの者たちはわたくしたち抜きで楽しんでおります。いえむしろ、あの者たちが楽しんでいるのを知って、わたくしたちが悲しんでいるのです」王女の声が愁いに沈んだ。「ああ! 哀れな人たち! あなたたちは愛することも、歌うことも、忘れることも出来るのです。どうか幸せに身を委ねて下さい! わたくしはここで皆さんを苦しめていましたが、向こうではきっとお役に立ちましょう。ここでは皆さんがわたくしの機嫌を窺って楽しげな笑いを引っ込めていますが、向こうではわたくしが祈りを――心からの祈りを捧げるつもりです。王のために、姉君たちのために、甥たちのために、フランス国民のために、あなたたちみんなのために。尽きることなき情熱の限り心から愛するもののために」

「お願いだ」打ち沈んでいた国王が口を開いた。「どうか何処へも行かないでくれ――せめてしばらくは……。余はひどく傷ついておる」

 ルイーズ・ド・フランスは父王の手を取り、愛を込めてその気高い顔を見つめた。

「いいえ、いけません。宮殿には後一時間もいられません。今は祈るべき時なのですから! 陛下が味わう喜びを、わたくしの悲しみであがなうことが出来ましょう。陛下はまだお若く、優れた父親でございます。どうかお許し下さいまし」

「ここに残ってくれ、ルイーズ、お願いだ」国王は娘をぎゅっと抱きしめた。

 王女は首を横に振った。

「わたくしの国はこの世にはございません」国王の抱擁から逃れて、悲しげにそう答えた。「お別れです、父上。二十年間心に溜め込んで来たことを今日申し上げることが出来ました。これまでは心の重荷に息が詰まりそうでした。お別れです。わたくしは心満ちております。ご覧下さい。わたくしは笑っておりますでしょう? 今日ほど幸せな日はございませんでした。惜しむものなど何一つございません」

「余のことさえもか?」

「もう会ってはならないのであれば、名残を惜しみもいたします。ですが時にはサン=ドニにいらして下さい。覚えていて下さればそれでいいのです」

「無論だ、忘れるものか!」

「待ちわびたりはなさいますな。永い別れではないと信じましょう。姉君たちはまだ何も知らない――と思います。侍女たちにしか打ち明けておりませんから。八日前から準備をして参りました。後はただどうか、別れを騒ぎ立てるのは、サン=ドニの重い扉の音が聞こえてからにして下さいまし。そうすれば扉の音にかき消されて、ほかには何も聞こえませんから」

 その意思の堅いことは目を見ればわかった。もっとも、ひっそりと発つのならその方がよい。泣き明かされて決心が鈍るのをマダム・ルイーズが恐れているというのなら、王の方は神経がすり減るのをそれ以上に恐れていた。

 それに、マルリーに行きたかった。ヴェルサイユでは大変なことが多すぎて、しばらく何処へも行けそうにない。

 ようやく悟った。王としても父としても相応しくない愁嘆場が終わってしまえば、もうこの厳しげで悲しげな顔を見ることはないのだ。あの顔を見るといつも、暢気で怠惰な生活を非難されているようだったというのに。

「では望み通りにするがよい。だがせめて父の祝福だけは受け取ってくれ。これまではそなたが幸せを与えてくれたのだからな」

「ではどうかお手を。口づけをいたします。祝福はお心の中でお与え下さい」

 王女の決意を知らされた者たちにとって、それは崇高で厳粛な光景だった。王女は一歩、また一歩と、祖先たちに近づいて行った。王女が生きながら墓の中で落ち合おうとしていることに、祖先たちは金の額縁の奥から感謝しているようだった。

 戸口で王は娘に一礼し、一言も言わずに引き返した。

 作法に倣って廷臣がその後に続いた。


第二十八章 ぼろ、ぞうきん、からす

 国王はle cabinet des équipagesに向かった。狩りや散歩の前にそこで時間を取り、その後の一日に必要な下働き(?)について殊に命令を出すのが習慣なのである。

 回廊の端で廷臣たちに挨拶し、一人になりたい旨を伝えた。

 一人きりになったルイ十五世は、l'appartement de Mesdamesに通ずる廊下を歩き続けた。タペストリーで塞がれた戸口に着くと、立ち止まって首を振った。

