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『ジョゼフ・バルサモ』 42-1「老人」 アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ『ジョゼフ・バルサモ』 翻訳中 → 初めから読む

第四十二章 老人

 ジルベールは追手を恐れて街道は通らなかった。木立から木立を抜けて、やがて大きな森のようなところで立ち止まった。四十五分で一里半ほど稼いだことになる。

 辺りを見回したが、ここにいるのは自分だけだとわかり、ほっと一安心して街道に出ようとした。間違っていなければ、パリに通じているはずだ。

 だが何頭かの馬がロカンクールから橙色の制服に引かれてやって来るのを見て、ひどく不安になり、道に出るのをやめて森に舞い戻った。

 ――栗の木の陰で休もう。追手がいても、捜すなら街道を捜すだろうし。木から木へ、辻から辻へ、今夜の内にパリに潜り込むぞ。パリは大きいと言うし。僕みたいな小さな人間はすぐに紛れてしまうはずだ。

 これはいい考えに思えた。天気がいいのと同じくらい。森が暗いのや、地面が苔むしているのと同じくらいに。それまでは陽光が草を焼き、地面から花や草の甘い香りを立ちのぼらせていたが、そんな厳しく容赦ない太陽もマルリーの丘の後ろに隠れ始めた。

 その頃になると空に穏やかな深い静寂が訪れ、辺りも暗くなり始めた。花びらを閉じた花が、眠りに就いた昆虫をがくの中に匿い出す。ぎらぎらとてかった身体でぶんぶんと唸っていた羽虫たちは、木の洞の我が家に帰還し、鳥たちは声も立てず葉陰に移り、聞こえるのはかすかな羽擦れの音だけ、なおも響いている歌声はツグミの甲高い鳴き声と、駒鳥の控えめな囀りだけである。

 森はジルベールにとっては庭も同然だ。物音のことも静寂のこともわきまえていた。だからあれこれ考えたり子供っぽい恐怖に囚われたりすることもなく、枯葉の散らばったヒースに飛び込んだ。

 不安などなかった。それどころか、非常に満足していた。混じり気のない自由な空気を目一杯吸い込むたびに、禁欲的なジルベールは、人間の弱さに対し張りめぐらされた罠などことごとく克服したような気持になっていた。パンもお金も家もないのが何だというんだ? 不自由だったじゃないか? 好きなように出来なかったじゃないか?

 大きな栗の木の下で横になると、苔むした太い根と根の間がちょうど柔らかなベッドになった。空を見上げて微笑むと、ジルベールは眠りに就いた。

 鳥の鳴き声で目が覚めた。まだ日が出たばかりだ。堅い木のせいで痛む肘を起こすと、青く霞む曙光が三つ又にたなびいているのが見える。耳を澄ませば露に濡れた小径を兎が素早く駆け抜け、物好きな鹿が丈夫な脚を踏みしめて道の真ん中で立ち止まり、木陰に横たわる見慣れぬ存在を見つめてから、本能に導かれるままにとっとと逃げ出していた。

 すっかり起き上がるとお腹が空いていることに気づいた。そういえば昨日、ザモールとの会食を拒んだのだっけ。ヴェルサイユの屋根裏で昼食を食べてから、何も口にしていないことになる。自分が木々の天幕の下にいることにようやく気がついたが、ロレーヌとシャンパーニュの木立を堂々と踏破したジルベールには、夜中にアンドレを待ち伏せしようとした翌朝にタヴェルネの茂みやピエールフィットの藪の中で目が覚めたほどにしか思えなかった。

 だがいつもなら傍らには呼び戻されたことに驚いていた山鶉の雛や、木にとまっていたのを仕留めた雉があるのに、今は近くには帽子しか見えなかった。長旅でくたびれているうえに朝露ですっかり駄目になっている。

 つまり、これまでのことは夢ではなかったんだ。目を覚ましてすぐにそう思った。ヴェルサイユやリュシエンヌは現実だった。意気揚々とヴェルサイユに入り、リュシエンヌを出る時には怯えていたのだ。

 こうして現実に引き戻されたせいで、ますます空腹が募り、ますます辛くなって来た。

 ジルベールは無意識のうちに辺りを探していた。風味豊かな桑の実、野生のリンボクの実、しゃきしゃきとした木の根っこ。これは蕪よりは渋いものの、朝から肩に道具を担いで開墾地に向かう木樵たちには珍重されていた。

