翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』32-1 「国王、退屈す」 アレクサンドル・デュマ

第三十二章 国王、退屈す

 マルリーに発っていた国王は、かねて伝えていた通り、午後三時頃になると命令を出し、リュシエンヌに向かわせた。

 王からの書き付けを受け取ったデュ・バリー夫人も急いでヴェルサイユを発ち、出来たばかりの素敵な住居で待っているはずであった。国王は既に何度か訪問を重ねていたが、夜を過ごしたことは一度としてなかった。国王がいみじくも弁明した通り、リュシエンヌは王城ではないのである。

 それ故に、いざ着いてみると、偉そうに領主ぶったザモールが鸚哥の羽を抜いてもてあそび、鸚哥は鸚哥で咬みつこうと反撃しているのを見て、驚いてしまった。

 この二者は宿敵なのだ。ショワズールとデュ・バリー夫人のように。

 国王は小部屋に入って供の者を帰した。

 王国一好奇心が強いくせに、普段から臣下にも従僕にもものをたずねたりはしなかった。だがザモールは従僕でもなかった。尾巻猿や鸚哥と同列の存在だった。

 それ故、王はザモールにたずねた。

「伯爵夫人は庭かね?」

「いいえ、ご主人さま」ザモールが答えた。

 リュシエンヌではデュ・バリー夫人の思いつきで「陛下」という尊称が用いられず、代わりにこの「ご主人さま」が用いられていた。

「では鯉のところかね?」

 莫大な費用を掛けて山に湖を掘らせ、水路から水を引き、ヴェルサイユにいる中でも立派な鯉を運ばせたのだ。

「いいえ、ご主人さま」またもザモールはそう答えた。

「では何処に?」

「パリに」

「パリだと!……伯爵夫人はリュシエンヌに来ておらぬのか?」

「はい、ご主人さま。ただしザモールに後を任されました」

「して、何のために?」

「陛下をお待ちするためです」

「ははん! 余の出迎えをそなたに任せたというのか? それは面白い、ザモールのもてなしか! これはありがたい、伯爵夫人め」

 国王は口惜しそうに立ち上がった。

「いいえ!」黒ん坊が答えた。「ザモールがもてなすことはありません」

「何故だね?」

「ザモールは出かけますから」

「何処に?」

「パリに」

「では余は一人取り残されるのか。いよいよ結構。だがパリに何の用があるのかね?」

「バリー奥さまのところに行き、陛下がリュシエンヌにいると伝えに」

「ははあ、すると今の科白も伯爵夫人から仰せつかったのだな?」

「はい、ご主人さま」

「では、それまで何をしていればよいか、言づかってはおらぬか?」

「お前は寝てるだろうと仰いました」

 ――となると、と王は考えた。伯爵夫人はじきにやって来るし、何かまた驚かせるようなことがあるのだろう。

 国王は声に出して命じた。

「ではすぐに出かけて、伯爵夫人を連れて来なさい……いや、だがそなたはどうやってパリに行くつもりなのだ?」

「赤い鞍敷をつけた、大きな白馬に乗って」

「その馬でパリまでどのくらいかかる?」

「存じません。でも速く、速く、速く、駆けます。ザモールは速く駆けるのが好きです」

「そうかね。ザモールが速く駆けるのが好きとはありがたい」

 国王はザモールの出立を見送りに窓に向かった。

 背の高い従僕がザモールを馬に乗せた。危険に対して子供のように無頓着なこの黒ん坊は、大きな馬に跨り駆足《ギャロップ》で走り出した。

 一人残された国王は、何処か新しく見るところはないかを従僕にたずねた。

「ございます。ブーシェさまが伯爵夫人のお部屋に絵をお描きです」

「ほう! ブーシェか……あのブーシェがここに」王は満足げにうなずいた。「して、何処に?」

「四阿のお部屋でございます。ご案内いたしましょうか?」

「いや、結構。やはり鯉を見に行く方が良い。ナイフをくれ」

「ナイフ、でございますか?」

「うむ、それにパンを一つ」

 やがて従僕は、日本製の陶磁器に大きな丸パンを乗せて戻って来た。パンには長く鋭いナイフが刺さっている。

 国王はついてくるよう合図して、意気揚々と池に向かった。

 鯉に餌をやるのは王家の習慣だった。大王は一日たりとも欠かしたことがなかった。

 ルイ十五世は眺めのいい場所にある苔の上に腰を下ろした。

 まずは緑に囲まれた湖をぐるりと見渡した。向こうには丘に挟まれた村がある。西側の丘はヴィルジール(Virgile)の苔岩のように垂直に聳えており、そのせいで藁で葺かれた家々が、まるで箱に羊歯を詰め込んだ玩具のように見えた。

