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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 37-1 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第三十七章 美容師もなし、ドレスもなし、馬車もなし

 デュ・バリー夫人が認証式の大広間に向かうのには、ヴェルサイユの部屋から出るのは都合が悪かった。

 第一に、ヴェルサイユにはこうした晴れの日に相応しい物があまりにも足りなかった。

 何よりも、結局のところいつもとはまったく違っていたのである。選ばれし者たちが、ヴェルサイユの宿やパリの自宅から、重々しい音を立てて到着していた。

 デュ・バリー夫人は出発点にパリの自宅を選んだ。

 朝の十一時にはヴァロワ通りに到着しており、ベアルン夫人も一緒だった。微笑みで縛ることが出来ない時には鍵を掛けて閉じ込めておいた。医学と化学の粋を集めて火傷は今も冷やされていた。

 前日からジャン・デュ・バリー、ション、ドレの三人は働き通しだった。その仕事ぶりを見ないことには、金の威力や人の能力について考えるのも難しかろう。

 一人は美容師を確保し、もう一人は仕立屋を急かした。ジャンは馬車担当だったが、仕立屋と美容師にも手を尽くした。伯爵夫人は花、ダイヤ、レースに没頭し、宝石箱の中に埋もれながら、次々ともたらされるヴェルサイユからの報せによって、王妃の間に明かりを入れるという命令が出されたこと、何一つ変わった点はないことを知った。

 四時頃、ジャン・デュ・バリーが戻って来た。青ざめて慌ててはいたが、上機嫌である。

「どう?」伯爵夫人がたずねた。

「どうだって! 準備万端だ」

「美容師は?」

「美容師のところでドレを見つけた。話はついた。五十ルイの手形を押し込んでやったんだ。六時ちょうどにここに夕食にやってくるから、おれたちはそこでのんびりしてればいい」

「ドレスは?」

「凄いのが出来るぞ。ションがしっかり監督していたからな。二十六人のお針子が真珠とリボンと飾りを縫っているところだ。そうやって一幅ごとに丁寧に仕上げているから、ほかの奴らだったら八日は取られただろうな」

「嘘でしょう、一幅ごとだなんて?」

「本当さ。生地は十三幅ある。一幅につき二人がかりだ。右と左に分かれてレースと宝石を縫いつけているから、最後の最後にならないと一つにならない。後二時間の辛抱だ。夕方六時にはドレスが手に入る」

「間違いないのね?」

「昨日のうちに技師と縫い目を計算しておいた。一幅当たり一万箇所だ。お針子一人につき五千だな。あれだけ厚い生地だと、一目縫うのに五秒はかかる。一分で十二、一時間で七百二十、十時間で七千二百。休憩も必要だし、縫い間違いもあるだろうから、二千二百は計算外としても、まだたっぷり四時間の余裕がある」

「それで馬車は?」

「ああ、馬車か! おれに任せとけって言っただろう。倉庫の中で五十度で塗装を乾かしているところだ。あの素晴らしさと比べちゃあ、王太子妃のお迎え馬車もかすみたいなもんさ。四つの扉の真ん中には紋章が描かれているし、おれが塗らせた方の二枚にはデュ・バリー家の標語『前進あるのみ!』があり、その脇で二羽の白鳩が矢で射られたハートを温めている。その周りを弓、矢筒、松明が取り囲んでいる。フランシャンのところには、あれを見に行列が出来ているぞ。八時ちょうどにはここに届く予定だ」

