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『ジョゼフ・バルサモ』「マダム・ド・ベアルン」 29-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第二十九章 マダム・ド・ベアルン

 宮廷中が望んでいた、或いは恐れていたこの嵐の一番の原因、この騒ぎの躓きの石は、ションが兄に伝えたように、ベアルン伯爵夫人が大急ぎでパリに向かっていることであった。

 これこそは、苦境に陥っていたジャン子爵が考え出した解決策の一つであった。

 代母なしではデュ・バリー夫人の謁見式を行うことが出来ない以上、是が非でも代母が必要なのだが、宮廷では見つけることが出来なかったため、地方に目を向け、各地を探り、町や村を探し回り、ムーズ(Meuse)の外れにある古めかしいが小ぎれいな家で、遂に必要な人物を探し当てたのである。

 探し当てたのは、年経た訴訟を起こしている年経た婦人だった。

 訴訟を起こしている老婦人の名は、ベアルン伯爵夫人という。

 その訴訟には全財産がかかっており、全財産はモープーにかかっていた。つい最近デュ・バリー夫人側に納まったこのモープー、そうなった途端に実は遠い親戚だったとかで、それ以来デュ・バリー夫人を従姉妹と呼んでいる。法務省を狙っているモープーは、この寵姫のため今日は友情、明日は献身(?)と余念がなかった。その甲斐あって国王からは副大法官《vice chancelier》に任命されたが、人からは縮めて「Vice(※「副」のほかに「悪徳」という意味もある)」と呼ばれている。

 ベアルン夫人は、エスカルバニャス伯爵夫人やパンベシュ夫人【それぞれモリエール『エスカルバニャス伯爵夫人』、ラシーヌ『裁判きちがい』の登場人物】そっくりそのままの年老いた訴訟人だった。二人ともこの当時の典型的人物であり、さらにはご存じのように世に知られた人物であった。

 矍鑠として、痩せ形、骨張った身体つき、警戒心が強く、白い眉の下で猫が驚いたような目をぎょろつかせている。若い頃の服を今も着ていたが、ファッションとは気まぐれなもので、一七四〇年に若い娘が着ていた服を一七七〇年の老婦人が身につけても、時にはしっくり来てしまうこともあった。

 ゆったりとしたギピュール、ぎざぎざのケープ、大きな帽子《コワフ》、大きなポケット、大きなバッグ、花柄の絹のネッカチーフ。デュ・バリー夫人の最愛の姉妹でもあり忠実な友人でもあるションが、辯護士の娘のフラジョだと名を偽ってベアルン夫人を訪れた時、夫人はこのような恰好をしていたのである。

 老伯爵夫人がそんな恰好をしていたのは――言うまでもなく服装の話だが――趣味の問題はもちろん経済的な問題も大きい。夫人は貧乏を恥じるような人間ではなかった。貧しいのは自分のせいではないのだから。ただ一つ心残りなのが、息子のために肩書きに相応しい財産を遺してやれないことだった。娘のように素朴で控えめなこの若者は、名声や評判よりも、実生活に実りをもたらす甘露の方を愛していたのである。

 もっとも、「我が土地」と呼べる財産が残ってはいたが、その土地は辯護士がサリュース家と係争中であった。無論、もののわかったご婦人であるが故に、以下のことはよく理解していた。土地を元に金を借りようと思えば、高利貸しは不適切だ。当時のフランスでは恥知らずで通っていたのだから。代理人も論外だ。どの時代でもあくどいものと決まっている。担保に見合った金額を貸してはくれぬだろうし、あるいは返済額上の最低限の金額しか貸してくれまい。

 それ故に、収入や使用料は訴訟とは無関係の土地からのものに限られることとなり、年収が千エキュほどになったベアルン伯爵夫人は法廷に近づかなかった。というのも、判事や辯護士の許へと請願者を運んでゆく四輪馬車の借り賃には、一日当たり十二リーヴルが必要だったのだ。

 四、五年前から順番待ちの関係書類を開くのも諦めてしまったのだから、なおさらだった。昨今の訴訟がいくら長いとはいえ、族長の年齢までは生きなくとも、終わりを見届ける目処は立つ。一方、かつての訴訟は二、三世代を跨いでいた。千一夜物語に描かれたあの植物のように、花をつけるまでに二、三百年かかるのである。

