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『ジョゼフ・バルサモ』 35-1 「代母と代子」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十五章 代母と代子

 気の毒な伯爵夫人……国王が使った呼び名を我々も使うことにしよう。目下のところその通りであるからだ。その気の毒な伯爵夫人は、不安に駆られてパリへの道を急いでいた。

 ジャンの手紙の第二段落に怯えていたションは、苦痛や不安を見せぬようリュシエンヌの私室に籠り、大通りでジルベールを拾おうなんて思いついたことを悔やんでいた。

 セーヌからロケットまでパリを囲んでいる、川まで達する下水道の上を飛ばし、ダンタン橋に着くと、四輪馬車が待っていた。

 馬車の中ではジャン子爵と代理人が熱心に話し込んでいたようだ。

 ジャンは伯爵夫人に気づくや、代理人を残して地面に飛び降り、馬車を急停止させようと御者に合図を送った。

「急げ。俺の馬車に乗るんだ。サン=ジェルマン=デ=プレまで行くんだ」

「ベアルン夫人にかつがれたって訳?」デュ・バリー夫人が馬車を乗り換えている間に、予めジャンから合図されていた代理人も同じようにした。

「多分ね。多分そうだ。仇に恩。いや、恩を仇で返された」

「何が起こったの?」

「簡単なことさ。俺はパリに残ってた。疑り深いんでね。そしたら案の定だ。夜九時になって『時の声』の周りを歩きまわっていたが、人通りもなく訪問客もない。何事もなく、順調だった。だから戻って眠ってもよさそうだと判断して、眠ったんだ。

「今朝、夜が明けて目が覚めてから、パトリスを起こして路標のところで見張りに就かせた。

「九時だ、いいか、予定より一時間早く、馬車で夫人を訪問した。パトリスに聞くと、怪しいものは見なかったと言う。それで安心して階段を上った。

「玄関で女中が俺を止めて、伯爵夫人は今日は外にお出でになれません、八日間かかるでしょうと抜かしやがった。

「不慮の事態は覚悟していたが、こんなのは予想しちゃいなかった。

「『外に出られないだと? 何があった?』

「『お具合が良くないのでございます』

「『具合が悪い? 馬鹿な! 昨日はいたって元気だったぞ』

「『ええ、それが奥さまはいつもチョコレートをお作りになるのですが、今朝は火に掛けていたところ、足にこぼしてしまいまして、火傷を負ってしまったんでございます。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけましたところ、奥さまは気も失わんばかりでございまして、私がベッドにお連れいたしました。今はお寝みになっているはずです』

「俺はそのレースのように青ざめて、声をあげたよ。

「『嘘だ!』

「『嘘ではありません、デュ・バリー様』梁も突き刺すような刺々しい声だった。『嘘ではございませんよ。もう痛いやら苦しいやら』

「声のした方に飛び出して無理に扉を押し開けると、そこには老婦人が実際に寝込んでいた。

「『ああ、伯爵夫人……!』

「それだけしか言えなかった。はらわたが煮えくりかえっていたから、喜んであの婆を絞め殺せたね。

「『これなんです』床に置いてある糞忌々しい湯沸かしを指して、『何もかもこのポットのせいなんでございますよ』

「俺はそのポットに飛びかかった。

「これでもうチョコレートは作れまい。それは確かだ。

「『何てひどい!』哀れっぽい声を出しやがる。『お妹さんを引き立てるのはダロワーニ夫人なんでしょうよ。そうなんでしょう! 書いてありました! 東洋人たちの言った通りだわ』」

「ああ、ジャン! がっかりさせないで」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「俺はがっかりなんてしないぜ。お前が会いに行ってくれ。そのために呼んだんだからな」

「でもどうして?」

「おいおい! お前になら、俺に出来ないことも出来るだろう。女なんだから、目の前で服を脱いでもらえばいい。化けの皮が剥がれたら、息子はこれからずっと田舎貴族のままだと言ってやれ。サリュース家の金にも一スーだって手は付けられないってな。俺はオレステスみたいに怒り狂った。それ以上の迫真の演技でカミラのように呪ってくれ」

