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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』30-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ベアルン夫人は改めて礼をしたものの、はたと押し黙ってしまった。それというのもいい加減で挨拶をやめて、用件を切り出さなくてはならなかったからだ。

 モープー氏は顎を撫でて待っていた。

「閣下、畏れながら重大な訴訟についてお話しすることをお許しいただけますか。私の全財産がかかっておりますのです」

 モープー氏は軽く頭を動かした――話しなさい。

「実は閣下、私の全財産、と言いますか息子の全財産のことで、目下サリュース家に訴訟を起こしていることはご存じかと思います」

 副大法官はなおも顎を撫でていた。

「ですけど閣下が公正なことは良く存じ上げておりますから、私の訴訟相手にご好意を――いえ、ご親交を結んでいらっしゃるのはわかっていながら、話を聞いていただきに伺うことを一瞬でも躊躇ったりはしませんでした」

 モープー氏は、公正というお世辞を聞いて微笑みを禁じ得なかった。五十年前にデュボワ(Dubois。枢機卿の Guillaume Dubois のことか?)が使徒の如き美徳だと褒めそやされたことがあったが、公正とはそれに相応しい言葉ではなかろうか。

「伯爵夫人、サリュース家の友人だというのは認めます。だがひとたび公印を手にすれば友情は脇に置いている。そのことはあなたにも認めてもらわなければ。正義の長に相応しからんとして、個人的なことには断じて関心を払ってはいません」

「ああ閣下! 祝福あれ!」

「だから、一法律家として訴訟に当たりましょう」

「ありがとうございます。さすがでございますね」

「確か、訴訟はもう間もなくでしたね?」

「来週なんです」

「では、どうしろと?」

「書類を調べていただきたいのです」

「もう済ませました」

「ではどう思われました?」伯爵夫人は身震いした。

「あなたの訴訟のことかな?」

「ええ」

「疑問の余地はありませんね」

「え? 勝訴がですか?」

「いいえ、敗訴がです」

「訴訟に負けると仰るんですか?」

「まず間違いありません。だから助言いたしましょう」

「何でしょう?」伯爵夫人は望みの綱にしがみついた。

「払わなくてはならないお金があるようなら、訴訟が裁かれ、判決が下され時には……」

「ええ」

「ええ、現金を用意しておくことです」

「でもそれじゃあ破産してしまいますよ!」

「いいですか伯爵夫人、そういった事情には立ち入ることは出来ません」

「でも閣下、正義にも情けもございませんか」

「それが理由ですよ、正義が目隠しされているのは【※正義の女神は目隠しをして表される】」

「でも、それでも閣下は助言を下さいますよね」

「どうぞ。何が望みです?」

「示談に持ち込んだり、もうちょっと軽い判決をもらうことは出来ないんですか?」

「法官に知り合いはないのですね?」

「おりません」

「それはお気の毒に! サリュース家は高等法院の四分の三とつきあいがありますよ」

 伯爵夫人がぶるぶると震えた。

「いいですか」副大法官は話を続けた。「そんなことはたいした問題ではありません。法官とは個人的な事情に左右されてはならぬのです」

 これもまた事実である。大法官が公正であり、あのデュボワが使徒の如き美徳を有していたのと同じことだ。伯爵夫人は気を失いそうになった。

「だが如何に公明正大とはいえ、他人のことよりは友人のことを考えるものです。当然といえば至極当然。あなたが訴訟に負けるのも致し方ないとも言えるでしょうし、極めて不愉快な結果になる可能性もあるでしょう」

「でも閣下のお話を聞いていると、ぞっと致しますね」

「個人的な見解は差し控えます。他人にとやかくは言えませんし、それに私自身が裁く訳ではありませんから。ですからお話しも出来るのですが」

「閣下、一つ思いましたんですけどね」

 副大法官はその小さな灰色の瞳で、老婦人を見つめた。

「サリュース家はパリで暮らしてますし、高等法院の方々とおつきあいがあるし、要するに無敵じゃありませんか」

「何せあの方たちにも権利はありますから」

「閣下のように完璧な方の口からそのような言葉を聞くと、ひどく気が滅入りますよ」

「申し上げたことに嘘偽りはありませんが」モープーは善人を装って答えた。「でもだからこそ、私の言葉をお役に立てて貰いたい」

 伯爵夫人はぞくりと震えた。副大法官の言葉の内に、いや少なくとも思いの内に、仄暗いものを見たような気がしたのだ。とは言え、曇りが晴れればその向こうには善意が見えたことだろう。