 ところでベアルン夫人は、費やされた十二分の十ほどを取り返すために財産の残りを使い果たすつもりはなかった。既に見てきた通り、どの時代にも古い女と呼ばれるような、言いかえるなら賢明、慎重、強靱、倹約家なのである。

 もちろん、自分自身で訴訟に取り組んでいたなら、召喚、辯護、執行にしても、検事や辯護士、諸々の官吏などより上手く行えたはずだ。だが夫人の名前はベアルンであり、それ故の障碍が多々あったのである。その結果、無念と苦悶に呻吟した。聖アキレウスが死ぬほどの悲痛に苦しみ、喇叭の響きも聞こえぬふりをして天幕に引き籠もったときの如く、ベアルン夫人は鼻眼鏡越しに古い羊皮紙を読み取って一日を過ごしていた。夜にはペルシアの部屋着を羽織り、灰色の髪をなびかせ、サリュース家の言い分に対し枕頭で辯護した。いつも辯舌さわやかに満足すべき勝利を収めていたため、辯護士にも同じような状況を求めていた。

 このような事情であったので、ションがフラジョと名乗って現れた時、ベアルン夫人の胸に温かい気持が生まれたのもご理解いただけよう。

 若き伯爵は軍務に就いていた。

 人は信じたいものを信じる。ベアルン夫人もションの話に至極あっさりと引っかかってしまった。

 だが疑いの影はいくつかあった。伯爵夫人はフラジョ先生のことを二十年前から知っていた。プチ=リヨン=サン=ソヴール(Petit-Lion-Saint-Sauveur)街まで何百回も訪問させられていたが、部屋の広さわりには小さすぎるように見える四角い絨毯には一度も注意を払わなかった。絨毯の上、客たちに飴玉をせしめに来る子供の目には一度も注意を払わなかった。

 だが辯護士の絨毯のことはよく考えるべきであった。その上で遊んでいるはずの子供のことをちゃんと思い出すべきであり、つまりはしっかりと記憶を掘り起こすべきであった。フラジョ嬢はフラジョ嬢。それだけではないか。

 そのうえ彼女は結婚しているというし、様々な不安に対して決定的だったのは、わざわざヴェルダンに来たわけではなく、これからストラスブールで夫と落ち合う予定だったということだ。

 恐らくベアルン夫人はフラジョ嬢に身元を保証するような手紙を求めるべきだったのだろう。だが、父が娘を、それも己が娘を責任者(代理人?)として遣わす時に、手紙が必要だろうか? それに、重ねて記すが、このような恐れを抱いて何になろう? そんな疑いを持ってどうなるというのだ? どんな目的があって、こんな話をしにわざわざ六十里もの道をやって来るというのだ?

 夫人が裕福であったなら、銀行家や徴税請負人やパルチザンの妻のようにお供や食器や宝石を持ち出さなければならなかったとしたら、泥棒が何か企んでいると考えたかもしれない。だが自分を狙うようなあまり利口とは言えない泥棒のことを考えるとふと落胆を覚え、ひどく可笑しくなった。

 というわけで、ションがブルジョワ風の服装をして、一頭立てのみすぼらしい二輪馬車で――馬輿は二つ前の宿駅に置いてきたのだ――立ち去ると、ベアルン夫人の方でも此処を先途と確信し、古い四輪馬車に乗り込んで、御者を急がせた。その甲斐あって王太子妃より一時間早くラ・ショセを通過し、ション・デュ・バリー嬢に遅れること四、五時間でどうにかサン=ドニの市門にたどり着いた。

 手ぶら同然のベアルン夫人にとって、真っ先に欲しいのは情報だったため、プチ=リヨン街のフラジョ先生の門前で馬車を止めた。

 ご想像の通り、野次馬が来ない訳がない。パリっ子はこぞって、アンリ四世の厩舎から抜け出たような、この古くさい馬車の前で立ち止まった。がっしりしたところといい、馬鹿でかい図体といい、しなびた革の窓掛といい、青錆の浮いた銅の車軸の上で恐ろしい軋みをあげて走るところといい、かの尊敬すべき車を思わせるではないか。