 この時、ションとドレが戻って来た。二人はジャンの言葉を裏づけた。

「ありがとう、みんな勇敢な右腕たちね」伯爵夫人が言った。

「隈が出来てるぞ。少し眠ったらどうだ。そうすれば元通りになる」

「眠る? ええ、そうね! 今夜は眠れそう。それに尽きるわね」

 こうして伯爵夫人邸で準備が進められている間も、認証式の噂が町を駆け巡っていた。無聊を慰めている者であろうと、無関心を装っている者であろうと、噂の嫌いなパリっ子などいない。十八世紀の野次馬ほど、宮廷人やその陰謀に詳しい人間はあるまい。いかなる祝宴にも潜り込むことは出来なかったし、ちんぷんかんぷんな馬車の羽目板や徹夜で走る急使の変わった服装を除けば、何も見たことはなかったのだが。そんなわけだから、貴族の誰それ氏がパリ中の有名人であるのも珍しいことではなかった。単純なことだ。劇場でも、遊歩道でも、宮廷人は主役を演じていた。つまりリシュリュー氏はイタリア劇を見ている間も、そしてデュ・バリー夫人は王妃のように豪華な馬車に乗っている間も、今日の喜劇役者や人気女優と同じように、人目を意識していたのである。

 見知った顔ほど興味が湧く。パリ中の人間がデュ・バリー夫人を知っていた。裕福で若く美しい婦人たちがしたがるように、デュ・バリー夫人は劇場、遊歩道、店舗に姿を見せることに熱心だったからだ。さらには肖像画、諷刺画、ザモールを通して知っていた。故に認証式のいきさつは、宮廷だけではなくパリにも広まっていた。その日のパレ=ロワイヤル広場にはいつも以上の人だかりが出来ていたが、哲学には申し訳ないことに、それはカフェ・ド・ラ・レジャンスでチェスを指すルソー氏を見るためではなく、噂に聞いた見事な馬車と見事なドレスに彩られた寵姫を見るためであった。ジャン・デュ・バリーの「おれたちはフランスに随分と金をかけている」という言葉には重みがある。パリの様子からも明らかなように、大金のかかった光景をフランスが満喫しようとするのは至極単純なことであった。

 デュ・バリー夫人は国民のことをよく理解していた。フランス人はもはやマリ・レクザンスカの頃とは違う。驚かされるのが好きなのだ。気立ての良いデュ・バリー夫人は、出したお金に見合った光景にしようと労をいとわなかった。義兄に言われた通りに眠る代わりに、五時から六時まで牛乳浴をし、六時には小間使いに世話をさせながら、美容師が来るのを待っていた。

 今日ではよく知られている時代について、お伝えすべき特別な事実はない。同時代と言ってもいいくらいだろうし、ほとんどの読者もご承知のことだ。だが今この場で、デュ・バリー夫人の髪を整えるのには大変な手間と時間と技術がかかるのだということを説明するのは的外れなことでもあるまい。

 完全なる建築物を思い描いて欲しい。若王ルイ十六世の宮廷では頭の上が銃眼だらけになっていたが、あの城塞の原型である。この時代にはあらゆるものが前触れとなる運命だったのだろうか。貴族や貴族もどきたちの足許の地面を穿っていた社会的情熱を反映して、頭の上に誇示しないと、貴族の女たちには特権を享受する時間がほとんどないことを、浮ついた流行が告げていたのだろうか。さらに不吉ではあるがやはり正確な予言によって、首を保護する時間もあまり残されていないことを知り、大げさなまでに飾り立て、何もない頭の上に出来るだけ高く聳えさせたのだろうか。

 こうした見事な髪を編むには、絹のクッションで持ち上げ、鯨鬚の鋳型に巻きつけ、宝石や真珠や花で飾りつけ、目に輝きを与え顔に与える雪をまぶす。仕上げに薄紅、螺鈿、ルビー、オパール、ダイヤモンド、あらゆる色の花をバランスよく整えるためには、大芸術家であると同時に、忍耐も必要だった。

 それ故、あらゆる職人の中でも整髪師だけは彫刻家のように剣を携えていた。

 これがジャン・デュ・バリーが宮廷美容師に五十ルイ差し出したことの理由であり、さらには大リュバンが――当時の宮廷美容師の名はリュバンといったのだが――そのリュバンが時間通りに来てくれぬのではないか、こっちが望んでいるほど巧みには仕上げてくれないのではないか、という不安の理由である。