「いい娘は一人だけだったが」と洩らした。「もう行ってしまったな!」

 今もそこに残る娘たちにとっては随分と不愉快なこの金言に答えて、声がはじけた。タペストリーが上がり、三重奏の挨拶が飛んで来た。

「それはどうも、お父様!」

 ルイ十五世はほかの三人の娘たちに囲まれていた。

「ああ、そなたか、ぼろ」国王は年上の娘マダム・アデライードに声をかけた。「残念だが、怒る怒らぬは別にして、余は事実を言ったまでだ」

「そうね!」マダム・ヴィクトワールが口を聞いた。「今に始まったことじゃありませんものね。陛下はいつだってルイーズがお気に入りでしたもの」

「これは一本取られたな、ぞうきん」

「でも何だってルイーズの方がお気に入りなのかしら?」マダム・ソフィーの声には棘があった。

「ルイーズは余を困らせたりはせぬからな」ルイ十五世はわがままを言う時には、ものの見事に無邪気さを見せる人間なのである。

「そのうち困らせられることになりますから、ご安心を」マダム・ソフィーの声には棘があったため、おのずから国王の目が引き寄せられた。

「何故わかる、からす? ルイーズが出がけに打ち明けたのか? 驚いたな。あの娘はそなたのことがあまり好きではないと思っておった」

「それはそうでしょうけど、お互い様よ」

「見事だ! 憎め、嫌え、苛め、というわけか。余をわずらわせないでいてくれるなら、アマゾン族の国を平定しようと一切構わぬ。だが教えてくれぬか、何故あの可哀相なルイーズが余を困らせるのだ?」

「可哀相なルイーズですって!」マダム・ヴィクトワールとマダム・アデライードが揃って声をあげ、思い思いに口を歪めた。

「ルイーズが困らせる理由ですか? わかりました。今から申します、父上」

 国王は戸口近くの椅子に坐った。これでいつでも逃げ出せる。

 ソフィーが続けた。「マダム・ルイーズは、シェルの修道院長をそそのかした悪魔に取り憑かれて、いろいろなことをしたくて修道院に入るのよ」

「さあさあ、お願いだから、妹の貞節を当てこするようなことはやめてくれ。誰一人として表立っては何も言わぬというのに、言葉だけは溢れておる。そなたももうやめよ」

「わたくしが?」

「さよう、そなただ」

「貞節の話などしておりません」マダム・ソフィーは『そなた』という父の言葉にひどく気分を害した。そこだけが強調されていたうえに、わざとらしく繰り返されていたのだ。「いろいろなことをするだろうと言っただけです」

「そうかね? 化学の実験をしたり、剣を習ったり椅子の車輪を作ったり、フルートを吹いたり太鼓を叩いたり、チェンバロを奏でたり弦を掻き鳴らしすることの、どこが悪い?」

「政治に手を出すと申し上げてるんです」

 ルイ十五世は震え上がった。

「哲学と神学を学び、ウニゲニトゥス勅書に註釈を加えるのでしょう。そうやってあの娘が政治学に観念体系、神学の教えを受けてしまえば、わたくしたちは役立たずに見えますけど……」

「それで妹が天国に行けるのなら、良いではないか?」そうは言ったものの、からすの非難とマダム・ルイーズの激しい弾劾との間に共通点があることに、随分と驚いていた。「あの娘の至福を妬んでおるのか? それでは良いキリスト教徒とは言えまいに」

「まさか!」マダム・ヴィクトワールが声をあげた。「天国に行きたいのなら行かせてあげます。でもついて行く気はありませんから」

「わたくしも」マダム・アデライードが言った。

「わたくしも」マダム・ソフィーも言った。

「だいたい、わたくしたちは嫌われてたんですもの」マダム・ヴィクトワールが続けた。

「そなたたちがか?」

「ええ、わたくしたちが」「わたくしたちが」と残りの二人がそれに答えた。

「つまり、ルイーズが天国を選ぶのは、二度と家族に会いたくないからだと言いたいのか!」

 この軽口に三人の娘は作ったような笑いを見せた。

 マダム・アデライードは頭を絞り、これよりもさらに辛辣な攻撃を与えようとした。鎧をかすめるだけではなく、貫いてやろう。

 だらしないせいで父から「ぼろ」という名を頂戴した時のような声を出した。「皆さんは、マダム・ルイーズが出て行った本当の理由に気づいていないし、わざわざ口に出したりもしてませんから」

「また何か企んでおるな。よかろう、ぼろ、言い給え!」

「もしかすると陛下を困らせてしまうかもしれませんから」

「困らせたいというのが本音だろう」

 マダム・アデライードは唇を噛んだ。

「でもこれから申し上げることは真実です」

「それは結構。真実か! ではあんなことを言うのはよすがいい。余はそんなことを言ったかな。真実? ありがたいことに、余はそれほど耄碌してはおらぬ」

 そう言ってルイ十五世は肩をすくめた。

「早く仰いよ」二人の妹が、競うように口を開いた。必ずや王が傷つくに違いないというその話の内容を、知りたくてたまらないのだ。

「こやつらと来たら――」ルイ十五世は呟いた。「父親を何だと思っておるのだ!!」

 だがまんまと意趣返ししてやったのが、せめてもの慰めだ。

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