 プチ=リヨン街は広いところではない。馬車がそこを堂々と占領していたため、ベアルン夫人は御者たちに代金を支払い、いつも降りているサン=ジェルマン=デ=プレの旅籠『時の声(Coq chantant)』まで移動させた。

 夫人は油で汚れた綱につかまり、フラジョ家の暗い階段を上った。冷え冷えとした空気に満ちており、急ぎ逸った旅でくたくたの老人には随分とこたえた。

 女中のマルグリットが伯爵夫人の来訪を知らせた時には、フラジョ氏は暑さのせいでずり落ちた半ズボンを引っ張り上げ、常に手元に置いている鬘をかぶり、綾織の部屋着を羽織っていた。

 こうした恰好のまま微笑みを浮かべて戸口に歩み寄った。だがこの微笑みにはっきりと驚きが含まれているのを感じ取り、伯爵夫人は声をあげずにはいられなかった。

「まあどうしたんですか、フラジョさん! 私ですよ!」

「ええ、わかってますとも、伯爵夫人」

 弁護士は部屋着の前を合わせ、部屋の一番明るい場所にある革椅子まで伯爵夫人を連れて行った。夫人の好奇心を承知しているが故に、そうやってさり気なく事務机の書類から遠ざけたのだ。

「それでは伯爵夫人」とフラジョは紳士的に切り出した。「ようこそおいで下さいました。驚きましたよ」

 ベアルン夫人は椅子に深く腰かけ、今は足を上げていた。マルグリットが革のクッションを用意して、床と繻子織り靴のあいだに入れる隙間を作っていたのである。それがフラジョの言葉を聞いて、急いで身体を起こした。

「何ですって! 驚いた?」夫人はフラジョをもっとよく見ようと、ケースから眼鏡を取り出し鼻に挟んだ。

「地所にいらっしゃるものと思っておりましたから」お世辞が口から出て、わずか三アルパンの菜園をこう呼んだ。

「その通りですとも。でもあなたから報せがあったから、飛んで来たんじゃありませんか」

「私から報せが?」

「報せでも通知でも助言でも、何とでもお好きなように」

 フラジョ氏の目が、伯爵夫人の眼鏡のように大きくなった。

「こうして急いでやって来たのも、嬉しい報せがあるんじゃないかと期待したからですよ」

「お会い出来たのは嬉しいのですが、どういうことでしょうか。私にやれることがあれば仰って下さい」

「やれることですって?……全部ですよ。というか、あなたが全部やったんじゃないんですか」

「私が?」

「あなたですよ……じゃあ何か新しい出来事は?」

「ええ、ありましたよ。国王が議会に対しクーデターを計画しているそうです。それより何かお出ししましょうか?」

「国王のことも大事ですし、クーデターのことも大事でしょうけどね」

「ではほかに何が?」

「私の訴訟じゃありませんか。新しいことが何もないんでしたら、訴訟のことが知りたいんですよ」

「ああ、それでしたか」フラジョ氏が残念そうに首を振った。「何も。何もありません」

「何もないというのはつまり……」

「何もないってことです」

「ありませんか。お宅のお嬢さんが話してしまいましたものね。お話を聞いたのは一昨日でしたからね、あれからでは、まだ新しい情報もないと思ってましたよ」

「私の娘ですか?」

「ええ」

「私の娘と言ったんですか?」

「娘さんですよ。あなたのお使いでいらした」

「ですが伯爵夫人、娘を使いにやるのは不可能です」

「不可能ですって?」

「火を見るよりも明らかです。私には娘がありませんから」

「まさか?」

「伯爵夫人、私は花の独身ですよ」

「おやおや!」

 フラジョ氏は不安になった。マルグリットを呼んで、伯爵夫人に冷たいものを持ってくるよう言いつけたが、実は伯爵夫人を見張って欲しかったのだ。

 ――可哀相に。頭がおかしくなってしまったんだな。

「それじゃあ、お嬢さんはいないんだね?」

「おりません」

「ストラスブールで結婚している娘さんが?」

「おりません。何度聞かれても同じですよ」

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