「それに、あなたのお名前はフランスでも有数のお名前ですから、かなり強力な武器になるのではありませんか」

「誰か敗訴を防いでくれる人はおりませんか、閣下?」

「私には無理です」

「ああ、閣下、閣下!」伯爵夫人は激しく首を振った。「何もかもどうなってしまうんでしょう!」

「こうお考えではありませんか」モープーは笑みを浮かべていた。「我々が生きていた古き時代には、何もかもうまくいっていた、と」

「ええ、そう感じてますよ。あの頃のことを思い出すとわくわくします。高等法院の一弁護士だったあなたは、立派な演説を行っていましたね。私も当時はまだ若くて、熱烈な拍手を送っていましたっけ。ああ、興奮? 演説? 美徳? ああ、大法官さん、あの頃には、謀り事も依怙贔屓もありませんでした。あの頃なら、きっと訴訟にも勝っていましたとも」

「摂政公が目を閉じている間に政治を操ろうとしたファラリス夫人がいたし、何かと齧り取ろうとして何処にでも潜り込んでいたラ・スーリ(二十日鼠)もいましたがね」

「閣下、ファラリス夫人は立派な貴婦人でしたし、ラ・スーリも素敵なお嬢さんでしたよ!」

「誰もあの人たちを拒むことは出来なかった」

「あの方たちに拒む術がなかったのかもしれませんよ」

「いや参った! 伯爵夫人」大法官が笑い出したので、老婦人はいよいよ吃驚した。それほどまでに気兼ねない自然な様子だったのだ。「昔を懐かしむのにかこつけて、政府の悪口を言わせようとは人が悪い」

「ですけど閣下、嘆かずにはいられませんよ。財産をなくして、永久に家を失ってしまうんですから」

「もうあの頃ではないんです。今は今の崇拝対象を追いかけなさい」

「でも閣下、あの人たちは手ぶらで崇拝しに来る人なんか相手にしませんよ」

「どうしてわかります?」

「え?」

「ええ。多分、試してみたわけじゃないのでしょう?」

「ああ閣下、ご親切に。お友だちみたいに話して下すって」

「同い年ではありませんか」

「どうして私は二十歳じゃないんでしょうねえ、閣下。それにあなたが今も一介の弁護士だったら! そうしたら私を弁護してくれたでしょうし、サリュース家があなたと対峙する(?)こともなかったでしょうに」

「残念だが私たちはもう二十歳ではありません」副大法官は無礼にならぬように溜息をついた。「ですから二十歳の人間に任せましょう。あなたご自身、人の上に立つお年なんですから……そうか! 宮廷にお知り合いはいないんですね?」

「隠居した老貴族が何人かいますけど、古い友人のことは恥じていることでしょうよ。こんなに貧しくなってしまったんですもの。ねえ閣下、私もヴェルサイユに参上することは許されてるんですから、その気になれば行くことは出来るんですよ。でもそんなことをしても無駄じゃありませんか? 二十万リーヴル取り戻しでもすれば、また人も寄って来るでしょうけど。どうか奇跡を起こして下さい、閣下」

