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 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』 40-2 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

 ションは心も魂もヴェルサイユの住人であったので、宮殿を離れて新鮮な空気を吸いに森や牧場に向かうのが楽しくて仕方がなかった。手足を伸ばして、町から出るや、ほとんど人が変わってしまった。

「ねえ! ヴェルサイユはどうだった、哲学者ちゃん?」

「凄いとしか言いようが。でももうヴェルサイユを出たんですよね?」

「ええそう、うちに向かってるの」

「あなたのお宅と仰ったんですか?」ジルベールのぶすったれた声が和らいだ。

「そう言ったつもり。ジャンヌに会わせようと思って。気に入られるように頑張ってね。今はフランス中の大貴族がそうしようと夢中なんだから。ところでグランジュさん、この子の服を一揃い用意してくれないかしら」

 ジルベールは耳まで真っ赤になった。

「どのような服にいたしましょう? 普通のお仕着せで構いませんか?」

 ジルベールは座席の上で飛び上がった。

「お仕着せですって!」憎しみのこもった目つきを家令に向けた。

「違うってば。そうね……後で言うわ。義妹に話したいことがあるし。だけどついでにザモールの服も注文するのだけは忘れないで」

「わかりました」

「ザモールは知ってる?」この話に驚いているらしいジルベールに声をかけた。

「いえ、残念ですが」

「あなたの同僚みたいなもの。もうすぐリュシエンヌの領主になるの。仲良くしてあげて。何だかんだ言ってもいい子だから。肌の色は関係ないわ」

 ザモールの肌が何色なのかたずねようとしたが、好奇心についての忠告を思い出し、再び小言を食らうのはご免だと、質問を飲み込んだ。

「頑張ります」と言って、威厳をたたえた微笑みを浮かべるだけでやめておいた。

 リュシエンヌに到着した。哲学者君はすべてを目にしていた。植樹されたばかりの道路、緑なす丘、ローマ時代のような大水路、葉の茂った栗の木、そして本館に向かって流れるセーヌ両岸を伴走する素晴らしい平野と森の景色。

「じゃあここが」とジルベールは独語した。「フランス中のお金を費やした城館だ、とタヴェルネ男爵が言っていたところか!」

 犬が喜び勇み、使用人がいそいそと駆け寄ってションに挨拶をしたために、ジルベールの貴族哲学的断想は中断された。

「もう帰って来た?」

「まだお戻りになりませんが、お客様がお待ちでございます」

「どなた?」

「大法官様、警視総監様、デギヨン公爵です」

「そう。急いで中国の間を開けて来て。義妹にはほかの人より先に会っておきたいの。戻って来たらあたしが待っていると伝えて頂戴、わかった? ああ、シルヴィー!」ションは小箱と子犬を預かりに来た小間使いか何かに声をかけた。「小箱とミザプーはグランジュさんに渡してね。それからこの哲学者ちゃんはザモールのところに連れて行って頂戴」

 シルヴィー嬢は辺りを見回した。ションの言っているのがどんな動物なのか確かめようとしたのだろう。だがシルヴィー嬢の視線とションの視線がジルベールの上でかち合ったところで、この若者のことよ、とションが目配せした。

「こちらに」シルヴィーが言った。

 ジルベールがぽかんとしながら小間使いについて行くと、ションの方は鳥のように軽やかに脇の扉から姿を消した。

 ションの言葉が命令調ではなかったために、ジルベールはシルヴィーを小間使いというよりむしろ貴婦人のように考えた。第一、服装もニコルのものよりはアンドレのものに似ている。シルヴィーはジルベールの手を取ってにこやかに微笑んだ。というのも、ションの話しぶりから言って、新しい恋人とは行かぬまでも新しい遊び相手だろうと察したからだ。

 シルヴィー嬢は、飲み込みが早く、背の高い美しい娘だった。目は濃い青、白い肌にはうっすらとそばかすが浮かび、燃えるように美しい金髪をしていた。口元は瑞々しくほっそりとして、歯は白く、腕はふくよかで、そのことがジルベールに以前の艶事を思い出させた。ニコルが話していたあの蜜月のことが、甘苦しい震えと共に甦っていた。

 ご婦人というものはその種のことに聡い。シルヴィー嬢もすぐに感づいて笑みを洩らした。

「お名前をお聞かせ下さいますか、ムッシュー?」

「ジルベールと申します」我らが青年は柔らかな声で答えた。

「ではジルベールさま、ザモール閣下のところにご案内いたします」

「リュシエンヌの領主ですね?」

「領主です」

 ジルベールは腕を伸ばし、袖口で服を拭い、ハンカチで手をこすった。重要人物の前に出るのかと思うと、怯みそうになる。だが「ザモールはいい子よ」という言葉を思い出して、心を落ち着けた。