 さらに遠くには、サン=ジェルマンの切妻、巨大な階段、どこまでも広がる緑の台地。さらに遠くまで見遣れば、サノワとコルメイユの青い丘。そして、薔薇色と灰色にうっすらと色づいた空が、銅で作られた穹窿のようにそれらすべてを閉じ込めていた。

 崩れそうな空模様に木々の葉は黒く翳り、牧場の穏やかな緑と対照をなしていた。油のようにぬたりとした水面に時折ふっと穴が空き、紺碧の水底から銀色に輝く鯉が身を躍らせて、水面に長い脚を擦らせて飛ぶ羽虫を捕まえていた。

 大きな波紋が広がり、白と黒の混じった輪を作っていた。

 魚が物も言わず湖畔にも口を突き出しているのが見える。人も網も待ち受けていないのを承知していて、垂れた三つ葉をついばみ、草間を飛び回る灰色蜥蜴や緑蛙を(見えているのかも怪しい)無表情なぎょろ目で見てやろうとやって来たのだ。

 国王は時間の潰し方を心得ていた。景色をくまなく見渡し、村の家の数を数え遠くの村の数を数えた後で、傍らに置かれた皿からパンをつかみ、大きめに切り取った。

 ナイフがパンを削る音を耳にした鯉たちが、聞き慣れた食事の合図とばかりに、国王からよく見える場所まで近づいて来て、餌をねだり始めた。鯉たちは餌をくれる従僕の誰にでも同じように振る舞うのだが、国王としては無論のこと自分のために来てくれたのだと思っていた。

 一つまた一つと投げ与えたパン切れが、一旦沈んでから再び水面に浮かび上がり、しばらくは堪えて(?)いたが、やがて見る間に水に溶けてばらばらになり、すぐに見えなくなった。

 まことに面白い光景であった。見えない口につつかれたパン切れが、消えてなくなるまで水面で踊っている。

 半時間後、およそ百片ほども根気よくパンを切り取った国王陛下は、もはや一切れも浮かんでいないのを見て満足を感じていた。

 だがそれでも退屈だった国王は、ブーシェのことを思い出した。鯉に比べれば気晴らしとして魅力が落ちるのは否めないが、こんな田舎では、手に入るものを手に入れるしかあるまい。

 斯くしてルイ十五世は四阿に向かった。ブーシェは国王がいることを知らされていた。そのため絵を描きながら、否、絵を描くふりをしながら、国王を目で追っていた。国王が四阿の方にやって来るのを目にすると、大喜びで胸飾《ジャボ》を直しカフスを引き出し梯子に登った。リュシエンヌに国王がいるとは知らなかったふりをしろと言われていたのだ。床に足音が聞こえると、ふくよかなキューピッドに筆をつけ始めた。キューピッドは羊飼いの娘から薔薇を盗んでいるところで、娘は青いサテンのコルセットを身につけ、麦わら帽子をかぶっていた。ブーシェの手は震え、胸が高鳴っていた。

 ルイ十五世は戸口で立ち止まった。

「やあ、ブーシェ殿、何てテレビン油臭いんだ!」

 そう言って素通りしてしまった。

 いくら国王が芸術にうといとはいえ、ブーシェとしてはもう少し前向きな言葉を期待していたために、危うく梯子から転がり落ちるところであった。

 梯子から降りると、涙を浮かべて立ち去った。いつものようにパレットを擦りも筆を洗いもせずに。

 ルイ十五世陛下は時計を取り出した。七時だ。

 国王は城館に戻り、猿をからかい、鸚哥に口真似をさせ、次から次へと棚から陶磁器を引っぱり出した。

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