 大法官は最後の一言には気づかぬふりをした。

「私なら旧友のことは忘れますよ。向こうでも忘れているのだから。私なら支持者を欲しがっている若者たちのところに行きますがね。マダムたちとはお近づきでは?」

「私なんか忘れられてますよ」

「では無理ですね。王太子とは?」

「全然」

「もっとも、ほかのことを考えたくても、大公女のことで頭がいっぱいでしょうがね。それでは寵臣たちに移りましょうか」

「もうお名前すら存じ上げませんよ」

「デギヨン氏のことは?」

「お調子者だとかひどい話を聞いてますけどね。他人に戦わせておいて小屋に隠れていたとか……まったく!」

「いけませんな! 噂など話半分にも信じてはなりません。次に行きましょうか」

「ええ、続けて下さい、閣下」

「だがどうして? いや……うん……大丈夫……」

「仰って下さいよ」

「どうして伯爵夫人ご本人にお話しなさらないのです?」

「デュ・バリー夫人に?」老婦人は扇を広げた。

「何せ親切な方ですから」

「そうですねえ!」

「それに本当に世話好きな方で」

「私くらい古い家柄でしたら、きっと喜んでもらえますね」

「さあ、どうでしょうか。格式の方を求めてらっしゃるようですが」

「そうなんですか?」既に抵抗の意思は揺らいでいた。

「お知り合いですか?」

「まさか。存じ上げません」

「それは……あの人なら信頼出来ると思ったのですが」

「ええ、そりゃそうですとも。でもお会いしたこともないんです」

「妹のションにも?」

「ええ」

「ビシにも?」

「ええ」

「兄のジャンにも?」

「ええ」

「黒んぼのザモールにも?」

「黒んぼですって?」

「そうです、黒んぼも頭数に入ってます」

「ぞっとする肖像画がポン=ヌフで売られていましたけど、あの服を着たパグそっくりの?」

「その通り」

「黒ん坊と知り合いかと仰るんですか!」誇りを傷つけられた伯爵夫人が叫んだ。「黒んぼと知り合いだといいことでもあるんですか?」

「すると、土地を守りたくはないのですね」

「どうしてです?」

「ザモールを軽蔑しているようですから」

「でもそのザモールに何が出来るというんですか?」

「勝訴に導くことが出来るくらいですがね」

「そのアフリカ人が? 訴訟に勝たせてくれるんですか? いったいどういうことですか」

「あなたを訴訟に勝たせたいと夫人に口添えするんです。結果はお分かりでしょう……。ザモールは夫人にお願いし、夫人は国王にお願いする」

「ではフランスを動かしているのはザモールなんですか?」

「然り!」モープーがうなずいた。「私なら……そう、王太子妃のご不興を蒙る方を選びますな、ザモールの機嫌を損ねるよりは」

「信じられません!」ベアルン夫人が声をあげた。「閣下のような真面目な方のお話でなければ……」

「いやいや、誰に尋いても同じことを言いますよ。マルリーやリュシエンヌに行かれたら、ザモールの口にお菓子を放ったり耳飾りを贈ったりするのを忘れていないかどうか、公爵や貴族におたずねになってご覧なさい。あなたとこうして話しているのは誰なのか、フランスの大法官か何かではないかと仰いますか? いやはや! あなたがいらっしゃった時、私が何をしていたとお思いです? 領主(gouverneur)の書類を作成していたのです」

「領主ですか?」

「ええ、ザモール氏はリュシエンヌの領主に任命されたのです」

「それはベアルン伯爵が二十年お勤めした褒美にいただいた肩書きと同じじゃありませんか?」

「ブロワ城の領主でしたな。その通りです」

「馬鹿にするにもほどがあるじゃありませんか! それでは君主制は終わってしまったんですか?」

「弱っているのは事実です。だが瀕死の病人からは、搾れるだけ搾り取るものです」

「そうでしょうけどね。それには病人に近づかなくちゃなりませんよ」

「デュ・バリー夫人に歓迎されるためにはどうすればいいかご存じですか?」

「どうすればいいんです?」

「黒んぼ宛てにこの書状を運んでいただかなくてはなりません……きっと歓迎されることでしょう!」

「そうなんですか?」伯爵夫人はがっくりとした。

「間違いありません。だが……」

「だが……?」ベアルン夫人が繰り返した。

「だが夫人に近しいお知り合いがいないのですね?」

「でも閣下は?」

「私ですか!……」

「ええ」

「私はちょっとまずいでしょう」

「まあそうでしょうねえ」老婦人は哀れにも様々な葛藤に押しつぶされていた。「もう運にも見放されたんでしょうね。閣下にはお会いすることすら諦めていたのに、こんな風に歓迎していただいたのは初めてでした。でも、まだ足りないんですから。覚悟を決めてデュ・バリー夫人にお願いするだけじゃあなく、この私ベアルンがデュ・バリー夫人にお会いするため、黒ん坊の使いっ走りをする覚悟までしているのに。道で出会っても侮辱しなかったでしょうに、その怪物にさえ会うことが出来ないなんて……」

 モープーは考え込むように顎を撫でていたが、その時不意に取次・随身が来客を告げた。

「ジャン・デュ・バリー子爵です!」

 この言葉に、大法官は手を叩いて唖然とし、伯爵夫人は椅子に倒れ込んで脈も呼吸も止まってしまった。

「天運に見捨てられたですと! 伯爵夫人、それどころか、天はあなたのために戦っていましたよ」

 そう言うと大法官は随身に向かって指示を出した。伯爵夫人が我に返る暇すらなかった。

「お通ししろ」

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