 既に伯爵夫人とも子爵とも親しい。これから領主とも親しくなるのだ。

 ――宮廷では誰とでもすぐに親しくなれると陰口を叩かれるのだろうか? この人たちは親切でいい人じゃないか。

 シルヴィーが控えの間の扉を開けた。そこは私室とも見まがうほどで、羽目板の鼈甲には金張りの銅が嵌められ、古代ローマの将軍ルクルスのアトリウムかとも思われただろう。無論ルクルス家の象眼は純金であったが。綿の詰まった大きな肘掛椅子の上で足を組み、チョコレートをかじっているのが、ご存じザモール閣下だった。もっとも、ジルベールはまだそれを知らない。

 だから将来のリュシエンヌ領主の姿を目にして哲学者殿の顔に浮かんだのは、まことにけったいな表情であった。

「何だ?」ジルベールはその人物を冷たく見据えていた。黒ん坊を見るのは初めてだったのだ。「何だ? あれは何だ?」

 ザモールの方は頭を上げもせずに、相変わらず菓子をかじったまま、幸せそうに白目を回していた。

「ザモール閣下です」シルヴィーが答えた。

「あの人が?」ジルベールは唖然とした。

「そうですよ」シルヴィーはことの成り行きとは裏腹に笑って答えた。

「領主だって? この醜い猿がリュシエンヌの領主? からかってらっしゃるんでしょう?」

 この侮辱にザモールが身体を起こして白い歯を剥き出した。

「私は領主です、猿ではありません」

 ジルベールはザモールからシルヴィーに戸惑うような視線を移したが、堪えきれずに笑っているのを見て怒りを感じた。

 ザモールの方はインドの神像のように厳めしく泰然として、繻子の袋に黒い爪を戻してまたもぐもぐとやり出した。

 その時扉が開き、グランジュ氏が仕立屋を連れて入って来た。

 ジルベールを指さし、「この人の服です。説明した通りにサイズを測って下さい」

 ジルベールは無意識のうちに腕と肩をしゃちほこばらせ、シルヴィーとグランジュ氏は部屋の隅で話をしている。シルヴィーはグランジュ氏の言葉の一つ一つに声を立てて笑っていた。

「え、可愛い! スガナレルみたいなとんがり帽子なの?」

 ジルベールは続きを聞きもせず、出し抜けに仕立屋を押しやった。何があろうとこれ以上おままごとに付き合わされるのはご免だ。スガナレルとは何者か知らないが、名前といいシルヴィーの笑いといい、滑稽極まりない人物に決まっている。

「まあまあ」家令が仕立屋に言った。「乱暴はしないで。もう充分なのでは?」

「仰る通りです。それに、ゆとりを持たせれば破れませんしね。大きめに作ることにしましょう。」

 それからシルヴィー嬢、家令、仕立屋は部屋を出たため、ジルベールは黒ん坊と差し向かいで残された。相変わらず菓子をかじり、白目をぐりぐりと回している。

 田舎者の目にはあまりにも謎めいていた。タヴェルネにいる時以上に尊厳を踏みにじられたと悟った(と言おうか、悟ったと思っている)哲学者にとっては、あまりにも恐ろしく、あまりにも苦しかった。

 それでもどうにかザモールに話しかけてみた。きっとインドか何処かの王子なのだろう。クレビヨン・フィスの小説で読んだことがある。

 だがそのインドの王子は、答える代わりに鏡の前に行って自分の豪華な衣装を眺め始めた。まるで結婚式の花嫁だった。それから車輪付きの椅子に馬乗りになると、足で床を蹴り、控えの間を十周ほど回り出した。その速さを見れば、この独創的な遊びを究めるのにどれだけ練習を重ねたのか想像もつこうというものだ。

 突然ベルが鳴った。ザモールは椅子を放ったらかしにして扉の一つから駆け出して行った。

 ベルに対するその素早い反応を見て、ザモールは王子ではないのだとジルベールは得心した。

 ジルベールはザモールに続いてその扉から出て行くつもりだった。だがサロンに通じている廊下の端まで来ると、青や赤の紐が見え、図々しく横柄で出しゃばりな従僕たちが番をしていた。血管に震えが走り、額に汗が浮かぶのを感じながら、ジルベールは控えの間に戻った。

 こうして一時間が過ぎた。ザモールは戻って来ておらず、シルヴィー嬢は相変わらず姿を見せない。誰でもいいから人の顔が見たかった。よくわからないことを言って脅かしておいて仕上げに行った仕立屋の顔でもよかった。

 ちょうど一時間過ぎ、入って来る時に開けたのと同じ扉が開き、従僕が現れてこう言った。

「どうぞ!」

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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