 やがてその不安は的中した。六時の鐘が鳴っても、美容師は現れなかった。六時半、六時四十五分。心臓が破れるほどに脈を打つ。ただ一つ頼みの綱は、リュバンほどの才能の持ち主であれば、人を待たせるのも当然だということだ。

 だが無惨、七時の鐘が鳴った。用意した夕食も冷めてしまうだろう。不快な思いをさせることにはなるまいか。そこで密使を遣ってスープが出来ていることを報せに行った。

 従者が戻ってきたのは、十五分の後。

 同じような状況で待ち続けた人間だけが、十五分が何秒であるのかを知っている。

 従僕はリュバン夫人本人と口を聞いていた。夫人の曰く、夫は先ほど家を出た、もう着いている頃だろう。そうでなくとも向かっている途中なのは間違いあるまい。

「そうか、馬車に何かあったんだな。もう少し待とう」

「でもまだ妥協は出来ないわ。服を途中まで着ておいても髪は整えられる。認証式は十時なんだもの。まだ三時間あるし、ヴェルサイユには一時間で着けるでしょう。待っている間にドレスを見せて頂戴、ション、気晴らしになるわ。ねえ、ションは? ドレスだってば!」

「ドレスはまだ届いておりません」ドレが言った。「お妹さまは十五分前にお出かけになり、ご自身でお求めにいらっしゃいました」

「馬車の音が聞こえたぞ。きっと待ち人来たれり、だ」

 子爵は間違っていた。汗まみれの二頭の馬が牽いていたのは、戻って来たションの馬車だった。

「ドレスは?」ションがまだ玄関にいるうちに、伯爵夫人はたずねた。

「来てないの?」ションが驚いてたずねた。

「来てないわよ」

「そう。遅くはならないと思う」ほっとして続けた。「あたしが行った時には、仕立屋はもう辻馬車で出た後だったから。ドレス運びと着付けのためにお針子二人も一緒だって」

「家はバック通りだったな。その辻馬車は随分とのんびり馬を走らせてるじゃないか」

「ええ、そうね」そうは言ったものの、ションはある不安を抑えることが出来なかった。

「ねえ、馬車はこっちから取りに行かせたら?」デュ・バリー夫人が言った。「そうすれば馬車だけは待たなくてもいいもの」

「もっともだな、ジャンヌ」

 ジャン・デュ・バリーは扉を開けた。

「フランシャンのところに馬車を取りに行ってくれ。馬九頭も連れて行って、すべて繋いでおくんだ」

 御者と馬が出発した。

 馬車の音がサン=トノレ通りの方に小さくなった頃、ザモールが手紙を持って来た。

「バリー奥さまにお手紙です」

「誰から?」

「男です」

「男? どんな男なの?」

「馬に乗った男です」

「どうしてお前に渡したのかしら?」

「ザモールが玄関にいたからです」

「質問は後だ、まずは読もうじゃないか」ジャンが堪えきれずに喚いた。

「そうね」

「凶報じゃなければいいんだが」

「まさか。陛下に届けて欲しい請願書か何かでしょう」

「請願書の折り方ではないぞ」

「死ぬほど怖がってるのね」伯爵夫人は微笑み、封印を切った。

 一行目を読んだ途端に恐ろしい悲鳴をあげ、死んだようになって椅子に倒れ込んだ。

「美容師も、ドレスも、馬車もないですって!」

 ションが伯爵夫人に駆け寄り、ジャンが手紙を奪い取った。

 まっすぐで小さな文字は、間違いなく女の手になるものだ。

『マダム、お気をつけ下さい。今夜は美容師もドレスも馬車も手に入らないでしょう。
 この助言が間に合うといいのですが。
 恩に着せるつもりはありませんので、名前は申しません。お知りになりたい時はご想像下さい』

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