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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 33-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十三章 国王、楽しむ

 国王は力を見せつけたことに満足していた。認証式の悩みから解放してくれたとは言え、自分を散々待たせもした伯爵夫人を懲らしめてやったのだ。

 戸口に向かったところで、ションが再び戻って来た。

「おや! 従者を見なかったかね?」

「ええ、陛下。控えの間には誰もおりませんわ」

 そこで国王の方から戸口まで進み出た。

「誰かおらぬか!」

 答える者はない。反響すら聞こえぬ静寂にでも覆われているかのようだった。

 国王は部屋に戻り、「余が『危うく待つところだった!』【※ルイ14世の言葉。馬車が時間通りに来たときの負け惜しみ・皮肉。】と言った人間の曾孫だとは誰も信じぬだろうな」と言って窓を開けた。

 だが玄関前も同じように無人だった。馬も、馬丁も、衛兵もない。夜の闇だけが、月に照らされて目にも心にもしめやかに厳かに広がっていた。月の光はシャトゥの森の梢上で波のようにたゆたい、セーヌ川から幾片もの煌めきを吸い上げていた。物言わぬ巨大な蛇をくねくねとたどって行けば、ブージヴァルからメゾンまで、即ち差し渡し延べ四、五里をたどることが出来る。

 そのただ中で、五月にしか鳴かぬ夜鶯が歌を歌っていた。こんな美しい調べは春の初めにしか相応しくないとでもいうように。訪れたとも去るともつかない初春にしか――。

 こんな花鳥風月もルイ十五世には無意味だった。夢想家でも詩人でも芸術家でもなく、極めて現実的な人間であった。

「ほらほら伯爵夫人」国王は口惜しそうに口にした。「頼むから指示を出してくれ。まったく! もう冗談は終わりだ!」

「陛下ったら」伯爵夫人は可愛くすねてみせた。大抵はこれで上手くいく。「ここで指示を出しているのはあたくしじゃありませんわ」

「そうは言っても余でもないぞ。ご覧の通りだ、誰も従わん」

「あたくしでも陛下でもありません」

「では誰が? そなたか、ション?」

「あたし?」ションは部屋の反対側で、伯爵夫人の向かいに腰かけていた。「人の言うことをきくのも大変だし、わざわざ大変な思いをして指示を出そうとも思わないし」

「では誰が主人なのだね?」

「まあ! 領主殿です」

「ザモールか?」

「ええ」

「確かにそうだな。人を呼んでくれ」

 伯爵夫人は気だるげに腕を伸ばし、真珠の玉のついた絹紐を鳴らした。

 あらゆる場合に備えて予め指示を出されて控えていた従僕が、姿を見せた。

「領主は?」国王がたずねた。

「領主様は、陛下のために番をなさっています」従僕は恭しく答えた。

「何処だ?」

「巡回していらっしゃいます」

「巡回?」

「将校四人もご一緒です」

「マルボルー氏みたい!」伯爵夫人が叫んだ。

 国王は笑いを抑えることが出来なかった。

「うむ、滑稽至極だ。だがとにかく車に馬を繋いでくれ」

「それが、ごろつきがねぐらにせぬよう、領主様は厩舎を閉めておいでです」

「馬丁は?」

「召使い部屋です」

「そこで何を?」

「眠っております」

「何だと! 眠っている?」

「ご命令でございます」

「誰の命令だ?」

「領主様でございます」

「だが門は?」

「門と仰いますと?」

「ここの城館の門だ」

「閉めております」

「結構。だが鍵は手に入れられよう」

「鍵は領主様が腰に提げていらっしゃいます」

「出来のいい城館だな。まったく! 何て命令だ!」

 国王がそれ以上たずねたりしないとわかると、従僕は立ち去った。

 伯爵夫人は椅子に腰掛け、美しい薔薇を咬んでいた。その口唇は珊瑚のようだ。

「ねえ陛下」浮かべた微笑みには張りがなく、とてもデュ・バリー夫人のものとは思われなかった。「ちょっと可哀相に感じて来ました。お手をどうぞ。何とかして差し上げます。ション、明かりを」

 ションが先頭に立った。万が一危険が生じた場合に備えてのことだ。

 廊下の角まで来た時、食欲をそそる匂いが王の鼻をくすぐり始めた。

「おや!」国王は立ち止まった。「何の匂いだろう、伯爵夫人?」

「もう! お夜食の匂いですわ。リュシエンヌで召し上がって下さるとばかり思ってたんですもの。こうして準備させていたんです」

 ルイ十五世はその美味しそうな匂いを何回か嗅ぎながら、数時間も前から胃が自己主張を始めていたことを、胸の内で考えていた。騒ぎ立ててみても、馬丁を起こすのに半時間、馬を繋ぐのに十五分、マルリーまで十分は必要だ。マルリーに準備させていた訳ではないのだから、軽い食事しか取れないだろう。とろけるような匂いをもう一度嗅ぐと、伯爵夫人を連れて食堂の前で立ち止まった。

 二人分の食事が卓子の上で燦然と照らされ絢爛に装われていた。

「これは凄い! いい料理人がいるね」

「今日のはほんの小手調べ。陛下のお褒めに与るような素晴らしい料理を、これまで何度も作ってたんですから。ヴァテルみたいに、喉を掻き切ってしまいかねないくらい【※Vatel。ルイ十四世時代の料理人。祝宴に魚が間に合わなかった絶望で自殺した。】」

「それほどに?」

「特に雉の卵のオムレツ、これにはかなりの……」

「雉の卵のオムレツ? 余の大好物だ!」

「それは残念でした!」

「いやいや、伯爵夫人! 料理人をがっかりさせてはいかん」と国王は笑顔で言った。「夜食を取っている間に、ザモールも巡回から戻るだろう」

「じゃあ、それで決まりね」伯爵夫人は初戦を獲った喜びを隠すことが出来なかった。「どうぞこちらへ、陛下」

「だが給仕する人間がおらぬぞ」従僕を探したが見つからない。

「あら! あたくしが淹れたコーヒーじゃ美味しくありません?」

「そんなことはない。そなたが淹れてくれれば同じくらい旨かろう」

「よかった! じゃあこちらへ」

「食事は二人分だけかね? ションは食べぬのか?」

「陛下のご指示もないのにそんなことは出来ませんもの……」

「では命令だ!」国王手ずから棚から食器を取り出した。「さあション、向かいに坐りなさい」

「まあ陛下……」

「ああそうだ。控えめで従順な家来のふりなどして、偽善者めが! さあ伯爵夫人、余の側に、隣に。横顔も魅力的ではないか!」

「今日まで気づかなかったんですの?」

「何を言うか。いつも正面から見ていたからな。いやしかしそなたの料理人は大綬ものだ。このスープの旨いこと!」

「じゃあ前の料理人を馘首にしたのは正しかった?」

「正しい判断だ」

「でしたら、陛下もお試しになって。損はしませんもの」

「何の話だね」

「あたくしんところのショワズールを馘首したんだから、陛下のところのショワズールも馘首なさって下さらない?」

「政治の話は抜きだ。そのマディラ・ワインをもらおう」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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