「冗談でしょう!」

「好きでやってるわけじゃない」

「で、何処にいるの、我らが巫女は?」

「わかってるだろう。『時の声』亭だ。サン=ジェルマン=デ=プレの大きな黒い家で、鉄の看板に大きな雄鶏が描かれている。鉄が軋むと、鶏が鳴く」

「ひどいことになりそう」

「俺もそう思う。だが危険を冒す必要があるとも思う。俺もついて行こうか?」

「気をつけて頂戴。全部ぶち壊さないでね」

「代理人も同じことを言ってたよ、ここで相談していたんだが。ちなみに、家の中で人を殴れば罰金と牢獄行き。外で殴れば……」

「お咎めなし。ようくご存じでしょ」

 ジャンが口を歪めた。

「ふん! 払いが遅れるほど利子が貯まるってもんだ。今度あの男を見つけた日には……」

「今はあの女の話よ、ジャン」

「もう話すことはない。出かけてくれ!」

 ジャンは道を空け、馬車を通した。

「何処で待機してるの?」

「その旅籠で。イスパニア産のワインでも飲んで、助けが要りそうになったら駆けつける」

「馬車を出して!」伯爵夫人が叫んだ。

「サン=ジェルマン=デ=プレの『時の声』亭までだ」子爵が続けた。

 馬車は勢いよくシャン=ゼリゼーに躍り込んだ。

 十五分後、修道院教会《アバシャル》通りとマルシェ=サント=マルグリットの近くで馬車は止まった。

 その場所でデュ・バリー夫人は馬車から降りた。何せ相手は狡猾な老婦人、どうせ見張っているのに違いなく、馬車の音で気づかれたくはない。窓掛の陰にでも身を翻し、デュ・バリー夫人の訪れるのを見て悠々と逃げ出してしまうかもしれない。

 そこで伯爵夫人は従僕を連れて二人だけで修道院教会通りまで走った。建物が三軒しかなく、目指す旅籠は真ん中にあった。

 大きく開いた門から、入るというより躍り込んだ。

 誰にも見られなかった。だが木で出来た階段の手前で女将と出くわした。

「ベアルン夫人は?」

「ベアルン夫人は具合が悪いんで、お会いになれませんよ」

「ええ、そのことで、お加減を伺いに参りましたの」

 そう言って鳥のように軽やかに、あっという間に階段の上までたどり着いた。

「奥さま、奥さま、誰かが押しかけて来ました!」女将が声をあげた。

「どなたです?」部屋の奥から老婦人がたずねた。

「あたしよ」伯爵夫人がこの場にぴったりの表情を浮かべて戸口に現れた。即ち、礼儀正しく微笑み、いたわしそうに眉を寄せていたのである。

「伯爵夫人でしたか!」老婦人は真っ青になって震え出した。

「ええ、そうよ。さっき耳にして、お見舞いを申し上げに参りました。事故のことを聞かせて下さらない」

「ですけどこんな汚いところに腰を下ろしていただく訳にも参りませんからねえ」

「トゥレーヌにお城を持っているような方を旅籠に泊めたことはお詫びいたします」

 そう言って伯爵夫人は腰を下ろした。すぐには帰らないことはベアルン夫人にもわかった。

「かなりお悪そうですね?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「そりゃもう」

「右足ですの? まあ! でもどうして足を火傷なんかなさったんですか?」

「簡単なことですよ。取っ手を持つ手を滑らせてしまいまして、ちょっと熱湯をこぼして足にかけてしまったんでございます」

「ひどい話ね!」

 老婦人は溜息をついた。

「ええ、ひどい話です。でもどうしようもないじゃございませんか! 災難はまとめてやって来るものなんですよ」

「今朝は国王陛下がお待ち下さってるのよ?」

「ますます口惜しくて仕方ありませんよ」

「あなたに会い損ねたら陛下もいいお顔をなさらないわ」

「何分にも火傷がひどうございますから、ただただお詫び申し上げるだけでございます」

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