 だがまだそんな季節ではなかったし、見つかったのは奏皮、楡、栗、よく砂地で見かけるどんぐりだけだった。

 ――すぐにパリに向かおう。後まだ三、四里、多くても五里、それなら二時間で行ける。二時間くらいが何だ! それで楽になれるんだぞ。パリならパンもあるし、正直で勤勉な若者だとわかれば、職人さんだって働いた駄賃にパンを分けてくれるはずだ。

 日中には次の日の食事のことを考えるとして、その後は? 何も。次の日もまたその次の日も、僕は成長し、近づいてゆくんだ……目指す目的に。

 ジルベールは足を早めた。街道に戻りたいのに、方角の見当がつかない。タヴェルネや近隣の森でなら、東も西もよくわかっていた。その時々の太陽が時刻も道も教えてくれた。夜には星が案内役だった。それが金星や土星や明けの明星という名で呼ばれていることは知らなかったけれど。ところがこんな知らない土地では、誰にも増して何もわからない。道を求めてあちこちをでたらめに探すしかなかった。

 ――よかった。道しるべが見える。

 辻まで進むと、そこには道しるべがあった。

 確かに三つ。一つはマレ=ジョーヌ(Marais-Jaune)、一つはシャン・ド・ラルエット(Champ de l'Alouette)、一つはトル=サレ(Trou-Salé)を指していた。

 ほとんど進んでいなかったのだ。森から出られないまま三時間もかけて、ロン・デュ・ロワ(Rond du Roi)から王子ヶ辻(carrefour des Princes)まで戻っていたことになる。

 額に汗を流し、何度も上着を脱ぎ捨て栗の木に登った。だがてっぺんまで登っても、見えるのはヴェルサイユだけだった。ある時は右に、ある時は左に。ヴェルサイユに連れ戻されるのが運命なのではないかと思えた。

 リュシエンヌの連中がこぞって追いかけて来ると思い込んでいたため街道に出ようとはせず、常に木陰に身を潜めながら、気が狂ったようになってヴィロフレ、シャヴィーユ、セーヴルを通り過ぎた。

 ムードンの城館で五時半の鐘が鳴る頃には、工場とベルビューの間にあるカプチン修道院まで来ていた。十字架の上に登るとセーヌ川、市場町、手前側の人家の煙が見えた。十字架が折れることも、シルヴァンのように高等法院から車責めの判決を受けることもいとわなかった。

 だがセーヌ川の脇、町の真ん中、家々の門前には、あれほど遠ざかりたいと思っていたヴェルサイユの街道があった。

 ジルベールはしばし疲れも空腹も忘れた。地平線の向こうにまだいくつもの家屋が朝靄に隠れているのが見えたのだ。間違いない、あれがパリだ。町を目指して駆け出し、息が上がるまで走り続けた。

 気づけばムードンの森の真ん中、フルーリー(Fleury)とプレシ=ピケ(Plessis-Piquet)の間にいた。

 ぐるりと見回し、――さあ、遠慮なんかいらない。早起きの職人を見つけるんだ。きっとパンを抱えているから、「人はみな兄弟、助け合わなくてはいけません。あなたはパンをお持ちですが、昼食にはちょっと多いし、一日分だとしても余りそうですよね。ところが僕はお腹が空いているんです」と言おう。そうすればきっとパンを半分分けてくれないだろうか。

 飢えのせいでますます哲学者じみて来たジルベールは、頭の中で反芻し続けた。

 ――だいたい、すべてのものを地上の人間は分かち合っているんじゃないのか? すべてを生み出した普遍の神が、土を肥やす空気や果実を肥やす土を、こっちに与えようかあっちに与えようか選り分けたとでも言うのだろうか? なのに搾取されているものもある。だが主の目から見れば、哲学者の目で見たのと同じく、人は何物も所有していないはずだ。人が持てるものは神が貸し与えたものだけなんだから。

 ジルベールは、当時の人々が感じ取っていた曖昧で不確かな考えを直感的にまとめただけに過ぎない。それは雲のように空中に漂い頭上を移ろい、ただ一つのことに向かって積もり積もった、嵐の前触れであった。

 ジルベールは道を進みながら再び考えに耽った。――一部の人が万人のものを我がものにしている。そいつらから力ずくで奪うことは出来るはずだ。本来は分かち合わなくてはならないものなのだから。同胞がパンを山ほど持っていたとして、パンをくれるのを拒んだとしたら! 僕は……動物に倣い、あらゆる良識と正道に従って、力ずくで奪うつもりだ。だってそれが自然な欲求の流れなんだから。もしかするとこんな風に言われるかもしれない。「君が欲しがっているのは妻と子供の分だ」と。あるいは、「俺は力持ちでね、君がどう言おうとこのパンはいただくよ」と。

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