翻訳連載ブログ
 「ロングマール翻訳書房」より、翻訳連載blog

『ジョゼフ・バルサモ』41-2

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

「終わりにしましょう」とションが言った。「でも、三人の人間に好かれるだけでいいのに」

「その三人とは?」

「国王、義妹、あたし」

「そのためには何をすればいいんですか?」

「ザモールには会った?」ジルベールの質問にまともに答えることを避けて、たずねた。

「あの黒ん坊ですか?」声には軽蔑の色が滲んでいた。

「ええ、あの黒ん坊」

「あれと何の関係があるんです?」

「運命だと思わなきゃ。あの子はもう国王の金庫に二千リーヴルも国債を持ってるの。もうすぐリュシエンヌの領主に任命されて、口唇の厚さや肌の色を馬鹿にしていた人たちも、ご機嫌を取ってムッシューって呼んだり、もしかすると閣下って呼んだりするかもしれない」

「僕は違います」

「ほらほら、哲学者の玉条は、『人はみな平等である』じゃなかったの?」

「だからザモールを閣下と呼ぶつもりはないんです」

 見事なパンチを喰らって、今度はションが口唇を咬む番だった。

「じゃあ野心はないの?」

「まさか!」ジルベールの目が輝いた。「そんなことはありません」

「確かお医者さんだったわね?」

「世界一立派な人間になって、同胞たちを救う仕事に就きたいんです」

「きっと叶うわ」

「そうでしょうか?」

「あなたは医者になる、それも国王付の医者にね」

「僕が? 医学の初歩も知らないのに……ご冗談でしょう?」

「ザモールが落とし門や石落としや堀の外壁が何なのか知っているとでも? そんなわけないじゃない。知りもしないし、知らないことを気にもしてないわ。リュシエンヌの領主であることに変わりはないもの。肩書きに加えてすべての特権もついて来るし」

「ええ、わかりますとも」ジルベールの声には棘があった。「道化が一人では足りないんでしょう。国王陛下が退屈なさって、二人必要になったんだ」

「ほら。誰かさんったらまたがっかりした顔をしてる。ほんとあなたって、人を喜ばせるとなるとぶさいくになるのね。取りあえず可笑しな顔をしておいて頂戴。かつらを頭にかぶせて、とんがり帽子をかつらに乗せている間は、ぶすったれないでおどけてみせてよ」

 ジルベールはまたもや眉をひそめた。

「ねえ、Tresme公がデュ・バリー夫人の尾巻猿の地位を願い出ているって知ったなら、陛下付の医者という地位もすんなり受け入れられるでしょう?」

 ジルベールが何も答えなかったので、ションは諺を都合よく解釈した。曰く、答えのないのは同意の印。

「仲良くしてくれたことだし、手始めに、これからは配膳室で食事を取らなくていいわ」[*1]

「ああ、ありがとうございます」

「気にしないで。こうなることはわかっていたから予めそういう指示は出しておいたの」

「それで、何処で食べればいいのでしょうか?」

「ザモールと一緒」

「え?」

「そうよ。領主と医者だもの、同じ食卓に着くのはおかしくないでしょう。よければ夕食を取りにどうぞ」

「お腹は空いていません」ジルベールは憮然とした声を出した。

 ションは落ち着き払っていた。「いいわ、今は空いてないでしょうけれど、夜には空くでしょう」

 ジルベールは首を横に振った。

「夜じゃくても、明日、明後日には。そのうち折れることになるわよ。それにあんまり迷惑をかけるようなら、あたしたちには忠実な矯正監もいるんだから」

 ジルベールは身震いして青ざめた。

「ザモール閣下のところに戻りなさい」ションが冷やかに告げた。「悪くないはずよ。料理は申し分ないし。でも礼儀は忘れないこと。でないと痛い目を見る羽目になるわよ」

 ジルベールは頭を垂れた。

 心を決めた時には返事をする代わりにそうするのが癖なのだ。

 ジルベールが部屋を出ると、先ほどの従僕が待ちかまえていた。案内された小食堂は、さっきまでいた控えの間のすぐ隣だ。ザモールが食卓に着いていた。

 ジルベールは傍らに坐ったものの、どうしても食べることは出来なかった。

 三時の鐘が鳴った。デュ・バリー夫人はパリに向かった。ションは後で合流することにして、厄介者を手なずけるための指示を与えた。いい子にすれば甘いお菓子をたっぷりと。強情を張るようならしばらく閉じ込めてから脅しの言葉をたっぷりと。

 四時になると、ジルベールの部屋に『いやいやながら医者にされ』の衣装が届けられた。とんがり帽子、かつら、黒タイツ、同じ色の上着。飾り襟、杖、大きな本も添えられていた。

 衣装を運んできた従僕が、一つ一つ目の前に見せ始めた。ジルベールは抵抗する素振りも見せなかった。

 グランジュ氏が従僕の後ろから入って来て、衣装の着け方を教えた。ジルベールはその説明をじっと聞いていた。

「確か――」とジルベールはそれだけ言った。「昔の医者は文箱と紙巻きを持っていたと思います」

「おや、本当だ。誰か文箱を見つけて来て、ベルトに吊るしなさい」

「羽根ペンと紙もお願いします。どうせなら完璧な衣装を着けたいので」

 従僕が飛び出して行った。指示に従うと同時に、ジルベールがやる気になっているとションに伝えに行ったのだ。

 ションは大喜びして、八エキュ入りの巾着を使いに手渡し、お利口な医者のベルトにインク壺と一緒に結びつけさせた。

「ありがとう」衣装を運んで来た従僕に、ジルベールは礼を言った。「ところで、着替えたいから一人にしてもらえませんか?」

「でしたら急ぐように」グランジュ氏が言った。「そうすればパリに発つ前にお嬢様にご覧いただけます」

「三十分。三十分だけお願いします」

「必要なら四十五分だ、お医者さま」家令はそう告げて、金庫の扉を閉めるように極めて慎重に扉を閉めた。

 ジルベールはつま先立って扉まで忍び寄り、耳を澄まして足音が遠ざかるのを確かめた。それから窓まで音を立てず移動した。そこから下のテラスまで十八ピエある。細かい砂の蒔かれたテラスは、大きな木々に囲まれて、その葉がベランダに覆いかぶさるほどだった。

 ジルベールは上着を三つに裂いて端と端を結んでから、帽子を卓子に、帽子の側に巾着を置いて、手紙を書き始めた。

『マダム、一番の財産は自由です。人間にとって一番大切なことは、その自由を守ることです。あなたに自由を奪われてしまうので、僕は逃げ出します。ジルベール』

 ジルベールは手紙を折りたたみ、ション宛てに宛名を書くと、十二ピエの布地を窓の格子に結びつけ、蛇のように下端まで滑り降りると、命の危険も顧みずテラスに飛び降りた。ちょっと無茶な行動ではあったが、木に飛びついて枝にしがみつき、栗鼠のように葉陰に滑り込んで、地面に降りた。そして全速力でヴィル=ダヴレーの森の方に姿を消した。

 三十分後に人が戻って来た頃には、ジルベールはとっくに手の届かないところにいた。

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東 照《あずま・てる》(wilderたむ改め)
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